2021年3月2日火曜日

行雲流水のごとき関係

 寺地はるな『水を縫う』(集英社、2020年)を読む。女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている、と思った。そう思うこと自体が、女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない。だが、そういう表現しか思い浮かばないのは、私の感覚の裡にどっかと座っている経験的に身に染み付いたセンスがあるからだ。如何ともしがたい。もしそれを対象として突き放してみるなら、標題のような「行雲流水のごとき関係」というほかないかな。

 実存の心地よい関係は、しかし、起点に個体の自律がなくてはならない。言葉を換えていえば、それはたぶん、存在の軸というような確固たる勁さであろう。軸が勁さをもつまでの間に、異質性や孤立をものともせずに世の中を渡りゆく「かんけい」に係留されていなければならない、個の形成の不思議があるのだが、この作品は、それらは前提にされて、話しがはじまっている。つまり、(作者も読者も気づかぬうちにかたちづくられた)大いなる幸運に恵まれた舞台で、さらに実存の心地よい関係を紡ぐ物語が展開している。

 起点にある個体の自律が、社会関係のなかに己を位置づけることができ、生計を保つにあることは、いうまでもない。そこに到達するのが、今のご時世、ずいぶん大変なのだ。水を縫うどころか、わが身が水の一滴となり、地肌の凸凹に翻弄されるがままに奔流となって流れ落ちてゆく。なぜ、どこへ向かっているかもわからないまま、気が付いてみると、すっかり流れのクセに染まり、わが身がなんであるかさえ問うこともできないところに流れ着いている。

 寺地はるなは、しかし、実存の心地よい関係を紡ぎだすのは、己自身を見つめる勁さをもつことからはじめるしかない、と訴えているのかもしれない。個体の自律が、最初から確固たる形をとって実在するわけではない。それを実在させるのは、わが身の持ち来った感性を、まず己自身が受け容れること。それが、その個体の自律を受け容れる関係をかたちづくる核となり、結晶となる。人のため、世のためという言葉は核にもならなければ、軸にもならない。

 では、どこに女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない「女の感覚からみた」ことが出ているのか。自律した個体の特異性に対する世の中の「偏見」に基づく攻撃が上手に躱され、物語から遠ざけられている。そして、受け容れられている。その受容のセンスの広まりは、たぶん「女の感覚」だと私の経験則が感知している。女も男もないではないかといえば、まさにそうであるが、焦点の合わせ方が「受容」の方に傾くときに、その周縁の「排除・排撃」に傾く動きを注視しないではいられないのが「男の感覚」と感じているのかもしれない。水の流れが従う地肌の凹凸こそが、水を縫うときの主たる課題になるのではないかと、私の関心は傾く。

 だが、実存の心地よい関係は、ほんの身の回りの些細なことへの心配りからはじまる。個体の自律が起点になる。それは、たしかだ。そういうイメージが静かに広まるのは、市井の身のこなしとしては、大切である。そういうセンスも、捨てがたい。そういっているように響いた。

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