混沌の海を夢で見た。眼下に広がっているのではない。天空にも横にも足下にも、見渡す所全部が混沌の海だとわかっている。つい先ほど会った人や聞いた話のイメージが、忽ち遠ざかり姿がぼやけていく。なにもかもが遠景へと溶け込んでいく。その感覚は、電波望遠鏡が解析した45億年前のビッグバンの光が今どき届いているって感じ。時間軸が空間に変わって間近に見えているのかな。むろん平坦な宇宙を見ているのとは違う。凸凹がう~んと近づいたり遠ざかったりしていて、ああこれはワタシの経験を表しているのだと、これもなぜかわかっている。それも、ある種の懐かしさを伴っていたり匂いが漂っていたりする。つまりワタシの心が思い起こしていることが全体として絵になって動いているのだと感じている。
目が覚めて、なんだあれは? と思い起こす。ひょっとするとワタシが経験するリアルの断片が、全体として身の裡に総合されていって、セカイをかたちづくるイメージとなって表出しているのかなと思う。もしこれを「乳海攪拌」というヒンドゥの物語りに当て嵌めると、経験はひと度ボンヤリとしたイメージとして心裡に落とし込まれて全体に溶け合い、混沌の海となる。それを再び想起域に戻すときには攪拌された乳海から(その時の意味合いの籠もった)綱で曳きずり出して来なくてはならない。つまり、混沌の海へ日々経験を落とし込み、また日々そこから(主体のその時の必要に応じた意味合いの籠もった)ある筋道(という断片)に沿った言葉を取り出すということが繰り返されている。
一つ思い出した。福岡伸一という生物学者が子どものとき、芋虫が蝶になる前の蛹になった中を覗いてみたいと解剖してみたら、中はドロドロの液体だったと話していた。そうなんだ、それと同じで、経験というのは体験のままで保存されているのではなく、一旦ワタシの胸中でそれまでの全経験と溶け合ってドロドロの混沌の海となり、蛹が孵るときのモチーフはワカラナイが殻を破っておおよそ違う蝶になって立ち現れる。それと同じことが、ヒトの体験と経験とその再生のメカニズムに於いて繰り返されているんだ。そう思った。
普遍とか特殊というのが、そのセカイに於いてどういう意味合いを持つのかも、繙いてみることがあるかもしれないが、それ以前に、この混沌の海と、個人的体験と人類史的経験の積み重ねによる堆積とがどういう関係にあるのかも分からないが、深い所で絡み合ってワタシに出現していることだけは実感できる。それが今のワタシを支えていることも確かに感じ、そう感じている私を素直にありがたいと思っている。何に感謝しているのだかワカラナイ。八百万の神かもしれない。大自然という、わが身を包み来たったありとあらゆるコトゴトと、幸運に恵まれたという偶然の計らいに包摂されて今ここにいる。そのことをありがたいことだと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿