今日は安倍元首相の「国葬」が予定されています。メディアにもよりますがその論調には、岸田現首相の采配間違いで行われることになった気配が濃厚です。エリザベス女王の「国葬」との対比もあるでしょうから、アベさんには気の毒であったという気分もないわけではありませんが、前者に感じられる求心性と違って後者が未だ生々しく湛えるセクト性が日々の報道の中にくっきりと浮かんでいます。
セクト性というのは、党派性のことです。アベさんや共に政権を支えたスガさんの自派閥性の強さは、人事権という裏技を存分に駆使したことばかりでなく、表向きの説明をしないとか着飾ったまんま啖呵を切って、それに合わせて諸記録を書き直させるという荒技に及んで、天として恥じない傲岸さが際立ちました。
それが、両政権通じて9年もありましたから、後を襲ったキシダ政権の「謙虚、試行錯誤」ぶりに好感さえ持ったというのが、1年前のことでした。でもそれも、自民党という政権党の内部的力の均衡がもたらしたものだとさめざめとみることになったのが、7月の選挙以降のことでしたね。アベさんの死が、たとえば東京オリンピックの贈収賄事件の摘発にも及んでいるんだなあと岡目八目は感嘆しています。
しかし、アベさん暗殺の素因の発端となった旧統一教会のあしらいについても、自民党は「今後関係を断ち切る」といっただけで、具体的には何の手をうつ気配もありません。それどころか、旧統一教会とアベさんの関係が詳しく報道されればされるほど、ただ単なる選挙応援というだけでなく、統一教会の日本での発足から、骨がらみの関係であったことが鮮明になっています。しかもそれが、先述の「裏技」「荒技」同様、アベさん側としては表面化しないように心配りをしていたことも、合わせて伝えられています。今回の銃撃犯が何処までそれを承知していたのかわかりませんが、アベ銃撃は旧統一教会を銃撃するのと同様の「的を射たこと」だったと思われてきます。「戦後政治の闇」を一つ引っぺがしたのです。
しかし世の中は、アベ暗殺と旧統一教会とを切り離して、安倍元首相の功績をたたえて「国葬」を静かに見守ることへ向かっています。聞く所によると今日の「報道」は「国葬」の武道館内部だけにしてその外は報道しないと「局上部からのお達し」が為されているそうです。何だかロシアのプーチン政権とメディアの関係を思い起こさせます。
あるいはまた、「いつまで旧統一教会のことばかりを報道してるんだ。もっと他の緊急重要なことがあるじゃないか」と、報道機関への批判が行われたり、「ま、しばらくは仕方がないですね。そのうち皆さんの関心が遠くなりますよ」と呟く声も聞こえてきます。
つまり今回のアベ銃撃を不運なデキゴトとして葬り去りたい「国葬気分」なんでしょうか。山際というセトギワの大臣も、側杖を食ったような心持ちのようです。つまり、今回事件を日本の現代政治のおおきなデキゴトとして「反省」しようって気持ちは、何処にもないと思われます。
いや政治家は、それでいいかもしれません。けど私ら庶民は、どうなのよと自問が投げかけられます。
税金を使っているとか、国葬手続きが立法府の審議を経ていないとか批判するのは、国政の内側から見た統治者の遣り取りです。むしろ、G7の首脳は一人も来ないと何処かのメディアが指摘したときに、いやそれは、日本がすでに(もう何十年か前から)先進国から脱落していることを知らないからだとクールに解説する言葉の方が、切実に響きます。
何より目下、円安が進行し、1ドル100円ほどという感覚が5割増しで暗算する時代になってきています。これまでのように中国や東南アジア生産の方が安くできるというのではなく、日本産の方が明らかに安くしかも安全で品質保証という時代に変わってきたのですね。今の日本の暮らしは、30年以上も前のバブル時代の遺産を食い潰してきている、いわば「幻想の先進国」なのだと突きつけられています。
キシダさんが国連総会で演説をしたといっても、「言わせてあげるわ」というほどのものであったと伝わってきます。これは、宰相の器が大きいとか小さいとかいうモンダイではなく、日本の国際的立場が、その程度のものだったんですよと、白日の下にさらされているってことですね。
さてそれを私は、どう受け止めているか。自答しなくてはなりません。
実はすでに日本の没落ははじまっていて、元の世界の、2,3位を争う先進国に復活することを狙うよりは、ポルトガルのように(国際社会において)ひっそりと暮らす国になるのが相応しいと、いつか書いたことがあります。
はて、いつだったろうとブログ記事の古いのを検索したら、ありました。2020年4月21日「季節の移ろいの社会的距離感」において、
《いずれ日本も、ポルトガルのように昔日の栄光をすっかり忘れて、しかしのんびりと東の海の果てにあるジパングとして暮らしていけるといいなあ。 私たちの時代が異形であったのだ、と。》
と、いかにも老爺らしい筆致で記しています。コロナウィルス禍がはじまった頃でしたね。思えばそれ以降、日本ばかりでなく各国とも、随意鎖国のような状態が続いていました。だから余計に「ジパング」イメージが際立っていたのでしょうが、騒々しい国際社会から取り残されたようになって、片田舎に身を潜めるようにして静かに日々を過ごす。そういうのを好ましく感じるのは、なぜなんだろうと、次の自答が心裡に生まれ来ます。
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