2022年9月30日金曜日

全体像が浮かび上がる

 混沌の海を夢で見た。眼下に広がっているのではない。天空にも横にも足下にも、見渡す所全部が混沌の海だとわかっている。つい先ほど会った人や聞いた話のイメージが、忽ち遠ざかり姿がぼやけていく。なにもかもが遠景へと溶け込んでいく。その感覚は、電波望遠鏡が解析した45億年前のビッグバンの光が今どき届いているって感じ。時間軸が空間に変わって間近に見えているのかな。むろん平坦な宇宙を見ているのとは違う。凸凹がう~んと近づいたり遠ざかったりしていて、ああこれはワタシの経験を表しているのだと、これもなぜかわかっている。それも、ある種の懐かしさを伴っていたり匂いが漂っていたりする。つまりワタシの心が思い起こしていることが全体として絵になって動いているのだと感じている。

 目が覚めて、なんだあれは? と思い起こす。ひょっとするとワタシが経験するリアルの断片が、全体として身の裡に総合されていって、セカイをかたちづくるイメージとなって表出しているのかなと思う。もしこれを「乳海攪拌」というヒンドゥの物語りに当て嵌めると、経験はひと度ボンヤリとしたイメージとして心裡に落とし込まれて全体に溶け合い、混沌の海となる。それを再び想起域に戻すときには攪拌された乳海から(その時の意味合いの籠もった)綱で曳きずり出して来なくてはならない。つまり、混沌の海へ日々経験を落とし込み、また日々そこから(主体のその時の必要に応じた意味合いの籠もった)ある筋道(という断片)に沿った言葉を取り出すということが繰り返されている。

 一つ思い出した。福岡伸一という生物学者が子どものとき、芋虫が蝶になる前の蛹になった中を覗いてみたいと解剖してみたら、中はドロドロの液体だったと話していた。そうなんだ、それと同じで、経験というのは体験のままで保存されているのではなく、一旦ワタシの胸中でそれまでの全経験と溶け合ってドロドロの混沌の海となり、蛹が孵るときのモチーフはワカラナイが殻を破っておおよそ違う蝶になって立ち現れる。それと同じことが、ヒトの体験と経験とその再生のメカニズムに於いて繰り返されているんだ。そう思った。

 普遍とか特殊というのが、そのセカイに於いてどういう意味合いを持つのかも、繙いてみることがあるかもしれないが、それ以前に、この混沌の海と、個人的体験と人類史的経験の積み重ねによる堆積とがどういう関係にあるのかも分からないが、深い所で絡み合ってワタシに出現していることだけは実感できる。それが今のワタシを支えていることも確かに感じ、そう感じている私を素直にありがたいと思っている。何に感謝しているのだかワカラナイ。八百万の神かもしれない。大自然という、わが身を包み来たったありとあらゆるコトゴトと、幸運に恵まれたという偶然の計らいに包摂されて今ここにいる。そのことをありがたいことだと思っている。

2022年9月29日木曜日

儀礼的な付き合いの断捨離

 こんなことがあった。ある機会に私が本を上梓し、知り合いに「近況報告」として恵贈した。約半数の皆さんから、電話、ハガキ、eメールなどでいろいろな返事を頂き、旧交を温める方もいれば、おや、こんなに元気にこんなことをしてるんだという近況返信もあった。

 ただ一人だけ、何かの機会に顔を合わしたとき(受領の返事をしなかったことをまずいと思ったのか)「メール出したんだけど」と、妙なことを言った。何だこの人は? とまず思い、「メールは来てないよ」と返事をしてそのままになった。なぜこの人は着飾るんだろう。返事をしないならしないで一向に構わない。だって送りつけること自体、全く私の勝手。

 ヤツはこんな本を出したんだと思ってそのままにする人もいるだろう。もらったことを忘れてしまう人もいるだろう。そもそも直ぐに読めるような本ではない。なにしろ400字詰めで1800枚くらいあった。読み通すだけでも根気が要る。途中で投げ出しても不思議ではない。著作を恵贈されたのに感想を加えて返信したら、「あなたに贈ったのは間違いだったかもしれない」とそれへの返事が来て、以後気まずくなった友人もいた。返信しないのも、それはそれで一つの返事の仕方だと私は受けとっている。でも、「メール送った」って、どうして取り繕うのか。

 その一人が返信しないちょっとした心当たりは、私の方にあった。本を恵贈する半年くらい前、彼が講師を務めた「会」があった。生憎私は別様があって顔出しできなかったのだが、彼から講演について感想を聞かせてくれと、小学生の子ども指導に関する実践内容を添付したメールが送られてきた。えっ、どうして? と私は思った。私は子ども指導に関して何か批評する立場に立ったこともない。ま、彼は褒めてもらいたいんだろうと思ったから、返事をしないで放っておいた。もしこれが気に障ったのなら、彼は私の本の恵贈を無視すればいい。にもかかわらず、態々嘘をつくことはないだろうに。もっとも、そのようにして、まだ心残りはみせておくってことも、ないわけではない。だが私は、そういう儀礼的なお付き合いは、儀礼的な関係だけにとどめて、少しずつでも気づいたときに「断捨離」していこうと思った。

 それもあって、それ以降私が毎月発行している小冊子を、その一人には贈っていない。コロナの襲来もあって付き合いが途切れたのがいい潮になったのかどうかはワカラナイが、以後すっかり関係は切れてしまい、そういう友人がいたことも忘れていた。

 ところが私の小冊子の好読者である古い友人がいる。好読者かどうかは私が勝手に決めたことで、その古い友人からするとメンドクサイ奴やなあ、毎月送って来やがってと煩わしく思っているかもしれない。当方は近況報告のつもりだが、受けとる方からすると、半世紀以上も付き合ってきた年寄りが、毎月「近況」なんて知らせ合うかよと思っているに違いないとは、思う。だが古い友人は、知らぬ顔ができない性質のエクリチュールのお方。ならばコチラもと思っているかどうかワカラナイが、毎月長文の手書きの返事をくれる。それが面白く、了解を得て、毎月小冊子に載せては送っている。白山羊さんと黒山羊さんの手紙のやりとりと私はおもってきたが、古い友人は共に半世紀近く関わってきた(小冊子を受けとっている)共通の友人も、この遣り取りに加わってほしい。ついてはこの小冊子の一部を「間借り」させてもらえないかというようになり、私は喜んで場所を提供しようという運びになった。

 となると冒頭の一人にも送らなければならない。いまさら改めて送るってのもヘンだなあと思う。そこで、もう1年半前にもなる、その一人が言った「eメール」宛に、小冊子をpdfに変換して一度送ってみた。むろん何の返信もなかったが、次の号も同様に送ったところ、そのメール・アドレスには送れませんと、メール管理サイトから「お知らせ」があった。つまりその一人もまた私との遣り取りは断捨離したわけだ。結構。これで私も、一つ始末したとおもっているが、古い友人からすると折角間借りしたのに、どうしてどなたからも応答がないのと、訝しむハガキが今月号の返事として届いた。

 さて、どうしようか。儀礼的なお付き合いになってしまっているなら、それは断捨離しても、一向に構わない。イヤそうなっていなくとも、何かの事情があってコイツとは断捨離しようという人がいても可笑しくない。この事態をどう受け止め、どう対応すればいいか。一つわが身を振り返る課題をもらっている。

2022年9月28日水曜日

罪の意識と天罰

 図書館の書架で読み応えのありそうな厚い本を手に取った。宮部みゆき『黒武御神火御殿』(毎日新聞出版、2019年)。570頁の読み応えと言うよりも、この作家の視線の行方に読み応えを感じている。

「三島屋変調百物語六之続」という副題がこの作品の前段があることを示しているが、それを読まずとも、短編中編のそれ自体で「物語り」がまとまっている。ここに収録されているのは4話。そのうち表題の「物語り」が300頁以上を占める。

 それを読みながら「罪の意識と天罰」って何だろうと考えていた。

「罪」というのを「神の教えに叛く」と考える唯一神信仰の人たちは、身の内側からの(自然的なー本能的な)衝動との闘いという「関係設定」の上で、「罪」と向き合う。このとき「神の教え」という絶対的な基軸は、身の外から差し向けられたものであるにも拘わらず「信仰」を介在させて内化され、あたかもわが身の裡にわが身を見つめる目を育てている。何をするにせよ、わが身の裡の「神」が見ているという自問自答が、己の生き方を対象として見つめ内発的に身を正す契機となる。「やがて裁きの日が来る」ことに身を引き締めるというのは、その審判に「脅えて」今の振る舞いを正していくのであろうか。「脅える」という、(ダンテの神曲に描かれている煉獄のような、あるいはボッシュの絵が示すような地獄図に投げ込まれるという)世界が(永遠に)待ち構えるという自意識は、永遠の魂の平安を想定していなければ、発生しない。「神と私」という「絶対的存在vs一個の人」という関係に於いて成立する信仰であり、罪であり罰である。

 だが、多神教の「罪」は、我が儘にー自己中心的に振る舞いが、世俗の周囲に及ぼす及ぼす「迷惑」によって発生してくる。つまりそもそもが集団的というか、社会的な関係に身をおいて思考されいるから、世俗の集団が、その個人の振る舞いをどう受け止めるかによって「罪」も浮遊する。

 いつであったか30年ほど前に「なぜ人を殺してはいけないんですか」とTVの討論番組の見学者である青年が問うて、それ以降暫くの間世の中のいろんな立場の人たちが応えて、ああでもないこうでもないと騒がしかったが、そう言えばあの時「あなたは(なぜ)殺したいのですか?」と問う人がいなかったように、今思う。つまり「人を殺すなかれと神が曰うているから」で片づいていたことを、神なき時代に人の言葉で説明しようとするから、嘘っぽくなったり、「そう問うこと自体が許されないこと」と(因果応報とか共同体の保持を理屈として繰り出して、中途半端に)禁忌と言ってみたり、「お前を殺してやろうか」と腕をあげたりして決着がつかなかったことがあった。あの応答者たちは、たぶん、西欧的な「汝殺す勿れ」を当然のこととして応答しようとしたからじゃないか。

 多神教の社会では、一個のヒトの「罪」も絶対性を持って提示されない。ケースバイケースというと定めようがないように思えるが、誰がどんな状況の下でどのように振る舞ったかが遊動的に判断される。行為者とそれを受け止める周囲の人たちの寛容と苛烈の間が「関係的に」動く。もしそれを行為者の身の裡の意識として求めると「恥ずかしい/恥ずかしくない」というのが、「罪」の意識に取って代わる。戦後ひところ《日本には罪の文化がなく恥の文化である》とするルース・ベネディクトの指摘は、無責任の体系に通じる「遅れた文化・日本」の象徴的言葉として取り沙汰された。だがはたしてそれは、「後れている文化なのか」と、宮部みゆきは問い返しているようであった。

 こういう根柢的な問いが、「天罰」という形であったり、三途を川を渡る7・7、49日までの間に奪衣婆の洗礼を受けたり、閻魔様の前に引き出されて審判を受ける物語りにして受け継がれて来た。そうした俗信の天罰噺の一つとして提示しながら、その行間に一神教と多神教の違いを浮かび上がらせ、人の声に応えようとせぬ絶対神に対照させて、多神教の利他的振る舞いを、侍が町人や商人を護らないで何の存在理由があるかと(これまた罪深き何かを抱えている)お武家さまが身を捨てて血路を開き、自己処罰的に振る舞う。つまり天罰が天命のように置かれた状況に応じて自然に降りてくる。この物語り展開に、幅の広い迷惑な人たちの受け入れや罪人への容赦が組み込まれていて、ああ江戸の庶民のお話だなあと懐かしく読み進めるのであった。

 今の人たちは、こういう噺に共振するような素地をもっているのかな。

2022年9月27日火曜日

ジパングの「国葬」

 今日は安倍元首相の「国葬」が予定されています。メディアにもよりますがその論調には、岸田現首相の采配間違いで行われることになった気配が濃厚です。エリザベス女王の「国葬」との対比もあるでしょうから、アベさんには気の毒であったという気分もないわけではありませんが、前者に感じられる求心性と違って後者が未だ生々しく湛えるセクト性が日々の報道の中にくっきりと浮かんでいます。

 セクト性というのは、党派性のことです。アベさんや共に政権を支えたスガさんの自派閥性の強さは、人事権という裏技を存分に駆使したことばかりでなく、表向きの説明をしないとか着飾ったまんま啖呵を切って、それに合わせて諸記録を書き直させるという荒技に及んで、天として恥じない傲岸さが際立ちました。

 それが、両政権通じて9年もありましたから、後を襲ったキシダ政権の「謙虚、試行錯誤」ぶりに好感さえ持ったというのが、1年前のことでした。でもそれも、自民党という政権党の内部的力の均衡がもたらしたものだとさめざめとみることになったのが、7月の選挙以降のことでしたね。アベさんの死が、たとえば東京オリンピックの贈収賄事件の摘発にも及んでいるんだなあと岡目八目は感嘆しています。

 しかし、アベさん暗殺の素因の発端となった旧統一教会のあしらいについても、自民党は「今後関係を断ち切る」といっただけで、具体的には何の手をうつ気配もありません。それどころか、旧統一教会とアベさんの関係が詳しく報道されればされるほど、ただ単なる選挙応援というだけでなく、統一教会の日本での発足から、骨がらみの関係であったことが鮮明になっています。しかもそれが、先述の「裏技」「荒技」同様、アベさん側としては表面化しないように心配りをしていたことも、合わせて伝えられています。今回の銃撃犯が何処までそれを承知していたのかわかりませんが、アベ銃撃は旧統一教会を銃撃するのと同様の「的を射たこと」だったと思われてきます。「戦後政治の闇」を一つ引っぺがしたのです。

 しかし世の中は、アベ暗殺と旧統一教会とを切り離して、安倍元首相の功績をたたえて「国葬」を静かに見守ることへ向かっています。聞く所によると今日の「報道」は「国葬」の武道館内部だけにしてその外は報道しないと「局上部からのお達し」が為されているそうです。何だかロシアのプーチン政権とメディアの関係を思い起こさせます。

 あるいはまた、「いつまで旧統一教会のことばかりを報道してるんだ。もっと他の緊急重要なことがあるじゃないか」と、報道機関への批判が行われたり、「ま、しばらくは仕方がないですね。そのうち皆さんの関心が遠くなりますよ」と呟く声も聞こえてきます。

 つまり今回のアベ銃撃を不運なデキゴトとして葬り去りたい「国葬気分」なんでしょうか。山際というセトギワの大臣も、側杖を食ったような心持ちのようです。つまり、今回事件を日本の現代政治のおおきなデキゴトとして「反省」しようって気持ちは、何処にもないと思われます。

 いや政治家は、それでいいかもしれません。けど私ら庶民は、どうなのよと自問が投げかけられます。

 税金を使っているとか、国葬手続きが立法府の審議を経ていないとか批判するのは、国政の内側から見た統治者の遣り取りです。むしろ、G7の首脳は一人も来ないと何処かのメディアが指摘したときに、いやそれは、日本がすでに(もう何十年か前から)先進国から脱落していることを知らないからだとクールに解説する言葉の方が、切実に響きます。

 何より目下、円安が進行し、1ドル100円ほどという感覚が5割増しで暗算する時代になってきています。これまでのように中国や東南アジア生産の方が安くできるというのではなく、日本産の方が明らかに安くしかも安全で品質保証という時代に変わってきたのですね。今の日本の暮らしは、30年以上も前のバブル時代の遺産を食い潰してきている、いわば「幻想の先進国」なのだと突きつけられています。

 キシダさんが国連総会で演説をしたといっても、「言わせてあげるわ」というほどのものであったと伝わってきます。これは、宰相の器が大きいとか小さいとかいうモンダイではなく、日本の国際的立場が、その程度のものだったんですよと、白日の下にさらされているってことですね。

 さてそれを私は、どう受け止めているか。自答しなくてはなりません。

 実はすでに日本の没落ははじまっていて、元の世界の、2,3位を争う先進国に復活することを狙うよりは、ポルトガルのように(国際社会において)ひっそりと暮らす国になるのが相応しいと、いつか書いたことがあります。

 はて、いつだったろうとブログ記事の古いのを検索したら、ありました。2020年4月21日「季節の移ろいの社会的距離感」において、

《いずれ日本も、ポルトガルのように昔日の栄光をすっかり忘れて、しかしのんびりと東の海の果てにあるジパングとして暮らしていけるといいなあ。 私たちの時代が異形であったのだ、と。》

 と、いかにも老爺らしい筆致で記しています。コロナウィルス禍がはじまった頃でしたね。思えばそれ以降、日本ばかりでなく各国とも、随意鎖国のような状態が続いていました。だから余計に「ジパング」イメージが際立っていたのでしょうが、騒々しい国際社会から取り残されたようになって、片田舎に身を潜めるようにして静かに日々を過ごす。そういうのを好ましく感じるのは、なぜなんだろうと、次の自答が心裡に生まれ来ます。

2022年9月26日月曜日

対位法ではなく世界の心身一如

 一昨日の「バグの自意識」を読み直していて、西欧とアジアの自然観・宗教観を対位法的に推し進めるだけでは「浄/不浄」の感覚、あるいは自然・神の「慈愛/苛烈」の現れを受容する感性は語れない、と思った。じゃあ、どう考えればいいのか。

 対位法の根柢には、「普遍/特殊」の二分法がある。自然の感受を、「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」として対位法を取るのが西欧風だとすると、自然を「混沌の海」と見て、そこから「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」を曳きだして表現するのがアジア風と考えている(この西欧とアジアの二極も対位法であるが)。

 このアジア風が価値相対主義であると批判される。「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」が(混沌から真理を曳き出す)人によって異なるとみると、科学的に究明される真理が否定されるとみえるからだ。だが、ニュートン力学は真理だったのか? アインシュタインの相対性原理は真理だったのか? と自問すると、「ある限定を伴った範囲」での仮説ではなかったかと自答が浮かび上がる。その「ある限定を伴った範囲」というのは、その「真理」を認知しているのは誰かと問えば、答えがわかる。

 この後のお話しは、門前の小僧である私が、一知半解どころか全く論理的に理解した話ではなく、世情に出回っている専門家の境内からの遣り取りを門前から小耳に挟んだイメージとして聞いて頂きたい。シュレーディンガーの猫というパラドクスの思考実験に対してアインシュタインが(量子論は)まだ過渡的段階にあるのではないかと批判したことからはじまったというボーアとアインシュタインとの論争において、アインシュタインが「人間定数」という仮説を提示し、すでにそれはアインシュタインの間違いであったとされているという話が思い浮んだ。

 門前の小僧の私がどういう専門家かもわからぬまま、耳にしたことをわが胸中にイメージしたことだから、本当に市井の老爺が俚諺を受けとるような感覚でしかない。だが、アインシュタインの「人間定数」という着想が(どういう趣旨でこの言葉が使われているかは知らないが)、量子論の電子の動きを(何処に所在するかワカラナイ)と語ることとそれを認知することとの差異を示していると理解した。つまり、シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかを(誰が見ても検証できるように)認識するということは、ブラックボックスをも見通せる神の目を持つことを前提としている。だが電子の動きを、例えばカメラに収めるとしても、その瞬間の画像にとどめられた位置しか特定できないという限定性を「人間」はもっている。ひょっとするとアインシュタインはそのことを「人間定数」と表現したのではないかと、すでに論破されて捨て去られた「人間定数」という言葉を惜しむ気持ちがこみ上げてきている。

 誰が見ても検証できるという「科学的真理」は神の目ならばという前提があり、(誰という)人間が認知するという認識主体を組み込めば「真理」というのは、その先に広がる「闇/無明」を示すものでもあって、つまり遍く真理であるという「普遍」は実体的には存在しないといっていいのではないか。限りなく「真理」に近づくことはあっても、「真理」に触ることはできない。その「真理に近づこう」というモメントが、市井の民から見ると美しいのであって、「真理」そのものを手に入れることができると思う所から、「人間定数」を外れた妄想の世界に陥るのではないか。

 普遍を探求する科学者や哲学者は、本質に迫るといって自らの論理的な道筋を正当化するが、その「本質」ってなんだ? 現実に現れるのは「現象」であって本質ではないとでもいうのだろうか。枝葉を余計なバグとして捨象して幹を摑むことを意味しているのであろうが、枝葉を捨象された樹木はもはや樹木とは言えないように、「本質」を探求する科学者や哲学者は、捨象する「余計なもの/バグ」が樹木に於いてどのような不可欠の一部として存在しているかを、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性に照らして始末してしまう。そのとき、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性というアルゴリズムが前提にしている限定性に気づかないことがある。生物学者でもある福岡伸一は「視野狭窄」と呼んでいるが、誠実な論理的哲学を身に備えた人でさえ、そうした迷妄の霧の中を歩いていると思うケースもある。

 科学や哲学の方法に於いてモノゴトの分節化は重要な扉を開く。それが極限まで分業化されているのが現代の知的世界の状況である。後にそれが総合的に(枝葉も幹も樹木の全体に於いて)樹木として、あるいは樹木を取り囲む環境として、さらには、相互の生態的な循環としてとらえたときにこそ、(その主体が行っている)探求の意味合いが取りこぼされることなく組み込まれてとらえられると言える。科学や哲学は、その両端への往還をつねに繰り返しながら少しずつすすめていくものなのだろうが、分節化の先端が余りに遠くへ専門化され分業化しているが故に、もはや還る道筋を辿ることを考えさえしなくなった。とどのつまり、門前の小僧である市井の民が、専門家の口にする俚諺を耳にしてわが身に引き寄せ、総合的にセカイとして見て取ろうとしているばかりなのだ。

 持って回った言い方をしているが、こう譬えるとわかってもらえるかもしれない。世界は、総体としては混沌の海である。そこに於ける現象はことごとくが、諸要素の総合的な関わりの結果であるとみるのは、すでに諸要素に分節化して探求がすすめられている状況を反映している。その中に流れる法則性をつかみ取ろうと分節化をすすめて探求していく知的な営みが、各方面に分節化し毛細血管のように些末に及んだ結果、それらの子細を総合科学論として鳥瞰する分野も出来し、更にその専門領域を市井の民にもわかりやすく解説す啓蒙書が出回るようになり、TVの発達によって「目に見えるように解説する」ことが一般化して私たちにも届くようになった。私たちは自らの経験的な思索がどれほどに科学的な探求と見合っているのを照らし合わせる機会となっている。と同時に、わが身の感性や感覚、思索という言葉が、どう形づくられどう変容し、今どのような問題を抱えているか、わが身を対象としてとらえ直すことに繋がっている。逆に言うと私たち市井の民は、専門家たちの研究や探求を「日常生活批判」として受け止めて、参照点としている。あたかも、世界の頭脳の知的営み(の紹介されたもの)が、ワタシの人生そのものに向けて放たれたメッセージとして受け止めている。

 ユングという精神分析医が「集合的無意識」といったろうか、人類の社会集団が長年の過程で積み重ねてきた感性や感覚や様々な価値観まで、身の習いとして躰の奥深くに沈潜させて堆積してきた知恵の数々。わが身もその恩恵に浴して、まさしく量子論にいう電子のように、いつ何処に如何様に存在するかは不確定なこととして、しかし見て取るときは間違いなく位置を占めている現実存在であるデキゴトとして実在していることを、実感している。

2022年9月25日日曜日

言葉の向こうへ

 台風が首都圏を直撃する最中に行われることになった36会seminar。雨台風という予報報道に期待を寄せて実施に踏み切った。静岡地方では大変な豪雨に見舞われていたのに、東京はそれ程でもなく、静かな雨降りの中、新橋に着いた。いつもと変わらぬ賑わい。

 30分ほど前に、フミノさんがヴァイオリンを持って現れる。ここへ来る途中レッスンがあり、演奏道具を持ったままやってきた。ならば、seminarの時間を少し削るから腕前を披露してよということになった。

「腕を上げたねえ、音の膨らみが良くなった」

「いや、高い弦に換えたからですよ」

 と謙遜する。この部屋の音の反響が随分大きいとわかり、調整している。

 ぽつぽつと参加者が到着しはじめ、おしゃべりがはじまる。前回は会場が取れず8月実施になったから一ヶ月ぶりの再開なのだが、よく元気でいたねえと久方ぶりの感触が漂う。このseminarの言い出しっぺの一人ミヤケさんが先月に続いて今月も欠席と知って、心配する。メールでは「夏風邪が長引いて咳が止まらない」と書いてあった。先月は「家で転んで骨折はしていないが気落ちして」欠席した。1年前に長年連れ添った奥さんを亡くしている。

「男ってさあ、連れ合いに依存しているから、相方が亡くなると気力が萎えてしまうんよ」

 と、やはり奥方の世話になりっぱなしのマンちゃんは言う。

「オレなんかはさあ、コレに見放されたら、直ぐアウトだよ」

 と、近くに座る連れ合いを見やりながら口にする。

 女の方々は、娘さんは近くにいるの? と独り暮らしになったミヤケさんを気遣う人が要るかどうかに気を回す。それこそ、一月ごとではなく、毎週とか日ごとに「見回り隊」が必要な気配が広がる。皆さん傘寿の身の在処をひしひしと感じているようであった。

 顔触れが揃ってseminarがはじまる。今日のお題は「躰に聞け!」と大上段に振りかぶったフジタさんの70歳代を振り返る山歩きとその帰結という十年間のまとめのような近況報告。「山歩きの中動態哲学」と副題を振ってはいたが、ムツカシイ話は脇に置いて、数え70歳ではじまった山の会の活動を大きく三期に分けて概観する。

 最初の4年間はほぼ毎月1回の山行。冬と夏にそれぞれ1回の泊まりがけ山行をしている。ところが5年目から山行回数がほぼ倍増する。なぜ?

 いえね、会員が「主宰者のプランはきつすぎる」て言ったり、ガイドに案内してもらうお客様になったりして、山の会の人達の間に(力の差も生じてきて)憤懣が溜まる。フジタは逆に、ガイドしているつもりはなくて、山好きの友達を育てているような気分だったから、こちらにも憤懣が溜まっていった。そこで5年目から、それまで通りのフジタ・プランの山行と並行して、会員が交代でプランニングした山行(日和見山歩)の二本立てにしたから、山行回数も山中日数も倍増した。

 それが更に会員間の力を差や山行意欲の違いを生む。そこへもってきて、60歳代になった女性陣の方は、孫の世話とか親や連れ合いの介護という役割が被さってきて、山への向き合い方が変わってくるってこともあった。筋力の衰えも緩やかに進むから、「山歩きがきつくなる」。他方で、二本立てになったことからフジタ・プランの山行はますます調子に乗ってオモシロさを求めて厳しいものも多くなる。達者な会員たちは「日和見山歩」に甲斐駒ヶ岳と仙丈岳を2泊3日で踏破する計画も出てきて、「きつい山行」は一層興に乗る。

 そういう厳しい山行を望む人達が新規に加わるようになり、参加会員の面子が変わってくる。燕岳から槍ヶ岳に上る表銀座を歩きたいという希望も出て来たから、夏にそれを目指し、3月からトレーニング山行としてフジタが(参加希望者の声を聞きながら)プランを立て、それまでフジタが単独行で行っていた週一山行が組み込まれて、月3回の山行にまでなっていったのが2019年からの2年間であった。

 ところが2020年から新型コロナウィルスがやってきた。山小屋の閉鎖とか県外移動の自粛なども続き、「日和見山歩」は途絶える。その隙間を塗ってフジタ・プランの山行は、車でアプローチすることとテント泊が多くなっていった。

 その結果と言って良いだろうか、2021年4月の秩父槍ヶ岳山行の際、フジタが沢で滑落し秩父山岳救助隊に救出され4月いっぱいの入院、その後のリハビリ生活の間に、フジタの山の会はすっかり姿を消すことになったのでした。

 入院期間中に思い巡った、日頃の暮らしに対する根源からの「反省」、寄る年波への視線がみせる体と心との相応と乖離。それらが80年の人生を統括するように、わが身に堆積している人類史的文化や関係を浮き彫りにする経験。それを表題的に言葉にすると「躰に聞け!」ってことになると、締めくくった。

 その間に、山登りのこと、故障や病のこと、病院食や入院のことにことばが挟まれ、遣り取りが交わされる。ひょっとすると、この遣り取りの現場に揺蕩う「かんけいの気配」こそがseminarであり、皆数え傘寿の高齢者が足を運んで来る元気の素なんじゃないか。

 ひょっとするとというのは、つまり、交わす言葉の向こう側に、それに関わる人達の生きているモチベーションの素を湛えた湖があるような気がしたのである。

 前回同様、seminarと会食が終わると同時に男たちは散会し、女性たちは隣のレストランのテーブルに場所を占めておしゃべりタイムに入るようであった。この違いが、平均寿命や平均余命の違いに繋がっているように思った。 

2022年9月24日土曜日

バグの自意識

 台風がやって来ている。でも暴風圏がないというから雨台風だ。昨日、秋分の日は雨ときどき曇りであった。昨夜は夢うつつで、外の自転車置き場を屋根を打つ激しい雨音を聞いていた。起きてみると、その屋根は、もう乾いていた。コーヒーを淹れ朝の体操をしていると、バラバラと庭の地面を叩く雨音がする。こういう、気まぐれな雨脚が「経験したことのない」気象なのだろうか。

 1年前の記事「秋分の日」を読む。もう半年もすれば山歩きができるかと、体の復調を期待する言葉を書き付けている。そうだね、そう考えて4月に乗り出したのが「ぶらり遍路の旅」であった。それもしかし「飽きちゃって」「お返路」した。それは5月に報告したとおりだ。

 山へ行きたくてうずうずする気分は、いつしか消えていた。肩のリハビリには通っていたから全き復調とは言えないが、毎日平均26㌔ほどを2週間ばかり歩き続ける程度には回復していた。というか、わが身をチェックした気分からいうと、傘寿に迫る身とはこういうものかと、使い続けたわが身体の老朽化を感じているから、事故の後遺症とは思ってもいない。「身の欲する所に遵いて矩を超えず」と素直に頷いている。

 その1年前の記事に気に掛かる自問が投げかけられていた。

《西欧発の概念導入と同じで、モノゴトを純粋化して受け取り、ヒトの粗忽さやズボラさを算入しないで、実行過程を設計してしまう。どうも、そういう悪いクセが私たちにはありそうな気がしている》

 もう少し踏み込むと、次のように分節化できるか。

(1)デファクトとして提示される「概念」をモデルとして受けとる。普遍的といっても良いし「純粋化して受けとる」とみなしてもいい。ではどうして、モデルは枝葉というか夾雑物をそぎ落として受けとるのか。神が子細に宿ると謂われるように、夾雑物に真実が宿るとみると、それらを捨象してしまうのは普遍的と言えないのではないか。

(2)上記で捨象される「夾雑物」は「ヒトの粗忽さやズボラさ」でもある。モデルを現実に適用して用いる現実過程では「ヒトの粗忽さやズボラさ」は欠かせない介在物となる。つまり捨象すべからざるコトなのだが、ついついそれをゴミのように扱ってしまうのには、ナニか決定的な気質が作用していると思う。それが何か、なぜかは、わからない。

(3)一つ仮説として言えるのは、「ヒトの粗忽さやズボラさ」という「夾雑物」は、ヒトが克服するべき猥雑なコトという身の感覚だ。「きちんとする」とか「ととのえる」というセンスの中に、猥雑なバグは取り除くという意味合いが込められている。当然、モデルにそのようなバグが含まれることは良くないと思うから取り除かれる。これは「清潔感」とか「浄/不浄」ということともかかわる感性だから、西欧発の文物を参照する以前の発生起源を持つ。豊かな水に囲まれ、彩り豊かな四季の変化(が繰り返される大自然の節理)に身を委ねて暮らしてきた身が、保ち備えることとなった感性である。そういう意味では、この列島に生まれ暮らしてきた者が共有している「身の覚え」かもしれない。

(4)この感性は、不浄を遠ざける差別性を含みもつとともに、水に流すなど寛容の源ともなる。だから一概にどちらがどうと(善し悪しを)切り分けることはできない。動態的・関係的な人間認識である。ただわが身にしっかりと根付いた起源を持っている。ただ近代社会の競争原理が、バグを追い払い、ヒトをますます先鋭に「ととのえよう」とするモメントを露わにしてきた。それがデジタル社会になって広まってきたITのアルゴリズム(情報処理手順の論理)とマッチして、ヒトの振る舞いの見立てを極端化し、いつも白黒はっきりさせないではいられない傾きを強めてきた。人々はその社会的風潮に身を合わせようとしているように見える。バグは見苦しく排除さるべきコトとみなされている。

(5)西欧社会は(唯一神信仰をベースに)ヒトは未熟であり鍛え直さなければならないと神の意志を受けとってきたから、「ヒトの粗忽さやズボラさ」だけでなく、ヒトの本能的な振る舞いの一つひとつを、それでいいのかと問い返すクセを組み込んで社会的な思索を組み立ててきた。それに反して万物に神が宿る多神教というか、自然信仰の私たちは、「じねん」であることを、無垢であり素朴で信頼に値するとみなすことによって、自分に対する警戒心を(基本に於いて)持つことがなかった。この出立点の違いが、理念的にものを考えたり、普遍的にモノゴトを組み立てたりすることと、それが具体的な社会現場で施行されていくこととのギャップへの用心深さの違いを生んでいるように思う。

(6)もちろん上記二者もきっちりと分けて見て取ることができるわけではない。長い伝統社会の警鐘の過程で受け継がれてきたことと西欧文明文化と接触する中で(動態的に)変形させながら継承してきたことが混在している。それが時代相の変容によって浮き彫りになったり沈潜してしまったりして、見え隠れする。その混沌をどちらか一方に論理的正しさを求めて行くのではなく、「ヒトの粗忽さやズボラさ」というちゃらんぽらんさを恒に常に組み込むセンスを取り入れて、モノゴトを受けとり考えていく道筋をみつけたい。

 この最後の(6)のおもいが「躰に聞け!」という言葉に結実して、今日(9/24)のseminarのお題となった。私が講師を務める。お彼岸という季節の天然自然の変わり目に、バグでしかないわがヒトの自意識を肯定的に受け容れるには、こうするほかないと、残り少なくなった人生を思いつつ考えている。

2022年9月23日金曜日

ぴったし見事な彼岸花

 昨日(9/22)秋が瀬公園を歩いた。雨の予報に反して日差しが出ている。外気温は25℃。いかにも秋らしい涼しさ。風もあって鍔付き帽子を被れば暑くはない。サクラソウ自生地に車を置き、10時から歩き始める。人気はほとんど、ない。草の背丈も高く、ますます繁茂している。おっ、緑の草ぼうぼうの土手の斜面に真っ赤な一群がある。曼珠沙華だ。そうか、そう言えば明日はお彼岸。時機もぴったし。

 歩いていると銀杏の匂いがする。おおっと、踏みつける所であった。たくさん落ちている。この臭いのが靴裏に付くと匂いが何処までも付き纏う。野鳥の森へ抜ける木々の生い茂った道はゴルフ場の裏道になる。フェンスの向こうではよく手入れされた芝地をカートが走り、クラブを持った人たちが賑やかにおしゃべりしている。

 一昨日の雨に地面は湿っているが、水溜まりはない。小鳥の動く気配はない。夏鳥は飛び去り、冬鳥が来るにはまだ早いってことか。双眼鏡やカメラを持ったバーダーの姿も、2時間、10キロ程歩く間に見掛けたのは4,5人。ツツドリが来ていると聞いてはいたが、気配がない。

 公園中央部のテニスコート脇の土手を過ぎて公園の北側に部分に流れる小川へ向かう小径が、茂った草で覆われている。いつもなら踏み跡は土が剥き出しになっている所なのに、この季節にはこんなふうになって藪漕ぎ気分になる。

 その小川の橋を渡るとき、目の前を一羽の茶色っぽい体色の、おおきな鳥が左から右へ飛んできて、10㍍程先の樹林に入った。橋を渡って対岸に行き、樹林を覗き込む。枝に邪魔されて全身は見えないが、ハトではない。カラスほどは大きくない。尾は毛羽立っている。ひょっとしてこれがツツドリか。しばらく角度を変えて覗いてみるが、見ることはできなかった。かもしれないってことにしておこうと諦める。

 レッズの練習場の北側にある野球場では、どこかのジュニアかな高校生かな、若手がバント練習などをしている。30人以上いる。今日はウィークデイで学校のある時刻だが、何だろうこの人たちは。

 広い野球場にもサッカーグランドにも人気はない。ピクニックの森に入る。スコープを覗いているバーダーが二人いる。池の向こうの木に小鳥が何羽も飛び交っている。シジュウカラが多い。体色の薄い感じがするのは雛鳥だろうか。コゲラが幹陰から姿を現し、上へと上っていった。色の違う小鳥が水面近くの枝に止まる。メジロだ。これも何羽かいて、忙しなく飛び交う。

 背中の方でガビチョウが囂しい。一回りピクニックの森の北端を経巡り、西側に出る。甘い匂いがする。地面を見るとカツラの葉が黄色くなって落ちている。そうか、ぼちぼち黄葉がはじまっているのか。

 あまりに人が居ないので、草地の野球グランドを通り抜ける。お年寄りが二人、紙飛行機をゴムの発射機で飛ばしては、空を見上げて機影を追っている。私も立ち止まって首をう~んと持ち上げる。こういう恰好をすると身がふらつくようになった。結構長い滞空時間だ。うん、これはこれで、オモシロイだろうなと、昔子どもが小さかった頃バルサ材で飛行機を作って飛ばしてみせていたことを思い出した。

 おおっ、グランドの草地に水溜まりがある。必ずしも水はけが良くないのだな、ここは。公園内の散歩道に降り立ち、木陰のある側道に入る。いつもならテントを張ったり幼い子を遊ばせている広い草地にも人影はない。そうだ、予報が雨/曇りであった。

 子どもの森の駐車場にも1台しか止まっていない。ここから樹林の中の道を辿る。向こうから散歩をしている人がやってくる。私同様マスクをしていない。これも最近のスタイル。曼珠沙華は身を潜めるように樹陰に花をつけている。サクラソウ公園の南端が見えてきた。空のダンプがやってきて、荒川の改修工事へと曲がって行った。

 サクラソウ第二自生地も高く草が生い茂って地面の小鳥を探すような気配にない。広い芝地に出る。幼児を3人乗せたカートを押して、保母さんだろうか、向こうの方で子守をしている。ベンチに腰掛けた中年の男が一人、ボンヤリしている。そうだ、そろそろ12時だ。休憩中なのか。サクラソウ第一自生地は背丈よりも大きくなった萱がうっそうと覆っている。でもその茂みの中へ入っていく人が居る。何かこの時期にしかできない作業をしているのか、あるいは植物観察をしているのか。駐車場には10台ほどが駐車していた。

 今年の季節進行は、昔ながらの平年並みに思える。ここ数年は、彼岸までは暑いなあと思ってきたが、今年はほどよく冷え込みが感じられる。夜のTVで天気概況を聞いていると最低気温が20℃を切った。彼岸を待たずに秋が感じられるのは久しぶりだ。

2022年9月22日木曜日

見てくれがし

「比翼交わしてエエ何じゃやら、見てくれがしの面白そふに」と囃されたお染久松のお話しの結末が心中であったことは、いろんな形で歌舞伎にも脚色されてきた。「見てくれがし」というのは、「いかにも見てくれというような、お体裁ぶった、また得意なさま」と日本国語大辞典は釈している。「比翼を交わしてエエ何じゃやら」は、身に覚えのある色物につきものの自己中心性を言い表してを共感を誘う。「見てくれがしの面白そふに」は、色物歌舞伎につきものの、外野の気軽な揶揄い気分を含めて(お染久松のお話に便乗して)鬱憤を晴らしてオモシロがる時代の(庶民の)気風が込められている。近松半二の脚色歌舞伎が遊びの境地を描いていると、誰か小説にしてなかったか。

 そんなことを思い出したのは、安倍元首相の「国葬」騒ぎ。空気を読んだ思い付きの「国葬」決定が裏目に出たとか、出席するしないを態々いう必要があるとかないとか、法的手続きや予算の多寡についてまで遣り取りしているが、これほどに評価が分かれ、日々(旧統一教会関係報道とともに)ますます安倍元首相の航跡が露わになって、銃撃されたことにあたかも蓋然性があったかと思われるようになっている。

「比翼交わしてエエ何じゃやら」と得意満面の安倍元首相が、「見てくれがしの面白そふに」客観視できる。それを浮き彫りにしたのは、銃撃の動機と元首相の殺害と「国葬」を繋ぐ三題噺。

 思い違いによって殺害された悲劇の元宰相と(同情も集まっていると)思って「国葬」を決めたのであろう。だが情報化時代。野次馬週刊誌やマスメディアの報道を通して一皮捲ってみると、銃撃動機の初発因であった旧統一教会が、着々と政治の世界に食い込んで手を広げていた。ひょっとしたら比翼連理で「エエなんじゃやら」だったかと思わせる当の元宰相の関わりも浮き彫りになってくる。これだけで「恥ずかしくて」国葬は止めた方がいいと常識的は思うから、「国葬」反対の声が多くなる。

 ところがこの「国葬」騒ぎに侃々諤々する為政者たちやSNSを含む諸種メディア人達の物の見方の浅さが露呈して、互いの言説の蹴飛ばし合いが見るも無惨。ちょうど鏡のようにイギリスのエリザベス女王の「国葬」が行われたから、その格差が際立つ。

 その手続きとかその死(によって映し出された生前存在)の象徴性とかは別としても、エリザベス女王の「国葬」はイギリス国民を一つにまとめていこうとする求心性を感じさせる。安倍元首相のそれは、全くそれを感じさせない。

「国葬」主催者は、言うまでもなくそれを期待したい所であるが、政権党の方々はそれどころではない。自らに降りかかる元宰相の比翼連理の火の粉を振り払うのに大わらわ。その振り払い方も、すっかり彼の宗教団体にしてやられて、表側だけで済まされなくなっている。そこへもってきて元行革担当大臣であった政権党のM氏が「国葬に反対。出席したら(国葬実施の)問題点を容認することになるから欠席する」と公表した。それを報じる新聞のインタビューに答えて、

《国葬の決定過程に異議を唱えた際、安倍氏について「財政、金融、外交をボロボロにし、官僚機構まで壊して旧統一教会(世界平和統一連合に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」》

 と発言したと報じられている。勿論それに対して、安倍元首相の下で大臣を務めながら、今ごろそんなことを言うのは如何なものかと非難の声が巻き起こっているというが、その変節をかばう声も外野の庶民から見ると自分の執着しているだけじゃないか。「国賊」という表現が適切とは思えないが、M氏の指摘が的を射ているように思うのは、安倍元首相が「比翼を交わしてエエ何じゃやら」とご機嫌であったこと、その裏面で「ボロボロにされた官僚組織」の毀誉褒貶をよく知っているからだ。

 つまり、おおよそ(国の)求心性をつくりあげる姿を目にしたことはなく、敵ー味方という対位法でモノゴトを推し進め、何となく情報化社会で自画像が描けず不安を感じていた人々に依代をつくった。その結果他方で、イヤな人達を排除することを平然と行ったと知っているからだ。つまりそもそも国民の求心性をつくろうとする資質を持っていなかった。排除することによって、あたかも国の方針が一つにまとまったかのような「見てくれがし」を装った方だ。エリザベス女王の国葬と比較することが間違っている。

 情報化社会化したせいで、ただの個人の感想までが飛び交うようになった。ちょっと名の知られたお人は、あたかもそれが社会的な責任であるかのように国策についても発言している。そんなこと、ただの岸田政権のみすぼらしい「見てくれがし」じゃないか。外つ国の人達から見ると、凶弾に倒れた東の端の島国の元宰相とみえるだろうが、あれこれ枝葉を取っ払い、彼岸に渡った同業者を弔うってんだ。村八分でも葬儀ははじかなかったというから、ま、顔出しくらいしておこうと思って誰かを送ってくるのであろう。だが内輪の事情を知っている国民は、まだ一つの片付いていない元首相銃撃の「蓋然性」を覚えているから、「見てくれがし」はもう結構と思っているわけだ。見せかけの比翼連理も、呆れちゃうけどね。

2022年9月21日水曜日

熟睡の条件Ⅱ

 夜中に目が覚める。時計をみると4時半を過ぎている。トイレに行きお茶を一杯飲んで新聞ウケを覗くが、今朝はまだ来ていない。再び寝床に入り、読みかけの小説を読みすすめる。80頁くらいを読んだキリのいいところで時計を見ると、なんとまだ0時45分。何だ、起きたのは11時半頃だったのか。迂闊さにオロオロすることもなく、直ぐに寝入ってしまった。またトイレに行きたくなり起き出したが、何時だか確かめる気持ちもなく直ぐにまた寝入ってしまったから、熟睡の途中休憩みたいなものだったのだろう。次に目覚めたときは5時。リビングの電灯が点いていたから、起き出す。コーヒーを淹れ、パソコンのスウィッチを入れてメールをチェックすると「1年前の記事」というのがブログのサーバーサイトから送られてきている。「熟睡の条件」と表題を打つ。

 去年は、4月の遭難事故で傷めた首と肩のリハビリを続けている回復途上。「7時間半ほどを続けて熟睡する(ことが)久々に…叶い」、前日の何が「熟睡の条件」になったのか記している。とすると1年経った今朝、不眠ではないが8時間程の間に二度もトイレに起きる(でも断続的ではあるが熟睡している)ような事態の、前日には何があったのか。そう考えようとしている。

(1)台風が通り過ぎていった。天気予報は良くないが、カミサンは自然公園の植物観察の下見のために電車で出かける。私も図書館へ本を返却し、生協へ買い物に行く。6㌔余、8500歩程歩いた。

(2)やんだかと思うと突然の大雨。暑いどころか、出かけた時よりも気温は下がっている様子。水はもってきていないが、飲みたいとも思わなかった。

(3)昼食を焼きうどんではなく、温かい肉うどんにしてたっぷりの水分を摂った。

(4)軽くソファでうとうとして映画を見て本を読む。土曜日seminarの「次第」をつくった。「梗概」と一緒に裏表コピーをしに行こうと思ったが、あまりの大雨に止めた。夕方大相撲を見ながら焼酎をオンザロックで飲む。玉鷲の勝者インタビューの笑顔がカワイイ。

(5)涼しくなった。シャワーで済まさず、久々に風呂を立て随分ゆっくりと浸かっていた。タオルケットだけでは寒いので上掛けを出してもらった。

 一日を振り返ってみると、夜のトイレは頻尿ではないようだ。秋らしい冷え込みに体の反応が変わっただけか。寝て2時間半程で目が覚めたのは水分摂取の調整のようなものだが、それを4時半と思ったのは(むしろ)熟睡していたからではないのか。その後も、寝られないのではなかった。よく寝ている。久々に湯船に浸かったのが、熟睡の条件か。トイレは急な冷え込みへの身の対応というところか。

 いつかも書いたが、首や肩の動きの不調は、忘れている。左手掌の術後がまだ痛む。昨夜は夜中にしているギブスがきつくて途中で解いてしまった。これがいいことかまずいことかはわからないが、湯船で左手をゆっくり温めたせいで手掌がほぐれ、ギブスで締め付けるようになったのではないか。とすると、温めてギブスで矯正しておく方がいいのかもしれない。でも寝ているときの痛みは放っておけない。ま、今日が2週に1回の医師の診断日。率直に話して聞いておこう。

 1年前の状態に比べれば、明らかに今の方が良くなっているのに、また一つ手掌の厄介を抱えて身の状態を吟味しなければならない。今後年を経る毎にこうしたことが多くなってくる。それが年をとるということだし、一病息災っていうのは、そうした身の様子に心配りをして用心していけということなのかも知れない。いずれにせよ、初めての体験の日々を、これからも送ることになる。

2022年9月20日火曜日

言葉のボディ

 1年前(2021-09-19)の記事「小さな声と多面体と社会の系」は、三題噺的に構成された朝日新聞の紙面に触れて《養老(孟)の指摘するシステム世界の息苦しさ、近藤(支局長)の「真実」の微細な、つまりパーソナルなありようとを、伊藤大地記者の「個人の多面体」がつなぐ視線。面白い視線ではある》と評し《いまひとつ重心が高くて、不安定な感を拭えなかった》とみている。

「重心が高い」とは何を言っているのだろうか。噺の展開が知意識的な論理(ロゴス)に傾きすぎていると指摘している(ように思う)が、これはライターが「個人的体験」を差し挟まずに言葉を繰り出していることへの批判と受け取れよう。だが逆に、全国紙のライターは、それが精一杯、その行間を埋める読者の思考が揺蕩う余白が「重心の高さ」を埋め合わせていくんじゃないか、と1年経って思い直している。

 つまり、読者の思念が触発され三題噺的に構成されていると受けとる所を、紙面を構成するデスクはイメージして仕事をしているんじゃないか。つまり、紙面はそれ自体としては完結せず、読んだ読者が触発されてなにがしかの感懐を抱いた所から記事は全体像を露わにする。それが「開かれていく」のか「閉じられていく」のか、あるいはその記事の提供する次元に「とどまる」のか「深まりはじめる」のかによって、ジャーナリズムの「質」がモンダイとなるんじゃないのか。

 提供する言葉(ロゴス)の「完結」するものは、読者をそこに閉じ込める作用をする。ライターや講演会の講師や討論会のシンポジストは、ともするとひとつの「まとまり」を持った噺をしようとするが、それがもし、読者や聴衆や視聴者を「なるほど」と思わせようとするものであるときは、しばしば「自己完結」に向かうベクトルを持ってしまう。それは読者を「参加」させてはいるが、翼賛するとか、賞賛するものがこれほど居るんだと自己承認の機会にするだけなのではないか。つまり講演者あるいは講演会主催者のためのエンターテインメントであって、講演の内容が参加者の思索を刺激し、自らを省みる契機として作用しはじめることにはならない。

 一つの事実を提示するってことが、それ自体としてあるわけではない。しばしばジャーナリストは「事実の報道」をしていると思っているかもしれないが、それは、その報道が為される時機と場面の関係に投げ込まれて、なにがしかの意味を持つから報道される価値を持つ。つまりジャーナリストがその「価値」に中立性を装っていても、(時機と場面の関係がもたらす)文脈に色づけられて「その事実」は「価値」を発揮する。

 長い間ジャーナリズムは「価値中立的であること」を基本信条としてきた。だが報道すること自体が、その社会に(文脈によって価値づけられる)問題を投げ込むのである。それが「中立的である」ことはあり得ないとすれば、ジャーナリストは、その場面の文脈に色づけられる「価値」に、つねに自覚的でなければならない、

 だが、SNS隆盛の現代では、価値中立的な装いが剥ぎ取られたばかりでない。自分好みの事実ばかりが提供されるように(情報提供サイトの)アルゴリズムが組まれ作用し、ますます価値的熱狂が加速されるようになっている。同好の人々と熱狂するイベントに於ける身の有り様に重きが置かれる。それは、そのイベントにおいて発せられる言葉(ロゴス)の意味よりも、その響き、繰り出されるテンポやトーン、それに浴びせられる賞賛の声など、いわば言葉のボディが、直接人々の身体性に働きかける。言葉(パロール)のボディが評価されるようになると、どういう論理でそれが組み立てられ、時間軸を組み込んだ前後関係の展開の構成や構造にどう位置付いているかは、ほとんど目に入らないかのようになる。何を喋っているかよりも、その気分が評価の対象となる。五感が何を感知し、どう身に受け容れ、それをどう知意識に転化して「認識」としているかも考えなくてはならないが、その後半部分が欠け落ちてきている。。

 その状況を感知する政治家たちも(ジャーナリズムもだが)、どんなにモンダイが非道くとも、時が過ぎれば人々はそれを忘れ、それに飽きる。そう思って、木で鼻を括るような応対をして平然としていられる。お好み情報ばかりに浸るSNSのアルゴリズムも、そのように為政者(と市井の民)の佇まいをも変えてきたように見える。世の中が非道くなったように感じるのは、権力中枢にいる為政者の言葉が皆、その場凌ぎになっている。狭い視界に収まる言葉に終始し、人生全体を見通す根柢に触れる視線を持っていない。わが身が時間と空間を組み込んだ世界にどのように位置付くかにほとんど関心を持っていないようにみえることである。

 で、どうする? ゆっくり読む。精読する。一つひとつわが身をくぐらせて、感知するわが身の根拠を問い、わからないことはわからないとして棚上げしておく。そういうアナログな身が付けた習慣を甦らせて、デジタル時流に呑み込まれない。時代の取り残された年寄りだからこそ、こんなことを言っていられるのかもしれない。

2022年9月19日月曜日

かつて経験したことのないコト

 大型の台風14号が九州に上陸して日本列島を縦断すると一昨々日から警報が出ている。随分ゆっくり進行していて、未だ九州と思っていたのに、昨夜7時過ぎには猛烈な雨に雷。稲光と雷鳴に衛星放送が中断することになった。久しぶりにインターネットも接続をセットし直さなければならなかった。こういう手順が思い出せず、おろおろと手子摺る。まったくもって高齢者のぶつかるネット障害である。

 台風の速度を心配しながら長野県へ鳥観に出かけたカミサンから「何とか雨を免れていたんだけれども、やっぱり途中から雨。ツミ、ハチクマ、サシバが50羽ほどです」と夕方メールが入っている。長野はまだ、台風の影響が軽いようだ。台風もリモートってのを覚えたのか? 遠くの関東に異変をもたらしても信州には軽い雨程度って、「経験したことのない」様子の一つなのかな。それとも、強風半径が余りにも大きく、途中部分の雲が吹き飛ばされて、台風の袖の下に、台風の目のような状態が発生しているってことか。

 と思っていたら埼玉でも一転、今朝は明るい日差しが差し込む。ネットの「1時間ごとの予報」では晴れマークはない。午後まで曇り空。早速、洗濯をして干す。風もかなりあるから乾きも早いに違いない。気温は少々高いが、まだ30℃にはなっていないのかな。いい秋の入口だ。去年までの暑い夏の延長と違って今年は秋らしい秋が来ている。昨夜の猛烈な雷のことを忘れて感慨に耽る。

 昨日は一日かけて今週末seminarの「報告」の「梗概」と「詳細資料」をつくる。今朝「seminar次第」を制作しおえた。そうして印刷しようとしてネットやWIFIと繋がっていないことに気づいたってワケ。全部で印刷物はA4版で32頁。そのうち「詳細資料」28頁は、58文字×51行×28頁だからと計算して、400字詰めで割ったら207枚と出て、驚いた。そんなにはないよな。見出しや改行でわりと読みやすく間合いを取っているからざっと見て400字詰めで160枚くらいかな。1回のseminar資料としては多い方だが、コロナウィルスの所為でこのところ2年半の間、私は1回しか講師を務めていない。前回の今年3月は、一昨年出版した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』を取り上げた近況報告だったから、今月のそれは、それ以降、2020年5月からの2年半に書きとめたもの。なかでも去年4月の山岳遭難から今年4,5月のぶらり遍路の旅までをまとめているから、ま、原稿分量としてはそんなものだね。しかしこうしてまとめて振り返ってみると、エクリチュールのおしゃべりって、随分の量になるんだと(我がことながら)感心する。ま、これくらいおしゃべりして私は胸のツカエを降ろしているのかもしれない。

 えっ? 何がツカエているかって? 

 それが、ワカラナイ。何かもワカラナイし、そもそもツカエているのかどうかもワカラナイ。おしゃべりを書き落としている裡に、益々(外側世界の)ワカラナイことは増えていく。まるでここ80年近く溜め込んだ体感知意識が輪郭を取れば取る程、その輪郭の外のワカラナイことが増えていく。わが身の体感知意識の輪郭を取ることがじつは、その根拠を掘り崩して所謂エントロピーが増大するように、わが身の体感知意識を崩していくとでも言おうか。でもそれが(わが人生80年を振り返ってひとまとめに見るようで)オモシロイと感じられるから、ますますワタシの根拠が崩れようと崩れまいとお構いなく、吟味のおしゃべりが止まらない。この感触は、ワタシがここ80年外界に現象してきた航跡を(何となく不都合なことを無意識に消去して)総覧するような趣がある。これはワタシの傾きではあるが、それがいいことか悪いことか、善し悪しを離れたことなのかは、ワカラナイ。

 もしこれが、文章に書くのでなく、口舌(パロール)のおしゃべりだとしたら、わが身が吟味されているという体感は得られないと思う。喋る傍からどんどん忘れていって、何をしゃべったかも直ぐに忘れてしまうからだ。そういう意味で、エクリチュール(書き付ける)という作法は、自己対象化をするに、寔に有効な効果を発揮している。オモシロイ癖を付けたものだと(社会的はほとんどみるべきものではないのに)わが身の来し方を肯定的に見ている自分に気づく。まこれが、ワタシがへこたれないで書き続ける力になってるんでしょうね。

 とここまで書いていたら、晴れ間が崩れ、たちまち音を立てて大粒の雨が落ちてきた。風も強いから洗濯物を慌てて取り込む。まだ11時前というのに、もう乾いている。こんなことも経験したことのないデキゴトではあるが、これはただ単に、私が日頃カミサン任せにして知らぬ顔をしてきただけにほかならない。大型台風とは次元の違うことではある。

2022年9月18日日曜日

記憶が埋もれる

 やはり夜中に夢うつつにイメージが浮かび消える。旧約聖書の物語のもとになったアレはなんて言ったけと疑問の泡がぷかりと浮かぶが思い出せない。ほらっ、あのメソポタミヤの・・・と想起域を刺激する連想ゲームに入っているが、アレは埋もれたまま寝入ってしまった。そうして朝方、ギルガメシュ叙事詩という言葉がぷかりと浮かんできて、自問自答は片付いたのだが、ではどうしてそんなことがモンダイだったんだろうと、わからずじまいの問いのままになった。

 ふつう忘れるというが、昔聞いたり読んだりした話しや人の名前などが思い出せないことはよくあること。だが忘れているんじゃなくて埋もれているんだと、ギルガメシュの泡のことを思い返している。メカニックに考えると、入力してあったら出力することができる。入力しないのに出力できるのは(ヒトの反応パターンを真似て)AIのアルゴリズムが作動していると考えるのだろう。だがヒトの体験や記憶は、入力した覚えがないのに言葉を喋っていたりする。入力したのに思い出せない。ヒトの胸中のアルゴリズムは、私はワカラナイと言うけれども、メカニックに考える人はAIのそれと同じと考えているかもしれない。

 ワカラナイと私が思うのは、アルゴリズムという輪郭がくっきりとした回路があるとは思えないからだ。そもそも外部からの入力も「入力」という表現で表されるような明確なものではない。例えば視覚からヒトの顔が入ってきたとき、「あっ、これ指名手配書にあった人じゃないか」と気づいて職務質問をするって警察官の話があるが、私からするとほとんど神業に近い。投手の投げた剛速球が止まって見えるとか、ライフルの銃弾が来るのが見えたので避けたという、ほとんど漫画の世界でみるような(でも実在の人物が体験したこととして語っていた)超人的な「視力」である。ワカラナイというのはそういうことだ。身に染みこむようにその感知能力を磨き上げてきたのだ。アタマで考えて身につけるというのとは違う力が働いているように思う。

 ヒトの感知能力の類型からすれば、熟練者のみが到達できる世界なのであろう。逆にみるとこう言えよう。視覚に入ってくる「情報」はそれ自体がニュートラルに入ってくるわけではない。どなたであったか哲学者が「物自体は認識できない」といったように、目に入った「情報」もほぼ瞬時にヒトの感知回路を通して意味づけされ選別されて感受している。みたいものしか目に入らないってこともあろう。見ても即座に好悪の選別器に掛けて、目を背けることもあろう。見たものが直に脳幹をビリビリと震わせてしまうこともあった。

 生理学的には「五感」と人の感官機能をいうけれども、じつはそれぞれの感覚器官から入ってきた「情報」は体の処理装置を通じ、ヒトそれぞれの固有性にまつわる取捨選択を経て感受されている。それを「こころ」と呼ぶ。頭で理解するのはその後のことになる。古くからは、感受も処理も「身」が引き受けていると表現してきた。心身一如とはそういうことだ。

 そこへ(身から剥がされた)アタマが介在するようになった。遂に魂が体から引き剥がされて、その結果、魂こそがヒトの本質ってこといなり、体がたんなるボディとしてアタマの奴隷とされるようになった。今から2500年程も前のギリシャのことだと哲学者の名前が浮かぶ。

 他方でワタシが無意識に身につけてきた自然観からすると、アタマかボディかという分節化を受け容れてもなお、アタマが身を凌いでいるとは思えない。いや、あれかこれかという選択のモンダイではなく、アタマもボディも一つになって「身」として感受し、わが身を世界に位置づける「こころ」の関係感知能力に応じて、応対(レスポンス)をしているのだ。その「こころ」の感知能力がどのように作動し、どう問いかけどのように応答しているかは、私にはまだワカラナイ。ワカッタつもりになるよりはワカラナイと自覚していることが、ヒトと応対するときに心得べき基点になる。

 さて冒頭の、ギルガメシュが埋もれていたこと。忘れるというよりも埋もれていたと思ったのは、後で思い出したからであるが、考えてみると思い出す必要もないことであった。旧約聖書の物語の原型となったメソポタミヤの物語りがあったという(感触)だけで、唯一神の物語も長い間の人類史の集積と論理抜きで受けとることができる。もしロゴスを加えるなら、その長い間に、なぜヒトはかくも醜くヒトを蹴飛ばすことで身を立てなければならないのか、互いに殺し合う程の争いを繰り返すのか。そうした子細に踏み込んで言葉にしていかねばならない。だが身に湧き起こる感触を経由して刻んでいると、そうした祈りに似た思いを抱き続けた果てにつくられていったであろう叙事詩が、絶対神を登場させ神話として物語ることで(集団の物語として)共有されていったのであろうことが、「祈り」の形で感得されている。とするとギルガメシュを埋め込むことによって私は、絶対神ではないが、知的に分節化して入力されたモノゴトを「こころ」裡に取り込み、アタマの差配するアルゴリズムではなく、身の自然(じねん)として昇華させているのではないか。

 思い出すことが必要なのではなく、無意識の身の応答として、包括して外界とかかわるようになることが好ましいのではないか。その領域に入ってきたぞということか。良いか悪いかは、今のワタシにはワカラナイ。わからないでいいのだ。居直るのではない。そういう現れ方をしているワタシの現在だと受け止めておこう。

2022年9月17日土曜日

もしワタシがバクテリアなら

 朝方、妙な思いが体を経巡っているのに気づいた。自分がバクテリアになった。夢というにはヘンにイメージが論理を辿ろうとしている感触がある。

 私の身体の中には1000兆個の菌類がいると何かで読んだ記憶が、今ごろ目覚めて、遊びはじめている。時計を見ると朝4時前。トイレへ行きお茶を飲んで、ブログ記事の概ね15年分を溜め込んでいるファイルを検索すれば「1000兆個」の所在がわかると気づいて実行してみると、なんとⅠ年前の「食べることと生態系と人間」に行き着いた。藤原辰史『食べるとはどういうことか』(農文協、2019年)を読んだ読後感を記している。

 藤原は人間を「捕食者というよりも分解者」としてとらえて「微生物や細菌と同様の働きをしている」とみるところから、諸種の見解を繰り出している。それが1年間という発酵期間を経てワタシの身の裡でぽこりと一つの泡となって夢枕に立ったって事か。

 ちょうど一週間後にseminarがあり、お題が「躰に聞け!」だ。昨日は一日、その「資料」作成に費やした。それが寝ている間に、「もしワタシがバクテリアなら」という妄想になって表出してきたってワケ。ならば、それを少しく考えてみよう。バクテリアもウィルスも一緒くたにしているが、ま、生物学者でもなく素人の市井の老爺なので勘弁してもらおう。

 コロナウィルスが変異して、手子摺っている。なぜ変異するのかTVでは専門家が「生き延びる戦略」という趣旨のことを言っていたが、とするとヒトも同じ、生き延びる戦略として随分と変異してきたではないか。アルファベットの数に収まらない程の数の変異株ヒトが地上に満ち満ちている。いまロシア株がウクライナ株に攻撃を仕掛けていてヨーロッパ株やアメリカ株がウクライナ株を応援している何て考えると、高みの見物をしているようでオモシロイ。

 じゃあお前さんは何だよと問われると、JP株の変異1942.0010**って名がつくかもしれない。言葉も振る舞い方も継承されてきて、生まれ落ちて後は相当勝手に生い育ち、おしゃべりと山歩きを得意技として生き延びてきたって変異種だ。

 きっと誰も今のオミクロン株に「お前セカイのことをどう考えてんだよ」と問い詰めたりしないように、ワタシもまた、ロシアのこともウクライナのことにも、知らぬ存ぜぬ感知せぬを貫いて平然としている。もっともわが身の裡の1000兆分の一と比べると80億分の一だから10万分のⅠ以上の「責任」の重さになるかもしれないが、この大自然に責任があるとしたら、それをつくった唯一神くらいのものじゃないの? その彼らが争い合ってるんだもの、知ったこっちゃないよといったってバチは当たらないよね。

 でも変異して生き延びて、それが地球という一個の体に(なにがしかの)作用をするとしたら、たとえ蝶の羽ばたき程度であっても(なにがしかの)作用とは何であるかと考えてしまう。それがヒトのクセなんだね。ミサイルをぶっ放して町や暮らしをめちゃくちゃにするよりはマシとも言えなくはないが、争いの大本がそもそも、妄想というヒトのわるいクセのもたらしたものだとすると、プーチン蝶の羽ばたきもそう軽く考えるワケにもいかない。

 争いを大きくしないために大事なことは、ヒトのクセであるわが妄想は1000兆分の一という卑小なことに過ぎないと自覚すること。卑小だけれども、この蝶の羽ばたきを止めてしまうと蝶は落下する。生き延びていけない。生きている限り羽ばたき続けなければならない。それが生きるってことだよと卑小なバクテリアは自覚しなくてはならないってことか。

 どう羽ばたけっていうのと訊くヒトがいるかもしれない。いつしか身につけた羽ばたきというヒトのクセを自分はどうやっていたのだろうと振り返る。変異株という細かい違いがいつしか生じているように、そのヒトの羽ばたき方(の根拠)はその人にしか対象化できない。

 メンドクサイことながら、それも一つひとつ対象として見つめ意識するように取り出してくる。そこまでが(言葉を持ち集団的無意識としてそれを育ててきた)ヒトのクセと覚悟して向き合うしかない。そこまで行かないと自分の羽で羽ばたき生き続けているとは言えないってことかもしれない。

 でもねえ、羽ばたく蝶の行く先に「強烈な台風」がやってくる。ここで落ちないようにするにはどうするこうすると言っていても、おおきな風に呑み込まれ、吹き飛ばされてケセラセラってことしか道はないのかもしれないね。でもそれが、ヒト・バクテリアの生きる道って(村田英雄を気取って)肚を決めてみるか。ハハハかな、トホホかな。

2022年9月15日木曜日

古書始末

 本を始末しようと手を付けた。たまたま目にしたのが、本を引き受け、売り上げからNPOに寄付をするという「埼玉県の古本募金」。これなら捨てるよりは気が休まる。電話をする。「ISBNが付いているもの、古書として読むに値する汚れていないもの、百科事典や辞書類はご遠慮下さい」という。梱包→申込→集荷と手順が決まっていて、WEBで申し込みができる。もう5年も前にまとめていて積み上げていたものを解いて、分別して段ボールに詰める。5箱になった。ISBNが付いていないものも結構あった。1960年代に出たものだけでなく、私家版のように出版されたものやなぜか判らないがついていないものがある。私が読むときに線を引いたものなども、当然外した。

 WEB申込書に記載すると、折返し「集荷のお知らせ」というのが届いた。こちらの申し込み通りの記載があり、もし万一集荷が行われなかったっ場合の連絡先も記載されている。なるほど、こういう遣り取りが組み込まれていると、本の始末が間違いなく行われていると判る(ように思える)。そうなんだ。私たちはこういう(ように思える)ことに信頼を繋いでいるのだ。世の中のデキゴトの一つひとつが、そうした(ように思える)ことの連鎖であったり、積み重ねであったり、それによって醸成されてきた胸中の(慥かさの実感)が漠然と社会とか他人に対する信頼や信用の度合いを推しはかることをしている。世に出来する(ように思える)ことを吟味し、これってホントカネ? と瞬時に見分けるベースになっている。

 オレオレ詐欺に引っかかる人たちを嗤えないのは、その人たちが寔に情に厚い人であったり、疑うことを知らない感性や感覚を未だに保っている人たちだと(私が)思うからだ。それこそ、島国根性といわれようと「水と安全は只と思っている」と誹られようと、この列島住民の好ましい特性だと、わが身の裡のどこかが共振しているのである。素直でナイーブでお人好しというのは、そういうふうに生きていて不都合がない社会の気風に包まれていることを示している。その気風を好ましく思うから、オレオレ詐欺に引っかかる人たちを嗤えないばかりか、その人たちがつけ込まれる時代になったのだと、むしろ時代と社会の変容を嘆きたくなっている。

 もっと容易にそういう時代・社会を理解するには、日々報道されている政治家たちの言動をみるだけで十分である。むしろ彼らは、オレオレ詐欺を仕掛ける方のような振る舞いをしている。むろんそういう政治家を選んだ住民・国民の責任ということも言えるが、為政者というのが(ただの庶民ではなく)社会をつくっていくことを役目とする立場にあるからだ。先ず隗より始めよというのは、そういう社会的な気風をつくるには、一つひとつの関係をそのようなものとして繰り返し紡ぎ続けることしかない。人になにがしかの振る舞いを求めるとき、その振る舞いの文脈から自らを枠外に置いて施策を講じるというのを、操作的と呼ぶ。つまり人を人としてみていない気風が文脈の行間にみえるとき、(ように思える)ベースとは別の気分が醸し出されてくる。それ故に、選挙によって選出される政治家というのは「選良」と呼ばれ、いわば社会のエリートという名誉を受けているのである。その、もっとも(ように思える)振る舞いを期待される政治家がこの為体(ていたらく)である。もうすっかり、社会の(気風を云々する)底が割れている。

 宅配業者が指定の時刻に荷物を受け取りに来た。「着払 お客様控」と表題のある受け取り票を手渡して、5箱を手押し車に積み込んで運んでいった。さあ、このあと「古本募金」の取扱業者が「受け取りメール」を送ってくるかどうか。送った古本の査定額とそのうちの募金額をどのように知らせてくるか。私の(ように思える)社会に対する「信頼」の土台が、また慥かめられることになるか。

 そうそう昨日、まだ生きてたんかいなと思ったゴダールのことを今朝(2022/9/15)の朝日新聞で蓮実重彦が書いている。それを読むと、ゴダールのことをそのように感じているのは(1960年代に触れた)市井の民の私であって、知る人ぞ知るところでは2004年まで映画制作にいそしんでいたことが記されている。しかも蓮見はこう加えている。

《「勝手にしやがれ」を見ながら「新しさ」ばかりが推奨され、それが持っていた古さに対する深い敬愛の念を誰も見ようとしていなかった。何ということだ!》

 そうか、1960年代の社会の気風は「新しさ」を求める=古いことを壊す=ことに夢中で、古いことに対する敬愛の念が(じつは)その気風の底には流れていることに頓着していなかった。私が(いくぶんか)そうであり、といって古いものをきっぱりと捨てることができない見切りのワルイ自分が、無意識に古いものを断捨離できないで宙ぶらりんで来たのであったとわが身をふり返る。

 古本を始末することがこんなふうに古いものに対する敬愛の念を受け継いでいくことになるんだと、あらためて思った。わが身の始末も、同じような視界を開くのかもしれない。

2022年9月14日水曜日

33回忌と安心の根拠

 先日の夕方、大相撲が「これより三役」に入っていた頃、突然ピーッ、ピーッと大きな音がして「ガスが漏れていませんか? ガスが漏れていませんか?」と声がする。えっ、ガス漏れ警報器だよこれ、と夕飯の支度をしながら取り組みを観にリビングにいたカミサンがキッチンへ駆け込む。3口あるうちの二つのガスコンロ火がついている。天井のガス漏れ警報器の音と声は鳴り止まない。椅子を持ってきてその上に立って警報器を少し回すと音は止まった。やれやれ。と椅子から降りるとすぐにまた、音と声がけたたましい。

 何度も椅子に上がり音を止め、その合間に東京ガスのカスタマーセンターとおぼしき所に電話をする。事態を聞いた電話口は、ガス漏れ対応の電話番号へ知らせて下さいと丁寧な応対。そちらに電話をする。その間にも、警報器は1分ごとに鳴り続け、止め続ける。ガス漏れ対応の電話口は、状況、住所、電話を聞いて、まずガスを止める、電気器具のスウィッチを入れないなどの注意を述べて「すでに対応する車両がそちらへ向かっている。到着まで20分くらいかかる」という趣旨のことをのべる。

 警報器を止めていたカミサンが「この警報器、効いていたんだ。前回チェックは2005年だよ」という。そうだね、入居の30年前に設置されて何年かに一辺チェックがあったことは覚えているが、その後有料となって以来放置してきたことを思い出した。もうすっかりこの装置は死んでいるものと思っていたのに、まだ生きていたんだと感慨深い。

 緊急車両の音を立てて向こうの街路をやってきた車が近づいて音を止める。家を出て通りを覗くと、二人の職員が「用具を以てこれから行きますので」と口にする。引き返し、客用スリッパを二足取り出し並べる。「全部のガスを消して下さい。元栓を閉めます」と声をかけ、一人が入ってくる。まず警報器の音を止める。そのとき「ここを止めておかないと、(団地)事務所の警報器も鳴っているから」とインターホンの操作もする。ガスの使用口の在処を尋ね、キッチンのコンロの他、ベランダにあるガス湯沸かし器もチェックする。オーブンをつかっているかと聞く。そうだ、壊れていると何年か目に判り、別に電子レンジを買ってオーブンはつかわなくなった。「このグリルは危ないですね。つかわないようにしてもらえますか」という。カミサンが「ハイそうします」と応じている。あっ、焼き魚が食べられなくなるかと私は思った。

 結果的にガスが漏れているわけではなかった。「1989年製ですからね」とガス検知器の製造年を口にしたから、検知器の経年劣化が誤作動を引き起こしたってわけか。そうか、ちょうど33回忌ってことかと、別件と重ねて思いが跳んだ。すっかりその存在自体を忘れていた。

 ガス漏れチェックは、その後グリルのスウィッチに「危険」というステッカーを貼って、終了した。検知器をどうするかは東京ガスに相談して下さいという。この緊急対応は、無料であった。そうなんだ。こういう対応がスムーズに為されるというのが、社会インフラが整っているということであり、私たちの安心の根拠なんだ。ガス漏れ検知器の「誤作動」が図らずも社会インフラが作動する検知機能を果たしたってワケだ。

 ガス漏れ検知器ではないが、私たち年寄りが経年劣化の果てに「誤作動」を繰り返していることは、日々報じられている。そのとき表出するのは「誤作動」を起こした年寄りではなく、そうした「誤作動」を起こしてもきっちりと対応する社会インフラが作動しているかどうか。それを確認できるのが、安心して暮らせる社会ってことだ。果たして日本は、そう呼ぶに相応しい佇まいを持っているか。そういうふうに世の中を見ていかなければならない。

 昨夜カミサンが「ゴダールが死んだ」とニュースの入ったことを話した。えっ、ゴダールって生きてたんだと、私は口にした。まさしくガス検知器の警報音を聞いたような感触であった。

2022年9月13日火曜日

次元の違う世界を生きている

 1年前(2021-09-12)の記事「仁慈の心と出撃拠点」を読んで、61年前の大学生活の出発点を思い出していた。長兄の生誕84年、没後7年の日。思い浮かぶあの頃のワタシは生活ということがほとんど身についていなかったのだと、後に思い知ることになる。にも拘わらず(その当時は)、生活技術を身につけることに目が向かず、かといってアカデミズムの知的世界の門内に入ることもなく、文化文明の違いとそれのもたらした人々の様相の違いに眼が行って、移ろう世の中の表層を追うことに関心が傾いていたと、大雑把にいえば言えるようであった。後悔しているわけではない。

 あの辺りで生き方の次元選択が行われていたのかもしれないと、いろんな次元への扉があったと門前に立ち尽くすわが身を思い浮かべて、ふり返る。こういうことができるのも皆、事後的に感知することのできた「世界」に視点が置かれているからである。私自身の感性として「あり得べきワタシ」があったわけでもない。またそれを想定してそこへ向けてわが身を叱咤激励するセンスを持っていたわけでもない。そう、わが躰をふり返るから後悔はしていない。だが「次元の違う世界」の扉を見ていた心地であるから、そちらにもオモシロイ世界はあったろうなあと、ボンヤリと感じているわけだ。こういうのも「反省」っていうのだろうか。

 そういう次元の違う世界を長兄は生きていた。それを身近にいて私は感じていただけであるが、その次元の違う距離が、歳をとってわりと頻繁に(月1回くらいのペースで)食事を共にするようになり、山歩きをガイドするようになって縮まっていたから、違う次元への敬意と触れ合う「関係」とに、ひときわ深みのある感懐がともなって来るのだと感じている。

 その長兄の生誕85年だなあと、昨日朝方思っていた。だが夕刻、かつて野鳥の会の代表を務めていて一緒に探鳥の旅に連れて行ってくれたFさんが亡くなったとわが師匠に連絡が入った。その方の年齢が84歳であったと判って、長兄と同年生まれだったか、それとも一つ若かったかと考えるともなく思っていて、長兄の生誕85年ということを忘れてしまっていた。

 このFさん、車の開発技術者。いつだったかカリフォルニアの探鳥の旅の途次、泊まったドライブインの駐車場に置いてあった複数の大型バイクを彼がしげしげと眺めていて、そのドライバーたちに怪しまれてからまれたことがあった。3人ほどのドライバーが「何やってんだよ、お前」って調子で詰め寄っている。彼はへどもどしている。見掛けた私が近づいて「どうしたの?」と聞くと、「このバイク、私がつくったんだよ」とFさんはいう。それを彼らドライバーに伝えると、彼らの口調が途端に敬意に変わり、エンジンのここがどうあちらがこうと、遣り取りがおしゃべりになった。本当に素朴で実直、かつ人付き合いの良い穏やかな方であった。

 傘寿近くになって認知症を発症したのであろうか、周りに気遣わない奔放な振る舞いが目につくようになった。奥様が(日常の活動にも旅にも)いつも付き添い世話をしていたが、それに構わず同道しているご婦人に言い寄ったりして、やはり同行のご婦人方から大いに顰蹙を買っていた。私は、原初的な男の(歳をとっているからそれなりに節度のある)微笑ましい姿とみていたが、3年ほど前から顔を出すことが少なくなり、カミサン経由で風の便りを聞くばかりになっていた。

 84歳といえば、平均寿命を3つも過ぎている。もちろんヒトは平均で生きているわけではない。だがその程度の年齢になれば、躰の機能的な面もおおよそ経年劣化の限界に近づいていて、不思議ではない。彼の死因が何であるか聞いていないから、そうは口にしないが、老衰といわれても可笑しくないとわが身に置き換えて思っている。

 Fさんもそう、わが長兄もそう、皆さんそれぞれ次元の違うところで生きているのだ。それがたまたま、ワタシの次元と絡み合うところでセカイが交錯し、関係が目に見えるようになっているにすぎない。

 ただ兄弟というのは、生まれ落ちた所からすでにわが身の一角を占めている。意識しているかどうかにカンケイなく、いやそれどころか、私が物心つく頃以前のワタシの無意識のほぼ全部を共有しているのが、親子兄弟などの家族である。ワタシの感性や感覚、それらを身に総括している「こころ」の感知作法も、その無意識に源を持っている。いわばワタシのセカイの源泉である。これはイイもワルイもなく、ワタシそのものであるのだが、同時に、私にとっては「混沌の世界」の基点だ。そこからセカイを引きずり出し、なにがしかの物語に紡いで来たのが、現在の私の実存であり、わが身を置く次元の世界である。

 オモシロイのは、たとえ認知症となっても、きっと、ワタシのセカイは、それとして崩れないで存在していることだ。屹立しているか、崩壊間際であるか、揺れ動いているかは外からは見えない。躰が劣化するとき、その「こころ」の部分が劣化衰退しないのかどうか。ワタシの自然観からすると心身一如であるから、共々に衰微してやがて共に消えていくと思っている。

 しかしそれは、ワタシの内側からみえるセカイの感触。外側から見たら、未だ長兄の声や身のこなし、柔らかな人当たりの感触がときどき甦るから、身の湛える雰囲気というか佇まいの気風は、関わりのあったヒトの胸中に生き続けていくのかもしれない。

 もって瞑すべし。そうわが肚に据えている。

2022年9月12日月曜日

寝間着のまま人前に出る

 部屋の整理を迫られている。老朽化した給水管給湯管と配水管の取り替え工事のために、9月末頃までに空間をつくらなければならない。迫られると言うより、迫られないと取りかかれないワタシの性分が、こうした事態を引き寄せている。それは重々わかっているのだが、束ねた本にISBNがついているかどうかをチェックして段ボールに詰め替えるのに、一冊ずつ手に取ってつい目を通してしまう。

 おっ、こんな本を読んでいたかと、つい中味に目を通す。29年前に出版されている。橋爪大三郎『橋爪大三郎コレクション①身体論』(勁草書房、1993年)。「まえがき」を読んで思いだした。これは橋爪が20代から30代にかけて書いた論文の草稿を集めたもの。見田宗介の膝下で学び、心身の社会学者から〈言語〉派社会学者として登場する過程の着実な思索の歩みが記されている。言うまでもないが、哲学の最先端を垣間見せている。

 それが私の市井からの視線を惹きつけるのは、考えているワタシを外さないこと。しかも、ワタシの数だけ世界があり、ワタシが亡くなるとワタシのセカイは消滅すると見ているリアル認識の慥かさである。つまり、私が死んでも残る世界とワタシのセカイとは別であり、前者だけが普遍的リアルとする唯物論と後者が世界に現象する事象とみる現象論とを、異なる次元からのコトのとらえ、「ダブルリアリティ」として統合する現実認識の手法を開示してみせている。この哲学的な視点を構築しようとする試みは、言うならばワタシに代わって知意識人が成し遂げている偉業だと、岡目八目ながら心裡で拍手を送ってきた。

 パラパラと読み返していて、一つの表現が目に止まった。

《お読みいただければ判るが、文体も用語も考察の密度も、草稿ごとにばらばらである。執筆時期が前後十年にまたがっているためもあり、あちこちに論理的な不都合がみつかるかもしれない。いまの時点でそれに手を加えることは不可能であるし……そのままにした。》

 と断った上でそれを、

《こういう‘寝間着のままで人前に出る’ような企画を、きまり悪く思っている》

 と記す。いいねえ。実際の本文を読むと、これが「寝間着のまま」だとしたら、私の書き記しているこの「よしなしごと」などは、もう「パンツ一丁で人前に出ている」ような振る舞いである。ま、知意識人と市井の庶民との知的階梯の差異が現れていることに過ぎないのだが、私自身の身に堆積した人類史的文化の堆積というのと同じことを、次のような警句にまとめて、彼の思索の基点に置いている。

《身体とは、(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である》

 それが、うれしいのだ。こういう「発見」をするごとに、私は、ワタシの内側に堆積しつつある人類史文化というか、未だ言葉にならないイメージや感懐や湧いては消えるあぶくの断片がパンツ一丁で人前に出ていることを、「きまりわるい」どころか「恥ずかしげも無く」振る舞っている。これも、市井の老爺の、破れかぶれの生き様なのよと居直ってお披露目に及んでいる。お目汚しの点は、御容赦、ご笑覧の程、よろしくお願い致します、だ。

2022年9月11日日曜日

悠久の時という妄想の源

 1年前(2021/09/10)の記事、「季節のせいか復調の兆しか」を読むと、東松山の森林公園へ恐る恐る出かけていたことがわかる。そう言えば去年は、4月の遭難事故のリハビリで右肩と肩甲骨と首が傷んで、満足に歩けなかった。奥日光の戦場ヶ原を抜けようとしたが直ぐに草臥れて、途中から赤沼に引き返した。2時間しか歩いていない。そのあと、丸沼高原のロープウェイで上がって日光白根山の中腹まで登ったが、休み休みして4時間余歩いたのがやっとだったと思い出される。

 5月から転院してリハビリをはじめてから3ヶ月、リハビリ・クリニックでやっている鍼を奨められて行った頃から、恢復が早くなったように感じる。月2回の鍼が年末には月1回になり、やがてマッサージだけになり、それも2週に1回となっていたのが、今年の7月。そして、左手の平の手術をしたのだが、そちらの痺れと痛みがはじまって以来、右肩と肩甲骨の不具合は忘れてしまっている。良くしたものなのかどうかはわからないが、より大きな負荷が加わると小さい負荷は忘失される。身はほどよく全体を身計らっているようだ。もっとも、そのツケは身全体の劣化として支払いようもなく劣後負債になっているんでしょうけど。

 このところ9月に入ってから気温もそこそこ涼しい日がつづく。今朝ほどは夜中に脚が冷えるように感じて目が覚めた。タオルケット一枚では用が足りなくなってきた。台風もいかにも9月らしく、相次いでやってきている。その昔日の季節感が嬉しくなるのは、歳のせいか温暖化の所為か。

 昨夜は「中秋の名月」を見ようと夜7時半頃外に出た。

 えっ、ないぞ?

 そう思いながら、見晴らしの利く武蔵野線の高架橋へ行ったら、やっとみえた。まだ低い所にまん丸の月が輝いていた。双眼鏡を通してみると昔と変わらぬあばたがくっきりと大きくみえる。湿気が少ないせいか、それとも「名月」と思っているせいか。本当に名月なのか。そうだ、月は同じ面しかみせていないのだと改めて思った。

 わが身は年々歳々移り変わる。恢復と同時進行で経年劣化も進む。月だって同じように地球との関係や太陽との関係で少しずつ移ろっているのだろうけど、私らヒトの時間尺度では見分けることのできない不動の様相を呈している。

 中学生の頃、まだ舗装もされていない国道を歩いて、夜中に西の家から卵をもらってくるお使いに行ったことを思いだした。煌々と照る月が道を照らして周りの田圃も闇も怖くなかった。そのとき歩いている私に、月がついてくることに気づいた。何だか見守られているように思って嬉しくも不思議に感じたことがあった。

 これもいま考えると、過ごしているときと空間のスケールの違いがあるからだとアタマはリカイする。リカイはしても不思議の感覚は残るから、そのカンケイに「悠久のとき」をみてとって、彼岸と此岸の共存を腑に落としていたのかもしれない。

 これって、ただの妄想と言ってしまえばその通りだが、メカニックなリカイよりも自らの立ち位置を決して手放さないで超越的存在に対する敬意を込めていることを意味する。これは素晴らしいではないか。限定的存在のヒトが、超越的存在を身の裡の世界として組み込む作法がこういうことに現れている、と思えてうれしい。

 科学的探求が解明する理知的世界理解は、当初(その理解の裏側に)、ヒトの卑小性という立ち位置を伴っていた。それはじつは、理知的理解の対象世界に対して超越的な存在として敬意を払っていた証しなのだ。それが失われた。理知的理解がメカニカルなリカイに終始し、その超越的(立ち位置の違いから来る時空間のスケールの違い)存在に対する畏怖の念、敬意を喪失してしまった。それが、社会的な関係として言えば、資本家社会の機能的な駆動力に圧倒されて科学が利益に通じる技術としてのみ評価されるようになったからだ。それは同時に反面で、(自分の立ち位置を手放さないが故に発生する)畏怖の念が、ただ単なる権威的な力に遵う従順性となって現れるようになっている。

 それが群れをなすことによって自律しているという幻想を纏い、政治的熱狂として表出しているのが、アメリカ共和党のトランプ現象ではないか。いやアメリカばかりではない。日本の旧統一教会も、自民党も野党も、みな卑小なるヒトの立ち位置を忘れ(同時に超越的存在への畏怖の念と敬意を忘れ)、悠久の時に自らを位置づける作法を忘失してしまったのではないか。ただ単に宗教性の喪失と言うだけではない。ヒトの卑小さ(の自覚)をどこかに置いてきてしまった生き方が、世界覆い、自然を食い尽くそうとしている。SDGsとしゃれる前に、その哲学的な視線を導入する手立てを暮らしの中に組み込む工夫を考えようではないか。 

2022年9月10日土曜日

一期一会に深まる感懐

 今回の檮原行は、カミサンの母の13回忌があるからであった。7回忌以降、6年間の無沙汰。その間に、長姉が脳梗塞に倒れ遠く高知市内に入院し、予後もその地の介護ホームに入っていること、独り住まいとなった義兄が老人ホームに入ったこと、次姉の義兄が重病で入院手術を繰り返していること、それに心を痛めた次姉が鬱状態になっている知らせが風の便りに届いていたここと。だがここ二年半以上、コロナウィルスの所為で訪ねることもできず、いまでも逢うことが適わない介護施設やリハアビリ病院ではある。いつしかカミサンと姪や甥が遣り取りをするようになった。元気な実家の兄が13回忌を取り仕切る機会に、ぜひ皆さんの顔を見に行こうということになった。

 兄も80歳代の後半に入って稲作を止め、丁寧に保ってきた千枚田を放置するわけにも行かず、杉苗を植えてせめて景観を保つのが務めかなと(兼業的にやってきた)森林整備を趣味的にやっている。体調を崩した嫁さんと一緒に温かい高知市内に暮らそうと娘が呼びかけたが、単身残って実家を護っている。90歳を超える長姉を筆頭にしているが、80歳を越えるということはこういうことだと教えるような兄弟姉妹の近況である。

 前日夕方に梼原町の中心部「マルシェ・ユスハラ」に着いた。割引切符の所為もあるが、朝5時40分頃に家を出て、新幹線・岡山で乗り換え高知駅へ向かう。駅で借りたレンタカーで檮原に直行して4時半頃に着いた。11時間ほどの行程である。でも、先に述べたように、最寄りの国鉄駅からバスで5時間余かかっていた「四国のチベット」時代を思うと、便利になったものだと、この半世紀の径庭を思う。

 着いたよと知らせるついでの電話でカミサンは、明日の打ち合わせを兄としている。お寺での法要を済ませ、次姉をカミサンがエスコートして会食をする実家へ行くと手はずを整える。カミサンは、入院しているという次姉の息子への見舞い、そのまだ小学生の娘へのお小遣い、介護ホームに入っている長姉とその連れ合いの代わりに出席する甥に見舞金、実家の兄の姪っ子の子どもが大学生になったお祝いもしていなかったと、それぞれ包みを用意している。思えば中学卒業とともに家を離れ下宿して高校に通い、そのまま大学へ行った(本家の末っ子の)カミサンにしてみれば、盆暮れに帰省するのが実家であり、その都度、兄弟姉妹や親戚の人たちに世話になったことが一杯あったに違いない。その身に刻まれた思いがいま滲み出している。

 翌朝、雨模様のなか次姉の家へ向かう。6年前に訪ねたときには元気そのもの、ご近所の人たちと協同して料理民宿をやっていて、皿鉢料理をつくったり、遠方に暮らす家族に送る注文を受けて正月料理をこしらえるなど、そこそこ経営的にも成り立って頑張っていた。それが連れ合いの入院手術というデキゴトをきっかけに鬱症状を発症し、認知症になったんだろうかと周りを心配させていた。連れ合いとの関係が親密であればあったで、また深い思いの強い関係が取り交わされていたらいたで、それが壊れたときの身の動きにもまたひときわ厳しいものがあるんだと思わせる。案外淡泊な夫婦の関係も、緊急時には「てんでんこ」といって気楽なものかもしれない。

 ところが会ってみて、そんな心配は吹き飛んでしまった。顔を見るなり、懐かしそうな顔が浮かぶ。「まあ、きたんかな」と嬉しそうに妹の名を呼ぶ。入院していると聞いていた息子がいる。昨日退院したのだそうだ。それは良かった。息子の嫁さんも、相変わらずシャキシャキと動いている。小学生の娘もいて、そうか今日は日曜日だったと気づく。淹れてくれたコーヒーを飲み、あれこれの近況を交わす。6年間の無沙汰が嘘のように消えてしまう。

 次姉の姿が亡くなった義母とかなって、やっぱり親子やなあと感慨深い。次姉は毎日草取りをしたりして、よく体を動かしているそうだ。後でお墓参りをしたとき、山の斜面を階段状に整備したお墓への簡易舗装した道が苔も生えて滑りそうだったので、次姉の腕を取って手助けしようとしたら、私の方の足元が滑りそうなのに、姉は「大丈夫よ、これくらいは」と口にしながら、シャカシャカと降りていった。雨はいつしか上がっていた。

 50代半ばになる姪っ子と小中高と同窓であった和尚が、世間話をしたのちに読経して法要を済ませ、西へひと尾根越えた実家へ移って会食となった。かつては兄嫁が娘たちと取り仕切って料理を準備し、次姉もまた料理の一部を受け持ってお接待を受けたが、今回は仕出し屋へ注文して、直前にそれを取りに行くことで整えていた。そういうことを姪っ子の二人が前日から帰ってきて差配してくれていた。つまりこうした儀式もすっかり若い人たちの手に渡っているということを知った。長姉夫婦の名代ということで60歳を超えた甥っ子が顔を出していた。

 6年前には実家に泊まることもあって、兄のお酒の相手をしたが、今回は車の運転があるから私はお茶にして、もっぱらカミサンと次姉が相手をする。姪っ子も明日からの仕事があるから車で帰らなければならない。だが4時間ばかり、戦死した亡父、戦後の本家を取り仕切った祖父、幼くして早逝した姉、祖父亡き後の柱となった亡母の遺影が鴨居から見下ろす部屋で、時代を往き来しておしゃべりを交わす。姪っ子も「はじめて聞いた」話がいくつも飛び出して、その行間に揺蕩う気配がみな近況報告にもなり、四世代を一つの暮らしと文化の継承と感じさせ、開け放った部屋と縁側の先に広がる景観が蓄積した厚みと深さを開陳しているようであった。

「今度は17回忌じゃけん、4年後じゃね」

 と会う約束をする兄に、

「大変だろうけど、また、よろしくね」

 と姪っ子にたちに向けて言葉を繋いで言ってはみたものの、後で考えると、それ以前に近親者の葬祭で顔を合わせることになるんじゃないかと思いが浮かび、口にすると不吉だから胸奥にしまい込んでお別れをしたのでした。

 帰り道、そうか4年後にも車の運転ができないと須崎からタクシーになる。全行程60㌔余を乗るといくらになるんだろうと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。末っ子のカミサンが皆さんを看取るとすると、こりゃあ、あと十年は足腰元気に過ごしていなければならない。他人事じゃないんだとわが身の余命7.5年を忘れて、思案するのであった。

 バカだねえ。

2022年9月9日金曜日

景観が誇らしき陰影を以て起ち上がるとき

 おっ、今日は重陽の節供。9というのが陽数の最も大きい数、極み。暦でいうと、奇数(陽数)が重なるのが、五節供として祝われてきた。それぞれに、1月は正月/七草、3月は桃、5月は菖蒲、7月は笹竹とくるから9月は菊になったのであろうが、これには菊自体の謂れを繙かなければならない。

 でも、9月以外は皆、正月、雛祭り、端午の節句、七夕と由緒由来が人の暮らしと結びついている。重陽の節供は不老長寿。それならそれと、端から重陽の節供=菊の節句を敬老の日にすれば良いものを、そうか、長寿が必ずしも目出度いことではなくなったってことか。長幼の序ということもいつしか消えてしまった。消えたからわざわざ「敬老の日」というのを設けて、祝うようになった。つまり、そのココロはピンピンコロリと逝ってねと皮肉な見方をした方が、コトの本質を見極めることができる。しかしそれを重陽の節供に重ねては、如何に何でも「誤解」を招く。半月ほどずらして実施するってワケか。

 とまあ、こんな風に口にすると、年寄りの僻み、偏屈、意固地だねえと外野からヤジが飛びそうだが、わが身の有り様(さらに世情の虚ろさを)を重ねて考えると、言い習わしの虚ろさが身に堪える。そういう時代の変遷をすっかり忘れて、ダブル・ナインだと縁起を担ぐ方が今風ってコトか。

 さて、昨日までの檮原の話に続ける。宿泊した「まちの駅・ゆすはら」の部屋からのぞき見た東側の景観に、図書館や老人ホームが背景の山に溶け込むようにたたずんでいる。手前の民家や電信柱のない街路もいい具合にトーンを合わせていて、いずれも建築家・隈研吾の制作によるものという(好ましさを伴う)「権威」の響きも手伝って、檮原という町の良さが象徴されているように感じる。

 この宿泊している「マルシェ・ユスハラ」も隈研吾の手になるもの。マルシェって市場のことだそうだ。フランス語で言うと新鮮に響く。カタカナ語は目新しさを伴っている。でもハイカラっていうと、大正昭和の手垢に塗れているね。「マルシェ・ユスハラ」の方が「四国のチベット」っていうよりステキって感じ。

 その食堂で朝食を摂っていて、脇に置いてある「持出厳禁 マルシェ・ユスハラ」とシールを貼った本が目に止まった。『隈研吾はじまりの物語――ゆすはらが教えてくれたこと』(語り:隈研吾、写真:瀧本幹也、青幻社、2021年)とある、ハードカバーの薄い本。食事を終えてしばらく座って読み通した。1994年に「雲の上ホテル」を手がけるまでの経緯、手がけるときに町長から「ユスハラの木材を使って下さい」という条件を聞いて木造建築の勉強をしたとも。それまで彼は、丹下健三にも付き、アメリカで高層建築などを含む建築に携わり、どちらかというとポストモダンに傾いていたのだが、ホゾをくりぬいて何本かを木組みするとけっして取り外せない組み方を覚え、それを軸にして国立競技場の建築にも生かしてきたことを語り、檮原の中心街を設計したという(オリジナリティを手に入れたという)気概を抱いていることを述べている。

 3日目、檮原を去る日の朝食後に、中心街から東の山の方へ2時間半ばかり歩いてみた。静かに雨が落ちている。こども園があり、図書館が開館準備をしていて、脇の老人ホームには送りに来る車が出入りしている。初日に訪ねて驚いた図書館の本の選定について、たまたま出てきた図書館員に(こちらの驚いた感想と合わせて)話を訊いた。

「司書さんが選んでいます。出版社からの寄贈に頼ることはしていません。結構予算を付けてもらいました。あなたのお話しは(司書さんも悦ぶと思うから)伝えておきます」

 と、立ち話。

 体育館の東側、一段高い所には保育園もある。その上に檮原高校の寄宿舎があり、まだ学校がはじまらないのか、体の大きな高校生らしき何人かが大声で話しながら、何かをしている。ぐるりと回って高校のプールやテニスコート、グラウンドの行き止まりから引き返して、校舎の下側を回り込んで、高台の掛橋和泉邸に上がる。

 町の中心部全体がよく見える。茅葺きのどっしりとした田舎家。雨なのに、玄関も縁側も開け放って風を通している。中から顔を出した(私よりは若い)お年寄りが「どうぞ上がってください、いま囲炉裏をいぶしています」と声をかけてきた。ボランティアで囲炉裏を焚き、煙で茅葺きの屋根まで煙を行き渡らせて燻そうとしていた。靴を脱いで上がる。幕末の頃の脱藩の志士たちの写真が飾られ、この屋敷の主・掛橋和泉が彼らを援助していたという。一つ驚いたのは、この屋敷が1935年までの村役場だったとあったこと。そう思ってみると、ここからみえる景観の佇まいが昔日のことを語り出しはじめるような気がした。

「どちらから?」とボランティアの老爺。

「埼玉からです」

「へえ、埼玉? 脱藩の道を訪ねて?」と応じる声に(どうしてそんなところから、という)驚きが混じる。

「いや、カミサンの実家がこちらなんです」

「四万川です」「脱藩の道の登り口には姉が住んでいます」

「かまやをやってるMさん?」

「そう、そうです。実家は神の山ですが」

「えっ、そうするとNさんとはどういう関係?」

 と、町会議長をやっていた叔父の名が飛び出す。本家の方の姪ですと名乗ると、

「じゃあTさんの妹さんだね。Tさんの嫁のSさんは私の従姉妹ですよ」

 と、急に話しが世間話になる。しばらく知人の話をした後、隈研吾の「檮原との出逢い」の話しをしたら、なんとこの方が、マルシェ・ユスハラの茅葺き細工を行った職人だとわかった。事前に隈研吾から絵を見せられ、こんなふうにしたいができるかと問われ、鉄骨との関係など子細を訊いて、できると応えると(隈研吾は想定していなかったようで)驚いて方法について踏み込んだ話しをするようになったと誇らしそうにいう。埼玉と栃木の県境になるが渡良瀬遊水地の萱をつかったと、カミサンの探鳥フィールドの名が出て、ふむふむと話が弾む。これからの萱の調達もできるだけ檮原でしようと何処其処にある駄馬の(長年放置してきた)草焼きを行政に進言したら、お前が責任以てやるならという条件でやることになったと、これまた地元萱育成に気合いが入ったようであった。

 この茅葺き古民家からみえる檮原中心部の景観が、隈研吾という著名人の権威を媒介にして一挙に、山奥の〈限界集落〉に向かっているこの町の気風を、守り続けてきた誇らしき人の暮らしに切り替えてみせているようであった。いや、媒介となっているのは著名人の権威だけではない。その気風に漂う身内の人たちの佇まいが染みこんでいるからなのだろうか。いやいや血縁という繋がりでもなく、人の暮らしが具体性を持って立ち上がり、佇まいの魂が(私の内心で)起ち上がったせいかもしれないと思った。

2022年9月8日木曜日

様変わりした秘境

 檮原町の話を続ける。私が最初に檮原町に行ったのは1966年。この時はまだ檮原村。「日本一広い村」と同道したカミサンが話していたのを思い出す。「四国のチベット」と呼ばれていると聞いていたが、なるほどと納得するに十分なアクセスであった。

 当時国鉄の須崎駅から檮原行きのバスに乗り、西へ向かう。山の斜面にとりついて、くねくねと細い道を上りはじめる。途中布施ヶ坂峠の茶屋でバスも一服する。トイレ休憩だ。なにしろ檮原町の中心部まで4時間かかった。「この峠、辞表峠っていうんよ」と耳にした。この先の津野町や檮原町に赴任する役人や教師が、ここで辞表を出して帰ってしまうと揶揄ったものだそうだ。

 着いた村の中心部は四方を山に囲まれたさほど広くない盆地。役場があって辛うじて中心部と思われたが、これといって特徴のある集落でもなかった。人口が減り続けて7500人ほどになったと聞いたのは、いつだったろうか。末っ子だからと大学まで行かせて貰ったカミサンが、結局出郷したまま都会に住み着く一人であったから、耳の痛い話しと思って聞いていた。

 この「四国のチベット」が一変したのは1970年代。須崎と檮原を繋ぐ道路がトンネルを抜いて直線距離50km余に近くなり、車で1時間余になった。檮原の中心部からさらにバスを乗り換えて1時間かかっていたカミサンの実家までも、トンネルを抜ける新しい道路が作られて、1/3の時間で行けるようになった。列島改造論にはじまる土建国家の効果がこんなところにこんな形で現れたと感じた。子どもが小さい頃はときどきお盆に連れて帰っていたから、お世話になったという思いは強く身に刻まれている。

 子どもたちが大きくなってからは足を運ぶことも少なくなり、一世代上の法事などもあって何年かに1回訪ねる毎に、変わりゆく姿を眺めるようになった。

 隈研吾の「雲の上のホテル」ができたのは1994年、2006年に「檮原町役場」が完成した頃から町の中心部はココよとランドマークができたように感じた。「雲の上のホテル」には一度泊まりたいと、脇を通り過ぎながらカミサンと話していたが、「実家があるのにそんなことはさせられない」という義兄に気圧されて一度も泊まったことはなかった。ところが今回は、すでに義母も亡くなり、義姉も体を悪くして高知市に住む娘のところへ住まうようになり、雲の上ホテルに泊まれるとなった。ネットで予約を取ろうとしたら、「現在は予約を受け付けていません」とある。代わりに「雲の上ホテル別館マルシェ・ユスハラ」と案内されたので、そちらに泊まった。どこにあるのだろう。

 町の中心部から2キロほど離れた所にあったガラス張りの瀟洒な雲の上ホテルの本館は、改築中とかですでにとり壊れて無くなっていた。別館は「まちの駅・ゆすはら」の二階がそうであった。なんだここなら、義母が亡くなった2010年には訪れている。危篤の報に訪ねた病院が直ぐ近くにある。二階に宿泊施設があるとは思わなかった。ここを中心に半径200メートルほどの間に役場、図書館、老人ホーム、ゆすはら座、民俗資料館などが点在し、僅かの区間だが道路は電柱も取り払われて歩道も整備され、盆地の「中心部」がくっきりと浮かび上がるように設計されている。

 人口は3500人ほどというから、1970年頃から半減している。小中学校も統合が進み、昔は山を越えたり、坂道を自転車で通った小中学校が廃校となっている。県立高校は寮が置かれ、通学バスもある。そう言えば2010年頃だったか、野球部が地区外生を募集して甲子園へ行こうと気勢を上げていたっけ。地元に引き留める施策もいろいろとおこなっているのだ。でも若い人たちが進学などで外へ出て行き、それっきりというケースが多いのだろう。カミサンの従兄弟の何人かも関東に来ていて、元気な間は「従兄弟会」とときどきやっていた。あるいは、甥や姪が大学などに行き、そちらで所帯を持っていたりもする。でも、退職後に檮原に戻ってきて、いまは高齢となって介護ホームなどに入った親のいない実家をときどき訪ねて風を通すことをしている甥もいる。こうした移ろいを風の便りに聞いてはいたが、義母の13回忌ということでカミサンの兄弟姉妹が集まるのによばれて足を運び、コロナ自粛のご無沙汰を取り払うべく、皆さんにお目にかかりにいったわけでした。

2022年9月7日水曜日

何が心を揺さぶっているのか?

 後で考えてみると不思議な体験であった。ある田舎の図書館に入った。建物の作りが斬新な感じに惹かれて踏み込む。入口で靴を脱ぐというのも、好ましく感じた。建物と蔵書を大切にしていると思ったのだが、全体が木造の建物と床に座っても構わない触れ方を演出していると思い当たって、さらに感心したのであった。

 不思議な体験というのは、その後のこと。吹き抜けの傍らを広い緩やかな階段が折れ曲がって二階へ通じ、ベンチに座って本を読んでいる人がいる。左手は吹き抜けが天井まで続き開放感に溢れる。床上の、その右脇からはじまる蔵書の書架をみたとき、おおっと何かを感じた。面白そうと思ったのだが、なぜそう思ったのか精密にはわからない。

 20世紀の日本の戦争にまつわるいろんな本が並んでいる。その並びがなぜか、おおきな物語を語りかけてくるように受け止めたのだろうか。先の戦争のことは、もう飽き飽きするほど読んできたり、自分なりに筋道立てて腑に落としているつもりであったから、ざわざわするほど刺激を受けるとは思っていない。それに続く棚には、小出版社の50冊を超える人物伝記シリーズ本が並び、その先にはジャレッド・ダイヤモンドの何冊かと文化人類学と思われるタイトルの本が並び、法政大学出版の哲学の背表紙が何冊か置かれていて、歩みが止まる。何かがわが胸中にスパークしたのであろう。ここにいたら、何時間でも、何日でも過ごすことができるという思いが湧き起こる。

 書架の間を抜ける通路から隣の部屋に入ると、四方に本がビッシリ置かれた書架とさらに隣部屋に通じる通路があり、その四隅に「ゐ」「も」などの仮名を大書したカードが添えられている。それらの書架の本もまた、系統発生などの背表紙とともに、進化生物学の関連本に混じって動植物の本と哲学の関連本が並ぶ。その向かいの棚には山野草と腐葉土に関する本が上から下の方まで置かれ、この仮名の札は何を意味するのだろうと疑問符を残したまま次の部屋へ移り、「そろそろ行かなくちゃあ」と時間が来ていることをカミサンから告げられる。30分以上も経っている。まだ図書館の一階を含めて1/3もみていない。書架だって半分はみないままだ。

 私の街の図書館よりずうっと書架が魅力的であった。何かを語りかけているような感触が、たくさんの本の背表紙を眺めているだけで湧き上がってきた。所謂図書分類にしたがった配列というのではなく、本を選んだ人の胸中に漂う物語りが滲み出してくるような感触が漂っていた。私の関心に沿っていたからだろうか。いや、原始時代から現代につながる歴史の本も、へえ知らなかったなあと思うようなことを背表紙が語るようであった。

 誰が本を選んだのだろう。こんなにこの田舎町に図書の予算があるとは思えない。はじめに思ったのは、この図書館が隈研吾の建築設計によるということ。彼が口を利いて、出版社が寄付を申し出てくれたのではないか。1冊3000円の本が百冊でも、30万円の出費だ。大手出版社からすればお付き合い程度の金額だから、苦も無く応じることができると思った。

 この「雲の上野図書館」は、泊まった宿の窓からみえる。通りを隔て民家の向こうに背景にした山に溶け込むように静かにたたずむ。図書館の横に似たようなおおきな建物が並ぶ。あれは何? と訊ねると老人ホームだという。これも隈研吾の建築だそうだ。この近くに住んで毎日この図書館に通って過ごしてもいいかもと思ったことを思い出し、老人ホームは一杯かと訊く。一階はケア付き介護老人ホーム、2階はそうじゃないが冬場は申込者が多くて一杯になる、と。広い梼原町の中心部を離れると、標高7、800㍍の冬は厳しく、病院が近いここへ移り住むのが安心というわけだ。そうか、ならば夏場だけでも、この老人ホームに入って毎日隣の図書館に通おうかと思ったくらいだ。隈研吾の建築で知れ渡るようになったこの檮原町だが、彼の手が入ることになったからなのか、町政がそれを引き入れたのか、最初の建築が行われた町役場の1994年以来、ゆるりと様子が変わっていき、21紀も10年代に入る頃から、街の中心部がぐうっと整備されてきたように感じる。それはまた、別の機会に記す。(つづく)

2022年9月3日土曜日

濃厚接触者の現在地

 1年前(2021-09-02)の記事、「デジタルとアナログの陥穽」を読んだ後に、これを記している。じつは、コロナウィルスの濃厚接触者になった。そう分かったのは、月曜日。金曜日、土曜日と遠方から孫が遊びに来ていた。高校生と中学生、それに別の街からの孫従兄弟の大学生。2泊して帰った。面白いことに、小さい頃にはあれほどはしゃいでいた彼らも、軽~くおしゃべりした後は、スマホを観たり、TVを観たり、やり残した宿題をやったりとさして喋りもせず、時間を過ごす。これが、従兄弟なんだとこちらは感心する。

 帰った翌日、中学生の孫が熱を出した。PCR検査をしたら陽性であったと息子から知らせがあった。おいおい、どうしたもんだろうと、ネットを調べる。さいたま市は無料PCR検査しますと、何カ所もの病院、何カ所もの薬局などの検査受付所がある。

 早速、一番近くの病院へ電話をした。「うちは妊婦さんにしかやっていません」と、その産婦人科医院は返答して、その百㍍先のクリニックを紹介してくれる。そこへ電話をする。「熱はありますか? 喉が痛いなどはどうですか?」と聞くから、いや、それは全くないのだがと応えると、「症状が出たら電話を下さい」ととりつく島もない。

「WEB対応」とあるチェーン薬局へアクセスする。何カ所か拾うが、「いまは受け付けていません」と表示が出るだけ。にべもない。電話受付しかしていないチェーン薬局へ電話をする。「申し訳ありません。検査キットが足りなくて、受け付けることができません」と丁寧な断り。WEBもこういう風に説明的に断ればいいのに、と思う。

 そうだ、県のPCR検査センターというのがあったなと思い出し、浦和駅前PCR検査センターに電話をする。何度かお話し中であったが、何とかかかった。こちらは丁寧に、いつお孫さんは来ていつ帰ったか、いつ発熱したかと聞き、「濃厚接触者ですね」と私たちの現在地を告げた。

 症状はあるか。無い。

「では、発熱や喉の痛みなどがあればご近所のクリニックに電話をしてから行ってください。金曜日までそういう症状がなければ、普通に外出して結構です」

 と先の見通しを含めて応対してくれた。私たちの年齢も聞かない。持病などもまだ訊ねる段階でないって感じであった。

 なんだ、これだけなんだ。自宅隔離だとか生活用品のアシストとかメディアでは聞いていたが、それは、もっと先の事態になってからのようだ。でもこの先の事態ってのは、症状が出たり、重症化してからのことじゃないか。そうか、こうやって見放されているのか。ま、自助ってのはそんなものかもしれない。そういうことが、よくわかったデキゴトであった。

 もちろんマスクをしてであるが、買い物に行った。図書館へ本を返しにも行った。そして金曜日、なんともないことを確認して、今日から法事にゆく遠方への切符を(往復9㌔ほどを歩いて)買いに行った。その発行した切符の日付が間違っていることに気づいて、再び雨の中、浦和駅のみどりの窓口まで往復する羽目にもなった。その後、ご近所の「男のストレッチ」をやってきたから、すこぶる元気と言えようか。息子家族も、娘以外発熱などの症状は出ていないという。

 それにしても、検査キットがないから受付ができないとは、どういうことか。TVで発表している感染者数というのは、ごくごく少数の検査を受けた人だけで、私たちが(検査を受ける機会もなく)こうであったということは、たぶん、同じような人がわんさといるに違いない。そういう人が、ふつうにスーパーや図書館に出入りしているとも考えられる。これじゃあ、wuth-コロナなんてしゃれる必要もないほど、コロナウィルスはふだんの暮らしに溶け込んでいる。4回接種したワクチンも、それなりに効いたのかもしれない。三密とマスク。地方にウィルスをばら撒くのは御法度だが、緩い日本社会をこれほど好ましく思ったことはない。ではこれから、行ってきます。

 そういうわけで、7日までお休み。また、お会いしましょう。

2022年9月2日金曜日

ハイブリッド・リテラシー

 ロシアのウクライナ侵攻はハイブリッド戦であったとネット情報が流れている。武力による侵攻の前に、ウクライナの市民生活に潜り込んで工作を行うスパイ活動。サイバー攻撃によってインフラを混乱させ、フェイクニュースを流す。まるで本で読み、映画で見るようなフィクションと同じようにみえる。それは市民生活の分断が敵方の弱点となり、侵略を扶ける。「人は城人は石垣人は堀」を事前に崩す、内側からの攻撃である。当の市民からすると、この社会に流れる流言やネット情報そのものがフェイクかもしれないといわれると、どこで真偽を見分けるか。何を根拠に見破るか、と胸に手を当てて考えてみる。とどのつまり、日常に於ける政府の統治方法が何処まで市民の信頼を得ているかよると思ってきた。

 そこに踏み込んだ、まさにその渦中にある記事が、昨日(9/1)の朝日新聞に掲載された。「サイバー情報戦 闘う台湾」と題されたインタビュー。取材を受けているのは、唐鳳(オードリー・タン)「台湾の初代デジタル発展部長(閣僚)」、35歳で台湾の閣僚になった(学歴・中卒の)天才。

 いまも世界最大(数)のサイバー攻撃を受けていて、それに対処してきている。ウクライナ戦争を受けてヨーロッパで「ハイブリッド戦」を話し合った、その攻撃の内容と防御の手法の梗概。逆にネットによって防御を強化してゆくウクライナやそれと連携する周辺国の気配も行間に伝わってくる。それは即ち東アジアに於ける台湾と日本の連携も視野に入れている話しである。

 フェイクニュースの拡散力が強い内容を抽出し対応策を講ずるというところで、コロナウィルスの変異株と対応策へとリンクし、行政に頼るというよりも官民の協業を必要とする、自助・共助・公助の力を付ける社会形成へとオードリー・タンの視界は広がっていく。そうだ、こういう視線こそが、わが政府、わが行政、我が町のコミュニティだと、いまの行政やコミュニティの有り様と対照させるようにしてイメージが前向きになる。

 インタビューの中でオードリー・タンは《人々のメディアリテラシーを記者のレベルに上げるのです》と取材記者に応えている。そうだね。そのようにして学校教育を超えて世の中の「混沌」からわが身を護るに値するコトゴトを見分ける。それを(コミュニティで)共有する。どこかで読んだが、わかりやすい日本語を普及する専門家の尽力に対して聾唖者から異見が出された。口述・記述の日本語と手話の文法・語法が違うために「翻訳」できなかったり、誤解が生まれて、世の中で馬鹿にされることもあった、と。市井の民の視点から情報を読み解いて「底堅い関係への確信」を持つようにしたいと志している私に、一つ警鐘を鳴らす視線が含まれている。市井の民の読み解く力は、自らの立ち位置を固執するのでは敵わない。自らを対象としてその根柢を吟味する組み込んでいなければならない。そういう所に目が届くんではないかと、オードリー・タンのデジタル視線の背景に横たわる社会や人間に対する感触に期待までする。これは私にとっては、無い物ねだりであるし、この先のも目にすることはないかもしれないことに思える。

 だが、期待はある。というか、そういう期待を持って若い世代にバトンを渡すっていうのが、麗しいではないか。子どもより若く、孫よりは上という30歳世代の若い人たちに期待できるってのが、頼もしいではないか。いま日本に、そういう政治家っているのかい?

2022年9月1日木曜日

移ろう言葉、人、世の中

 5時台の外気温表示は27℃とあるが、風が吹いて大きく揺れるカーテンが爽やか。ああ9月になったと涼しさの到来を躰が喜んでいる。1年の2/3が終わった。

 山を歩けなくなってから1年と4ヶ月、どこかへ行きたくて身が疼くこともなくなった。ひねもすのたりとパソコンの前に座ってつれづれなるままによしなしごとを綴っても、あやしうこそものぐるおしくなることもない。退屈して飽きることもない。市井の老爺のボーッと過ごす一日に(口にはしないが敢えて言えば、静かな平穏を言祝ぐ以外)、何の感懐も湧かない。

 左手の平のリハビリには週2回の割りで通っている。アラサーのリハビリ男子は、左手の平の痼りをもみほぐす。前回と変わらないことに疑問を感じるのか、家ではどうしているかと訊ねる口調に、軽く問い詰める響きが加わるように思う。ほぐすというより軽く摩る程度、ほぐすように摑むと指先がびりびりと痺れると言い訳をするように説明をする。でもじつは、余り手の平の痼りには触っていない。指先の痺れと折曲げができないことにセルフ・リハビリは傾いている。それもまた、曲がらない。第1関節が痛む。リハビリ士は曲がる度合いを、小さい曲げ尺を当てて測り、折曲げ運動を繰り返してから、最終的にまた測る。少し曲がる角度が大きくなる。私はさすがリハビリと感心するが、リハビリ士は思うほどでないと感じているのか、評価を口にはしない。

 それでも、自転車に乗るとき、ハンドルをつかめなかった左手が、手袋を塡めてではあるが、軽くつかむことができる。指を曲げてハンドルを引くようにすることもできるようになった。左側のブレーキも使える。これは、後輪のブレーキが利くようになるから、運転の安定には大きな効果がある。ちょっと変わり様のタイムスパンを広くとると、リハビリが効いていると思う。

 カミサンは「年末には蕎麦打ちができるか」と心配する。大丈夫、それくらいは恢復するよと、いまの感触で返事をする。

 9月の初めに季節の変わり目を感じるのは、近年珍しい。と思って気が付いた。そうだ、二百十日だ、今日は。そう言えば、台風も来ている。珍しいのが、平年並みか。たしかに異常気象がいつもの年という感覚になっていた。わが身もそれに馴染んで、古くからの由緒ある季節の変わり目を忘れている。

 言葉だって、そうだ。そもそも二百十日自体が、農事暦の由来があったなあと辞書を引く。別名風祭とあって思い出した。まざまつり、風の神を鎮め祀る。何で読んだか忘れたが、秋の収穫前の大風を鎮め豊作を祈る。そういう由緒由来が時とともに忘れられ、台風が来る頃とだけわが観念に残っていた。そしてそれも、異常気象とともに忘れて、今年の平年並みで思い出すという始末。何とも由緒由来には申し訳ないが、言葉も人も、世の移ろいも、ひとところにとどまりたるためしなし、ってことだよね。

 そういう移ろう存在って考えると、わが身や手の平の不如意など、如何程のことであろう。年末に蕎麦が打てなくても、思い煩うことはない。すっかり彼岸に渡っているように観念している。ヘンなの。