1年前(2021-09-19)の記事「小さな声と多面体と社会の系」は、三題噺的に構成された朝日新聞の紙面に触れて《養老(孟)の指摘するシステム世界の息苦しさ、近藤(支局長)の「真実」の微細な、つまりパーソナルなありようとを、伊藤大地記者の「個人の多面体」がつなぐ視線。面白い視線ではある》と評し《いまひとつ重心が高くて、不安定な感を拭えなかった》とみている。
「重心が高い」とは何を言っているのだろうか。噺の展開が知意識的な論理(ロゴス)に傾きすぎていると指摘している(ように思う)が、これはライターが「個人的体験」を差し挟まずに言葉を繰り出していることへの批判と受け取れよう。だが逆に、全国紙のライターは、それが精一杯、その行間を埋める読者の思考が揺蕩う余白が「重心の高さ」を埋め合わせていくんじゃないか、と1年経って思い直している。
つまり、読者の思念が触発され三題噺的に構成されていると受けとる所を、紙面を構成するデスクはイメージして仕事をしているんじゃないか。つまり、紙面はそれ自体としては完結せず、読んだ読者が触発されてなにがしかの感懐を抱いた所から記事は全体像を露わにする。それが「開かれていく」のか「閉じられていく」のか、あるいはその記事の提供する次元に「とどまる」のか「深まりはじめる」のかによって、ジャーナリズムの「質」がモンダイとなるんじゃないのか。
提供する言葉(ロゴス)の「完結」するものは、読者をそこに閉じ込める作用をする。ライターや講演会の講師や討論会のシンポジストは、ともするとひとつの「まとまり」を持った噺をしようとするが、それがもし、読者や聴衆や視聴者を「なるほど」と思わせようとするものであるときは、しばしば「自己完結」に向かうベクトルを持ってしまう。それは読者を「参加」させてはいるが、翼賛するとか、賞賛するものがこれほど居るんだと自己承認の機会にするだけなのではないか。つまり講演者あるいは講演会主催者のためのエンターテインメントであって、講演の内容が参加者の思索を刺激し、自らを省みる契機として作用しはじめることにはならない。
一つの事実を提示するってことが、それ自体としてあるわけではない。しばしばジャーナリストは「事実の報道」をしていると思っているかもしれないが、それは、その報道が為される時機と場面の関係に投げ込まれて、なにがしかの意味を持つから報道される価値を持つ。つまりジャーナリストがその「価値」に中立性を装っていても、(時機と場面の関係がもたらす)文脈に色づけられて「その事実」は「価値」を発揮する。
長い間ジャーナリズムは「価値中立的であること」を基本信条としてきた。だが報道すること自体が、その社会に(文脈によって価値づけられる)問題を投げ込むのである。それが「中立的である」ことはあり得ないとすれば、ジャーナリストは、その場面の文脈に色づけられる「価値」に、つねに自覚的でなければならない、
だが、SNS隆盛の現代では、価値中立的な装いが剥ぎ取られたばかりでない。自分好みの事実ばかりが提供されるように(情報提供サイトの)アルゴリズムが組まれ作用し、ますます価値的熱狂が加速されるようになっている。同好の人々と熱狂するイベントに於ける身の有り様に重きが置かれる。それは、そのイベントにおいて発せられる言葉(ロゴス)の意味よりも、その響き、繰り出されるテンポやトーン、それに浴びせられる賞賛の声など、いわば言葉のボディが、直接人々の身体性に働きかける。言葉(パロール)のボディが評価されるようになると、どういう論理でそれが組み立てられ、時間軸を組み込んだ前後関係の展開の構成や構造にどう位置付いているかは、ほとんど目に入らないかのようになる。何を喋っているかよりも、その気分が評価の対象となる。五感が何を感知し、どう身に受け容れ、それをどう知意識に転化して「認識」としているかも考えなくてはならないが、その後半部分が欠け落ちてきている。。
その状況を感知する政治家たちも(ジャーナリズムもだが)、どんなにモンダイが非道くとも、時が過ぎれば人々はそれを忘れ、それに飽きる。そう思って、木で鼻を括るような応対をして平然としていられる。お好み情報ばかりに浸るSNSのアルゴリズムも、そのように為政者(と市井の民)の佇まいをも変えてきたように見える。世の中が非道くなったように感じるのは、権力中枢にいる為政者の言葉が皆、その場凌ぎになっている。狭い視界に収まる言葉に終始し、人生全体を見通す根柢に触れる視線を持っていない。わが身が時間と空間を組み込んだ世界にどのように位置付くかにほとんど関心を持っていないようにみえることである。
で、どうする? ゆっくり読む。精読する。一つひとつわが身をくぐらせて、感知するわが身の根拠を問い、わからないことはわからないとして棚上げしておく。そういうアナログな身が付けた習慣を甦らせて、デジタル時流に呑み込まれない。時代の取り残された年寄りだからこそ、こんなことを言っていられるのかもしれない。
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