2022年9月12日月曜日

寝間着のまま人前に出る

 部屋の整理を迫られている。老朽化した給水管給湯管と配水管の取り替え工事のために、9月末頃までに空間をつくらなければならない。迫られると言うより、迫られないと取りかかれないワタシの性分が、こうした事態を引き寄せている。それは重々わかっているのだが、束ねた本にISBNがついているかどうかをチェックして段ボールに詰め替えるのに、一冊ずつ手に取ってつい目を通してしまう。

 おっ、こんな本を読んでいたかと、つい中味に目を通す。29年前に出版されている。橋爪大三郎『橋爪大三郎コレクション①身体論』(勁草書房、1993年)。「まえがき」を読んで思いだした。これは橋爪が20代から30代にかけて書いた論文の草稿を集めたもの。見田宗介の膝下で学び、心身の社会学者から〈言語〉派社会学者として登場する過程の着実な思索の歩みが記されている。言うまでもないが、哲学の最先端を垣間見せている。

 それが私の市井からの視線を惹きつけるのは、考えているワタシを外さないこと。しかも、ワタシの数だけ世界があり、ワタシが亡くなるとワタシのセカイは消滅すると見ているリアル認識の慥かさである。つまり、私が死んでも残る世界とワタシのセカイとは別であり、前者だけが普遍的リアルとする唯物論と後者が世界に現象する事象とみる現象論とを、異なる次元からのコトのとらえ、「ダブルリアリティ」として統合する現実認識の手法を開示してみせている。この哲学的な視点を構築しようとする試みは、言うならばワタシに代わって知意識人が成し遂げている偉業だと、岡目八目ながら心裡で拍手を送ってきた。

 パラパラと読み返していて、一つの表現が目に止まった。

《お読みいただければ判るが、文体も用語も考察の密度も、草稿ごとにばらばらである。執筆時期が前後十年にまたがっているためもあり、あちこちに論理的な不都合がみつかるかもしれない。いまの時点でそれに手を加えることは不可能であるし……そのままにした。》

 と断った上でそれを、

《こういう‘寝間着のままで人前に出る’ような企画を、きまり悪く思っている》

 と記す。いいねえ。実際の本文を読むと、これが「寝間着のまま」だとしたら、私の書き記しているこの「よしなしごと」などは、もう「パンツ一丁で人前に出ている」ような振る舞いである。ま、知意識人と市井の庶民との知的階梯の差異が現れていることに過ぎないのだが、私自身の身に堆積した人類史的文化の堆積というのと同じことを、次のような警句にまとめて、彼の思索の基点に置いている。

《身体とは、(事象の連鎖の)無際限な求心性の過程をともなう、事象の複合である》

 それが、うれしいのだ。こういう「発見」をするごとに、私は、ワタシの内側に堆積しつつある人類史文化というか、未だ言葉にならないイメージや感懐や湧いては消えるあぶくの断片がパンツ一丁で人前に出ていることを、「きまりわるい」どころか「恥ずかしげも無く」振る舞っている。これも、市井の老爺の、破れかぶれの生き様なのよと居直ってお披露目に及んでいる。お目汚しの点は、御容赦、ご笑覧の程、よろしくお願い致します、だ。

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