2021年3月27日土曜日

「かんけい」の気色

 今月で仕事をリタイアする若い方がいる。長い間ご苦労様でしたとご挨拶をし、一緒に山歩きをしませんかと誘ったら、腰痛があって今は無理だが、実は少しずつ大宮第三公園辺りを歩いていると回復を試みていると話しが転がった。歩いていると、自転車や車で通り過ぎていたことと違った世界が見えてきて、気付かないでやり過ごしている世界があったのだと感じ入っているとつづいた。

 そんな話をしたのちの昨晩、寝床で、一つ思い出したことがあった。

 高校生の国語の授業のとき、教師から「抽象するってどういうことか説明してよ」と質問されたこと。そのときは「こころ」を例示して、何かを言った覚えがあるが、後にその教師からダンテの新曲を読むようにすすめられたことが記憶に残っている。何を言ったのか、それを教師がどう受け止めたのか、まったくわからないが、何か思うところがあったのであろう。

 ではいま、「抽象するってどういうことか説明してよ」と問われたら、どう応えるか。

 二つの方向が思い浮かんだ。

 ひとつ。シロバナタンポポが咲き、その傍らに咲いていた黄色いタンポポの花を裏返して萼片をみたらカントウタンポポだった。ということは、セイヨウタンポポが蔓延って、むしろ主流であることをしっていたからだ。そのとき、それらをひとまとめにしてタンポポと呼ぶのは、「抽象している」のではないか。さらにそれらを「花」と呼んだり「草」と名づけたり、もっとさらに「植物」とまとめたり、「生物」とひとくくりにするというのも、「抽象している」振る舞いではないか、と。

 だが、と逆のベクトルに、二つ目が思い浮かぶ。

 そもそも(子どものころに)世界を認知するのは、タンポポが先だ。いや、生物と無生物が一番先で、ついで植物と動物、草と木、花と葉や茎というふうに、全部が一緒であった混沌の世界が、徐々に分節化して「せかい」として受け止めている。その分節化の過程をもし、「具象化する」と呼ぶとしたら、じつは「抽象化する」過程と「具象化する」過程は、思考過程としては似たようなものではないか。つまり「せかい」が現れて、個体に働きかけてくる。それを「働きかけてくる」と表現できるのは、現れた「せかい」を、個体が享けとめているからである。「せかい」をかたちづくる「もの」そのものが「個体」に起ち現れる瞬間、すでにそれは「かんけい」を具えている。

 モノゴトをヒトがどう認識しているかと考えると、じつは「せかい」は混沌として現れ、それを「せかい」として認知することそのものが、「かんけい」の表現である。そう考えると、具象化は抽象化と同じく「せかい」認識のベクトルが異なる方法であって、いずれも意識的に世界をとらえるのに欠かせない思考過程である。マクロの宇宙論とミクロの素粒子論とが実は同じ「せかい」認識であったくらいの、発見であった。何を発見したのか。絶対矛盾の自己同一の再発見か。「せかい」を認知する座標軸が見えるように感じている。それを私は、「かんけい」の気色と総称している。

 座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。なんだ、それは観念論の最たるものではないかといわれるかもしれない。だが「せかい」は、それをそれとして認知する主体を欠いては成り立たない。ではもし、その主体が消滅したら「せかい」はどうなるのか。当然、消滅する。「せかい」とは認知されている限りの限定的なものだ。

 では、誰が見てもそれが「それ」であるという、「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか。誰がみてもの「誰」が多ければ多いほど「それ」の数は多く、多ければ多いほど「科学的」であったり「客観的」である事象が多いと考えてはどうだろうか。一人や二人が消滅したからと言って、「科学的」「客観的」世界は消え去らない。だが、認識の枠組みが大きく変わることがあったら、天動説が地動説に変わったように、「科学的」も「客観的」もがらりと変わる。つまり、「科学的」「客観的」にも(多数派)というか力関係が働いているのかと言われるかもしれないが、(多数派)というのが、単なる(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用していると言えるのではないか。

 いずれにしても、ヒトのすることだ。人間要素を抜きにして、エイデンスや論理的正当性を云々しても仕方がない。もちろんここでいう人間要素はアインシュタインが言っていた人間定数とは意味あいが違うが、人の世界の内側において、「せかい」をつかもうというのであるから、そもそも無理難題を承知でオハナシしていることであった。

 はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている。ヒトは気づいたときには言葉をしゃべりはじめていたのだから。それからおおよそ数万年、哲学者たちの思考過程を勉強して咀嚼することをショートカットして、生きてきた経験則的実感だけで「せかい」を振り返ってみているわけだから、ちゃらんぽらんで、いい加減であることだけはまちがいない。でも、そうやって自分の輪郭を「せかい」として浮かび上がらせるクセだけは、ちゃんと身につけているのだとみてください。言葉は、人類文化の、善し悪しを定めぬクセである。

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