2022年9月29日木曜日

儀礼的な付き合いの断捨離

 こんなことがあった。ある機会に私が本を上梓し、知り合いに「近況報告」として恵贈した。約半数の皆さんから、電話、ハガキ、eメールなどでいろいろな返事を頂き、旧交を温める方もいれば、おや、こんなに元気にこんなことをしてるんだという近況返信もあった。

 ただ一人だけ、何かの機会に顔を合わしたとき(受領の返事をしなかったことをまずいと思ったのか)「メール出したんだけど」と、妙なことを言った。何だこの人は? とまず思い、「メールは来てないよ」と返事をしてそのままになった。なぜこの人は着飾るんだろう。返事をしないならしないで一向に構わない。だって送りつけること自体、全く私の勝手。

 ヤツはこんな本を出したんだと思ってそのままにする人もいるだろう。もらったことを忘れてしまう人もいるだろう。そもそも直ぐに読めるような本ではない。なにしろ400字詰めで1800枚くらいあった。読み通すだけでも根気が要る。途中で投げ出しても不思議ではない。著作を恵贈されたのに感想を加えて返信したら、「あなたに贈ったのは間違いだったかもしれない」とそれへの返事が来て、以後気まずくなった友人もいた。返信しないのも、それはそれで一つの返事の仕方だと私は受けとっている。でも、「メール送った」って、どうして取り繕うのか。

 その一人が返信しないちょっとした心当たりは、私の方にあった。本を恵贈する半年くらい前、彼が講師を務めた「会」があった。生憎私は別様があって顔出しできなかったのだが、彼から講演について感想を聞かせてくれと、小学生の子ども指導に関する実践内容を添付したメールが送られてきた。えっ、どうして? と私は思った。私は子ども指導に関して何か批評する立場に立ったこともない。ま、彼は褒めてもらいたいんだろうと思ったから、返事をしないで放っておいた。もしこれが気に障ったのなら、彼は私の本の恵贈を無視すればいい。にもかかわらず、態々嘘をつくことはないだろうに。もっとも、そのようにして、まだ心残りはみせておくってことも、ないわけではない。だが私は、そういう儀礼的なお付き合いは、儀礼的な関係だけにとどめて、少しずつでも気づいたときに「断捨離」していこうと思った。

 それもあって、それ以降私が毎月発行している小冊子を、その一人には贈っていない。コロナの襲来もあって付き合いが途切れたのがいい潮になったのかどうかはワカラナイが、以後すっかり関係は切れてしまい、そういう友人がいたことも忘れていた。

 ところが私の小冊子の好読者である古い友人がいる。好読者かどうかは私が勝手に決めたことで、その古い友人からするとメンドクサイ奴やなあ、毎月送って来やがってと煩わしく思っているかもしれない。当方は近況報告のつもりだが、受けとる方からすると、半世紀以上も付き合ってきた年寄りが、毎月「近況」なんて知らせ合うかよと思っているに違いないとは、思う。だが古い友人は、知らぬ顔ができない性質のエクリチュールのお方。ならばコチラもと思っているかどうかワカラナイが、毎月長文の手書きの返事をくれる。それが面白く、了解を得て、毎月小冊子に載せては送っている。白山羊さんと黒山羊さんの手紙のやりとりと私はおもってきたが、古い友人は共に半世紀近く関わってきた(小冊子を受けとっている)共通の友人も、この遣り取りに加わってほしい。ついてはこの小冊子の一部を「間借り」させてもらえないかというようになり、私は喜んで場所を提供しようという運びになった。

 となると冒頭の一人にも送らなければならない。いまさら改めて送るってのもヘンだなあと思う。そこで、もう1年半前にもなる、その一人が言った「eメール」宛に、小冊子をpdfに変換して一度送ってみた。むろん何の返信もなかったが、次の号も同様に送ったところ、そのメール・アドレスには送れませんと、メール管理サイトから「お知らせ」があった。つまりその一人もまた私との遣り取りは断捨離したわけだ。結構。これで私も、一つ始末したとおもっているが、古い友人からすると折角間借りしたのに、どうしてどなたからも応答がないのと、訝しむハガキが今月号の返事として届いた。

 さて、どうしようか。儀礼的なお付き合いになってしまっているなら、それは断捨離しても、一向に構わない。イヤそうなっていなくとも、何かの事情があってコイツとは断捨離しようという人がいても可笑しくない。この事態をどう受け止め、どう対応すればいいか。一つわが身を振り返る課題をもらっている。

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