檮原町の話を続ける。私が最初に檮原町に行ったのは1966年。この時はまだ檮原村。「日本一広い村」と同道したカミサンが話していたのを思い出す。「四国のチベット」と呼ばれていると聞いていたが、なるほどと納得するに十分なアクセスであった。
当時国鉄の須崎駅から檮原行きのバスに乗り、西へ向かう。山の斜面にとりついて、くねくねと細い道を上りはじめる。途中布施ヶ坂峠の茶屋でバスも一服する。トイレ休憩だ。なにしろ檮原町の中心部まで4時間かかった。「この峠、辞表峠っていうんよ」と耳にした。この先の津野町や檮原町に赴任する役人や教師が、ここで辞表を出して帰ってしまうと揶揄ったものだそうだ。
着いた村の中心部は四方を山に囲まれたさほど広くない盆地。役場があって辛うじて中心部と思われたが、これといって特徴のある集落でもなかった。人口が減り続けて7500人ほどになったと聞いたのは、いつだったろうか。末っ子だからと大学まで行かせて貰ったカミサンが、結局出郷したまま都会に住み着く一人であったから、耳の痛い話しと思って聞いていた。
この「四国のチベット」が一変したのは1970年代。須崎と檮原を繋ぐ道路がトンネルを抜いて直線距離50km余に近くなり、車で1時間余になった。檮原の中心部からさらにバスを乗り換えて1時間かかっていたカミサンの実家までも、トンネルを抜ける新しい道路が作られて、1/3の時間で行けるようになった。列島改造論にはじまる土建国家の効果がこんなところにこんな形で現れたと感じた。子どもが小さい頃はときどきお盆に連れて帰っていたから、お世話になったという思いは強く身に刻まれている。
子どもたちが大きくなってからは足を運ぶことも少なくなり、一世代上の法事などもあって何年かに1回訪ねる毎に、変わりゆく姿を眺めるようになった。
隈研吾の「雲の上のホテル」ができたのは1994年、2006年に「檮原町役場」が完成した頃から町の中心部はココよとランドマークができたように感じた。「雲の上のホテル」には一度泊まりたいと、脇を通り過ぎながらカミサンと話していたが、「実家があるのにそんなことはさせられない」という義兄に気圧されて一度も泊まったことはなかった。ところが今回は、すでに義母も亡くなり、義姉も体を悪くして高知市に住む娘のところへ住まうようになり、雲の上ホテルに泊まれるとなった。ネットで予約を取ろうとしたら、「現在は予約を受け付けていません」とある。代わりに「雲の上ホテル別館マルシェ・ユスハラ」と案内されたので、そちらに泊まった。どこにあるのだろう。
町の中心部から2キロほど離れた所にあったガラス張りの瀟洒な雲の上ホテルの本館は、改築中とかですでにとり壊れて無くなっていた。別館は「まちの駅・ゆすはら」の二階がそうであった。なんだここなら、義母が亡くなった2010年には訪れている。危篤の報に訪ねた病院が直ぐ近くにある。二階に宿泊施設があるとは思わなかった。ここを中心に半径200メートルほどの間に役場、図書館、老人ホーム、ゆすはら座、民俗資料館などが点在し、僅かの区間だが道路は電柱も取り払われて歩道も整備され、盆地の「中心部」がくっきりと浮かび上がるように設計されている。
人口は3500人ほどというから、1970年頃から半減している。小中学校も統合が進み、昔は山を越えたり、坂道を自転車で通った小中学校が廃校となっている。県立高校は寮が置かれ、通学バスもある。そう言えば2010年頃だったか、野球部が地区外生を募集して甲子園へ行こうと気勢を上げていたっけ。地元に引き留める施策もいろいろとおこなっているのだ。でも若い人たちが進学などで外へ出て行き、それっきりというケースが多いのだろう。カミサンの従兄弟の何人かも関東に来ていて、元気な間は「従兄弟会」とときどきやっていた。あるいは、甥や姪が大学などに行き、そちらで所帯を持っていたりもする。でも、退職後に檮原に戻ってきて、いまは高齢となって介護ホームなどに入った親のいない実家をときどき訪ねて風を通すことをしている甥もいる。こうした移ろいを風の便りに聞いてはいたが、義母の13回忌ということでカミサンの兄弟姉妹が集まるのによばれて足を運び、コロナ自粛のご無沙汰を取り払うべく、皆さんにお目にかかりにいったわけでした。
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