本を始末しようと手を付けた。たまたま目にしたのが、本を引き受け、売り上げからNPOに寄付をするという「埼玉県の古本募金」。これなら捨てるよりは気が休まる。電話をする。「ISBNが付いているもの、古書として読むに値する汚れていないもの、百科事典や辞書類はご遠慮下さい」という。梱包→申込→集荷と手順が決まっていて、WEBで申し込みができる。もう5年も前にまとめていて積み上げていたものを解いて、分別して段ボールに詰める。5箱になった。ISBNが付いていないものも結構あった。1960年代に出たものだけでなく、私家版のように出版されたものやなぜか判らないがついていないものがある。私が読むときに線を引いたものなども、当然外した。
WEB申込書に記載すると、折返し「集荷のお知らせ」というのが届いた。こちらの申し込み通りの記載があり、もし万一集荷が行われなかったっ場合の連絡先も記載されている。なるほど、こういう遣り取りが組み込まれていると、本の始末が間違いなく行われていると判る(ように思える)。そうなんだ。私たちはこういう(ように思える)ことに信頼を繋いでいるのだ。世の中のデキゴトの一つひとつが、そうした(ように思える)ことの連鎖であったり、積み重ねであったり、それによって醸成されてきた胸中の(慥かさの実感)が漠然と社会とか他人に対する信頼や信用の度合いを推しはかることをしている。世に出来する(ように思える)ことを吟味し、これってホントカネ? と瞬時に見分けるベースになっている。
オレオレ詐欺に引っかかる人たちを嗤えないのは、その人たちが寔に情に厚い人であったり、疑うことを知らない感性や感覚を未だに保っている人たちだと(私が)思うからだ。それこそ、島国根性といわれようと「水と安全は只と思っている」と誹られようと、この列島住民の好ましい特性だと、わが身の裡のどこかが共振しているのである。素直でナイーブでお人好しというのは、そういうふうに生きていて不都合がない社会の気風に包まれていることを示している。その気風を好ましく思うから、オレオレ詐欺に引っかかる人たちを嗤えないばかりか、その人たちがつけ込まれる時代になったのだと、むしろ時代と社会の変容を嘆きたくなっている。
もっと容易にそういう時代・社会を理解するには、日々報道されている政治家たちの言動をみるだけで十分である。むしろ彼らは、オレオレ詐欺を仕掛ける方のような振る舞いをしている。むろんそういう政治家を選んだ住民・国民の責任ということも言えるが、為政者というのが(ただの庶民ではなく)社会をつくっていくことを役目とする立場にあるからだ。先ず隗より始めよというのは、そういう社会的な気風をつくるには、一つひとつの関係をそのようなものとして繰り返し紡ぎ続けることしかない。人になにがしかの振る舞いを求めるとき、その振る舞いの文脈から自らを枠外に置いて施策を講じるというのを、操作的と呼ぶ。つまり人を人としてみていない気風が文脈の行間にみえるとき、(ように思える)ベースとは別の気分が醸し出されてくる。それ故に、選挙によって選出される政治家というのは「選良」と呼ばれ、いわば社会のエリートという名誉を受けているのである。その、もっとも(ように思える)振る舞いを期待される政治家がこの為体(ていたらく)である。もうすっかり、社会の(気風を云々する)底が割れている。
宅配業者が指定の時刻に荷物を受け取りに来た。「着払 お客様控」と表題のある受け取り票を手渡して、5箱を手押し車に積み込んで運んでいった。さあ、このあと「古本募金」の取扱業者が「受け取りメール」を送ってくるかどうか。送った古本の査定額とそのうちの募金額をどのように知らせてくるか。私の(ように思える)社会に対する「信頼」の土台が、また慥かめられることになるか。
そうそう昨日、まだ生きてたんかいなと思ったゴダールのことを今朝(2022/9/15)の朝日新聞で蓮実重彦が書いている。それを読むと、ゴダールのことをそのように感じているのは(1960年代に触れた)市井の民の私であって、知る人ぞ知るところでは2004年まで映画制作にいそしんでいたことが記されている。しかも蓮見はこう加えている。
《「勝手にしやがれ」を見ながら「新しさ」ばかりが推奨され、それが持っていた古さに対する深い敬愛の念を誰も見ようとしていなかった。何ということだ!》
そうか、1960年代の社会の気風は「新しさ」を求める=古いことを壊す=ことに夢中で、古いことに対する敬愛の念が(じつは)その気風の底には流れていることに頓着していなかった。私が(いくぶんか)そうであり、といって古いものをきっぱりと捨てることができない見切りのワルイ自分が、無意識に古いものを断捨離できないで宙ぶらりんで来たのであったとわが身をふり返る。
古本を始末することがこんなふうに古いものに対する敬愛の念を受け継いでいくことになるんだと、あらためて思った。わが身の始末も、同じような視界を開くのかもしれない。
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