青山文平『つまをめとらば』(文藝春秋、2015年)を読む。先日(2/27)、同じ著者の『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)を読んで、好感をもった。たまたま、図書館の「今日返却された本」の書架にあったので、借りてきた。
6本の短編を収録している。いずれも、江戸を舞台にした下級侍と朋輩と妻や女とのかかわりを描きとっている。身分制の時代の、侍という、これまた「雇われ人」のような秩序のきっちりとした世界を生きる男が、町人たちとかかわりをもちながら活計を立てていくときに、あるいは寄り添い、あるいは誘いかけ、あるいは嫌って離れて行こうとする女と、どうかかわり合いをもち、身を処していくか。身分制の持ちかける仕切りが(今の時代となっては、目にみえぬ)結界のように張り巡らされ、それを内面化した侍の潔さが、見極めとなって身の置き処を定める。
身分制を持ち上げるわけではないが、世界のどこに位置しているかを常に忘れることなくわが身の裡に位置づけている佇まいが、人柄の屹立するかたちとなって描き出されている。それに重ねるかのように、男と女の結界も、きっちりと見極められる。
見事な気配は、じつは、青野文平の文体に体現されている。余計な心理描写的な装飾を取り払い、出来事の事実を坦々と綴る。その行間に、女の欲望が垣間見え、それとのかかわりを、煩わしくも愛おしく、もち続ける。侍や身分制社会の規範が根を張っているからである。それがいかに、身の置き処の潔さと相反しているかが、見極めれば見極めるほど、鼻につき、目につく。町人の方が、女の方が、下級侍よりも自在に生きているかのような気配も漂う。それを青野文平は、見事な筆さばきで見極めて、落ち着かせてゆく。
とどのつまり、行きつく先は、余計な気遣いを必要としない自活する男二人の同居へ向かうのだが、やはりそれも、長続きはしない。女という、暮らしの基本形を無視しては、活計は存在しないからである。
この作家のこの達観が、末期高齢者になった私にとって、なぜこれほど慕わしいものに感じられるのであろうか。
時代が移り変わって、制度や社会的規範のもっていたさまざまな外的な壁が取り払われるにしたがって、世の中や他者との結界が、わが身の外から内へともちこまれることになった。いまは、一つひとつのコトゴトの「結界」という境目を、自分で判断し、自分で選択するという過程を、あたかも自分の意思で行っているかのように振る舞うことが、求められる。内面化である。それが、個人の自由を標榜する社会の自律的モデルだったから、ヒトはその規範を自ら身につける必要があった。それを推進したのが、学校教育だったというわけだ。その自律性がじつは、社会的な規範の浸透によって、あたかも自己責任で選択したことのようにみえていると見てとったのが、ミシェル・フーコーのパノプティコンであった。
先ほど「身分制を持ち上げるわけではないが」と断ったのは、身分制社会と近代社会のどちらが良いか悪いかという判断を棚上げしておこうとしたからだ。つまり、その善し悪しをつけずに、前近代と近代の端境を見つめてみると、外的な壁か、自らが選び取った壁かがみえてくる。そのときじつは、すべての人が同じように選択できるかどうかという(人間観の)前提が、目に見えない形でもうけられていることが、浮かび上がる。これはキリスト教で言えば、カトリックとプロテスタントの違いのように、ヒトの実存の根源にかかわる見極めと連動している。
それを軽々と「移入する」かたちで乗り越えてきた(ようにみえた)のが、日本の現在である。その、異文化を換骨奪胎するかのように組みこんできた地点に、もうひとつキリスト教と仏教や神道文化との差異を挟みこんで考察しなければならない集団性の(ということは個人性の、基底には自然観の差異に関する)論点があるが、ひとまずさておこう。
いまさら、現実の政治社会形態としてどちらが良いかを論じることではないが、ヒトの誰もが同じように近代的な理知的要素を受け容れられるとは限らないことを、現実として認めるならば、その、個々人の受容における違いを補正する社会的保障装置が必要になることは、論理的に共有できる要点になるのではなかろうか。自由民主主義か社会民主主義か全体主義的な統治かが、いずれも近代の政治社会形態の変種だとしたら、その論点を共有して論じ合えば、社会政策的に何がしかのやりとりはできるのではなかろうか。
そんなことを夢想してみたくなるような、見極めの清冽さを、この小説に感じたのでした。
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