朝方、妙な思いが体を経巡っているのに気づいた。自分がバクテリアになった。夢というにはヘンにイメージが論理を辿ろうとしている感触がある。
私の身体の中には1000兆個の菌類がいると何かで読んだ記憶が、今ごろ目覚めて、遊びはじめている。時計を見ると朝4時前。トイレへ行きお茶を飲んで、ブログ記事の概ね15年分を溜め込んでいるファイルを検索すれば「1000兆個」の所在がわかると気づいて実行してみると、なんとⅠ年前の「食べることと生態系と人間」に行き着いた。藤原辰史『食べるとはどういうことか』(農文協、2019年)を読んだ読後感を記している。
藤原は人間を「捕食者というよりも分解者」としてとらえて「微生物や細菌と同様の働きをしている」とみるところから、諸種の見解を繰り出している。それが1年間という発酵期間を経てワタシの身の裡でぽこりと一つの泡となって夢枕に立ったって事か。
ちょうど一週間後にseminarがあり、お題が「躰に聞け!」だ。昨日は一日、その「資料」作成に費やした。それが寝ている間に、「もしワタシがバクテリアなら」という妄想になって表出してきたってワケ。ならば、それを少しく考えてみよう。バクテリアもウィルスも一緒くたにしているが、ま、生物学者でもなく素人の市井の老爺なので勘弁してもらおう。
コロナウィルスが変異して、手子摺っている。なぜ変異するのかTVでは専門家が「生き延びる戦略」という趣旨のことを言っていたが、とするとヒトも同じ、生き延びる戦略として随分と変異してきたではないか。アルファベットの数に収まらない程の数の変異株ヒトが地上に満ち満ちている。いまロシア株がウクライナ株に攻撃を仕掛けていてヨーロッパ株やアメリカ株がウクライナ株を応援している何て考えると、高みの見物をしているようでオモシロイ。
じゃあお前さんは何だよと問われると、JP株の変異1942.0010**って名がつくかもしれない。言葉も振る舞い方も継承されてきて、生まれ落ちて後は相当勝手に生い育ち、おしゃべりと山歩きを得意技として生き延びてきたって変異種だ。
きっと誰も今のオミクロン株に「お前セカイのことをどう考えてんだよ」と問い詰めたりしないように、ワタシもまた、ロシアのこともウクライナのことにも、知らぬ存ぜぬ感知せぬを貫いて平然としている。もっともわが身の裡の1000兆分の一と比べると80億分の一だから10万分のⅠ以上の「責任」の重さになるかもしれないが、この大自然に責任があるとしたら、それをつくった唯一神くらいのものじゃないの? その彼らが争い合ってるんだもの、知ったこっちゃないよといったってバチは当たらないよね。
でも変異して生き延びて、それが地球という一個の体に(なにがしかの)作用をするとしたら、たとえ蝶の羽ばたき程度であっても(なにがしかの)作用とは何であるかと考えてしまう。それがヒトのクセなんだね。ミサイルをぶっ放して町や暮らしをめちゃくちゃにするよりはマシとも言えなくはないが、争いの大本がそもそも、妄想というヒトのわるいクセのもたらしたものだとすると、プーチン蝶の羽ばたきもそう軽く考えるワケにもいかない。
争いを大きくしないために大事なことは、ヒトのクセであるわが妄想は1000兆分の一という卑小なことに過ぎないと自覚すること。卑小だけれども、この蝶の羽ばたきを止めてしまうと蝶は落下する。生き延びていけない。生きている限り羽ばたき続けなければならない。それが生きるってことだよと卑小なバクテリアは自覚しなくてはならないってことか。
どう羽ばたけっていうのと訊くヒトがいるかもしれない。いつしか身につけた羽ばたきというヒトのクセを自分はどうやっていたのだろうと振り返る。変異株という細かい違いがいつしか生じているように、そのヒトの羽ばたき方(の根拠)はその人にしか対象化できない。
メンドクサイことながら、それも一つひとつ対象として見つめ意識するように取り出してくる。そこまでが(言葉を持ち集団的無意識としてそれを育ててきた)ヒトのクセと覚悟して向き合うしかない。そこまで行かないと自分の羽で羽ばたき生き続けているとは言えないってことかもしれない。
でもねえ、羽ばたく蝶の行く先に「強烈な台風」がやってくる。ここで落ちないようにするにはどうするこうすると言っていても、おおきな風に呑み込まれ、吹き飛ばされてケセラセラってことしか道はないのかもしれないね。でもそれが、ヒト・バクテリアの生きる道って(村田英雄を気取って)肚を決めてみるか。ハハハかな、トホホかな。
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