2021年3月22日月曜日

民主政体の違いとは何か?

 アラスカで米中の「外交トップ会談」が行われた。「外交トップ」ってなんだ? なぜ外相会談ではないのかという疑問は、TVニュースの画面を見ているとすぐに分かった。中国の外相は沈黙したまま。その脇に座る共産党政治局員が「トップ」として喋り倒している。そうか、もう黒子でいることができず、表舞台に顔出しするようになったか。

 その楊潔篪(ようけっち)共産党政治局員が「中国も民主主義、アメリカとは民主政体が違う」と述べて、「内政に干渉するのをやめて、自国のことに注力すべきだ」と述べているのが、気になった。この政治局員のいう「民主主義」ってなんだ? 

 ふだん日本社会で使われる民主主義というのは、人々の意志を反映するというほどの意味で使われている。選挙というのは、その、政治体制における一つの方法。近頃は形骸化して、何を選んでいるのかわからなくなっている。選ばれた人たちは、その結果付与された権力をつかってわがまま放題をしているからだ。

 それに対して中国共産党政治局員のいう「民主主義」は「民衆の暮らしを中軸に据えた政治理念」というほどの意味だろう。中身に踏み込めば「正しい民意を汲みだしてそれを政治過程に反映する」というであろうが、「正しい民意」というのは、必ずしも民衆が抱いている意思を意味していない。イデオロギーによって目が曇らされている民衆の「正しい民意」は、「真理・真実」を見抜ける知的力をもった共産党によって把握されるとし、「正しい民意を汲んだ政治」の政治過程はことごとく共産党によって「指導」されなければならないと考えている。つまり、そういう論理を用いて独裁政治を正当化しているといえる。共産党の前衛理論である。

 こうしてみると、共産党の前衛理論から紡ぎだされる共産党独裁の正統性は、カント的な近代的理念の延長上にある産物だとわかる。となると、アメリカの考える合理性と中国共産党の考える合理性とは、ほぼ同じ次元でやりとりできる質のものではないか。それが厳しく対立するというのは、ただ単に、現象する利害が相反するからであって、そこで折り合うことができれば、対立は解消するのではないか。

 もしそうなら、とても私の腑に落ちる話ではない。どうしてなのだろうか。

「民衆の意思を反映する」というのと「民意を汲む」というのと、どこが違うか。

 前者は、イデオロギーに曇らされているかどうかを問わず、また、ときどきの選択によって気移りするかどうかも含めて、民衆が選択する「意思(と擬されること)」を尊重する。つまり「真理」とか「真実」があるとは決めてかからず、誤魔化しや流言飛語やフェイクニュースなどに惑わされるもろもろをも十把一絡げにして、結果として選択されたものを「とりあえずの最高策」とみなす。そういうことをすると、状況によって移ろいやすいし、実際に、移ろう。だからそれを安定させるための制度的固着をある程度整える。代議制の不信任や解散もそうだし、両院制というのも、その一つだと考えることができる。科学的知見や公正・公平な理念なども、その一角を占める。

 つまり、移ろうのが民主主義なのだ。時間を掛けて試行錯誤し、最良の方途を探る。そのためには、「意思を選択する」民衆に対して、いま何が起こっており、何が問題であり、どうすることが必要かと問い、その「意思」を選択する土台となる共通の情報を提供するシステムが不可欠である。透明性である。かつては、一億人を超える大人数が寄り集まってそれをやることはできないから、議会がもうけられ、政党が誕生し、無数の意見をある程度集約して選挙も行われるし、議会で質疑が取り交わされる。そうすることによってゆるやかに合意形成というかたちをとる。そう考えられてきた。ところが、情報化社会になって、人々の意志を表明するメディアが広範に用いられるようになった。もし必要とすれば、いろいろなかたちで民意を集約することも可能になっている。つまり、「民衆の意思を反映する」という政治システムを真っ正直に整えようとするなら、台湾が採用している「オープン・ガバメント」へと進んでいくことも可能なのである。

 他方、中国共産党の前衛理論が掲げる「正しい民意」路線は、実際には共産党の独裁に対する批判を封じ込める必要が生じてくる。13億もの人口を抱える8000万人の共産党員が「正しい民意」を代表すると絶対的にいえない事象が、あちらでもこちらでも生じてくる。資本家社会的な市場システムを採用していることもあって、社会に発生する格差の拡大や優勝劣敗のことごとに対して、「正しい審判」を下すことも、難しくなる。当然のように批判は広まり、深まり、独裁体制を危うくする。香港がその象徴であった。「愛国者が統治する」という香港統治のために設けられた法的絶対用件は、共産党の存立を危うくすることを認めないと宣言するものであるから、端から「民衆の意思を反映する」ことは除外されている。いわば「原初的否定性」から出発しているわけであるから、ダメなものはダメという同義反復が繰り返されているだけなのだ。

 これでは、「民主主義」という言葉の折り合いがつくはずもなく、米中のトップ会談は、政治的折り合いの付け所を探ることしかできない。つまり私たち民衆にとっては、「意思を表明する」機会も与えられないまま、為政者の意思に振り回されるばかりなのだ。

 ただ、ひとつ、かすかな「希望」を思わせる言質を、中国共産党政治局員の台詞に見つけた。ウィグルやチベットに対する人権弾圧を非難したアメリカに対して、「上から目線でものを言う資格はない」と非難し返したことだ。つまり、アメリカの「人権擁護」発言を「上から目線」と呼ばわる政治局員は、その一点で、アメリカの理念の方が上位に位置していると認めているのだ。ここが、唯一、第二次大戦後の遺産として「共有できる」としたら、その点に関して、アメリカのみならず、日本もヨーロッパも韓国も、全面的に「人権尊重の政治とはかくなるもの」という実績と実態を展開してみせなければならない。そこに唯一、台湾を含めた、中国共産党の独裁政治に対する突破口があるように思った。

 アメリカにことよせていえば、その政治展開の情報に関する透明性が、根柢的には確保されるかどうかが、長い目で見たときの「希望」になる。アメリカも危ういことは、トランプの登場が明らかにした。バイデンが、旧来の知的枠組みを引きずるだけで「民意を反映しているつもり」になっていたら、4年後にまた、しっぺ返しを食らう。そこに台湾の「オープン・ガバメント」を重ねていけば、若い人たちの力を揮う時代ややってくるように思った。

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