2022年9月1日木曜日

移ろう言葉、人、世の中

 5時台の外気温表示は27℃とあるが、風が吹いて大きく揺れるカーテンが爽やか。ああ9月になったと涼しさの到来を躰が喜んでいる。1年の2/3が終わった。

 山を歩けなくなってから1年と4ヶ月、どこかへ行きたくて身が疼くこともなくなった。ひねもすのたりとパソコンの前に座ってつれづれなるままによしなしごとを綴っても、あやしうこそものぐるおしくなることもない。退屈して飽きることもない。市井の老爺のボーッと過ごす一日に(口にはしないが敢えて言えば、静かな平穏を言祝ぐ以外)、何の感懐も湧かない。

 左手の平のリハビリには週2回の割りで通っている。アラサーのリハビリ男子は、左手の平の痼りをもみほぐす。前回と変わらないことに疑問を感じるのか、家ではどうしているかと訊ねる口調に、軽く問い詰める響きが加わるように思う。ほぐすというより軽く摩る程度、ほぐすように摑むと指先がびりびりと痺れると言い訳をするように説明をする。でもじつは、余り手の平の痼りには触っていない。指先の痺れと折曲げができないことにセルフ・リハビリは傾いている。それもまた、曲がらない。第1関節が痛む。リハビリ士は曲がる度合いを、小さい曲げ尺を当てて測り、折曲げ運動を繰り返してから、最終的にまた測る。少し曲がる角度が大きくなる。私はさすがリハビリと感心するが、リハビリ士は思うほどでないと感じているのか、評価を口にはしない。

 それでも、自転車に乗るとき、ハンドルをつかめなかった左手が、手袋を塡めてではあるが、軽くつかむことができる。指を曲げてハンドルを引くようにすることもできるようになった。左側のブレーキも使える。これは、後輪のブレーキが利くようになるから、運転の安定には大きな効果がある。ちょっと変わり様のタイムスパンを広くとると、リハビリが効いていると思う。

 カミサンは「年末には蕎麦打ちができるか」と心配する。大丈夫、それくらいは恢復するよと、いまの感触で返事をする。

 9月の初めに季節の変わり目を感じるのは、近年珍しい。と思って気が付いた。そうだ、二百十日だ、今日は。そう言えば、台風も来ている。珍しいのが、平年並みか。たしかに異常気象がいつもの年という感覚になっていた。わが身もそれに馴染んで、古くからの由緒ある季節の変わり目を忘れている。

 言葉だって、そうだ。そもそも二百十日自体が、農事暦の由来があったなあと辞書を引く。別名風祭とあって思い出した。まざまつり、風の神を鎮め祀る。何で読んだか忘れたが、秋の収穫前の大風を鎮め豊作を祈る。そういう由緒由来が時とともに忘れられ、台風が来る頃とだけわが観念に残っていた。そしてそれも、異常気象とともに忘れて、今年の平年並みで思い出すという始末。何とも由緒由来には申し訳ないが、言葉も人も、世の移ろいも、ひとところにとどまりたるためしなし、ってことだよね。

 そういう移ろう存在って考えると、わが身や手の平の不如意など、如何程のことであろう。年末に蕎麦が打てなくても、思い煩うことはない。すっかり彼岸に渡っているように観念している。ヘンなの。

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