一昨日の「バグの自意識」を読み直していて、西欧とアジアの自然観・宗教観を対位法的に推し進めるだけでは「浄/不浄」の感覚、あるいは自然・神の「慈愛/苛烈」の現れを受容する感性は語れない、と思った。じゃあ、どう考えればいいのか。
対位法の根柢には、「普遍/特殊」の二分法がある。自然の感受を、「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」として対位法を取るのが西欧風だとすると、自然を「混沌の海」と見て、そこから「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」を曳きだして表現するのがアジア風と考えている(この西欧とアジアの二極も対位法であるが)。
このアジア風が価値相対主義であると批判される。「明暗:善悪:真偽:正邪/聖邪:美醜」が(混沌から真理を曳き出す)人によって異なるとみると、科学的に究明される真理が否定されるとみえるからだ。だが、ニュートン力学は真理だったのか? アインシュタインの相対性原理は真理だったのか? と自問すると、「ある限定を伴った範囲」での仮説ではなかったかと自答が浮かび上がる。その「ある限定を伴った範囲」というのは、その「真理」を認知しているのは誰かと問えば、答えがわかる。
この後のお話しは、門前の小僧である私が、一知半解どころか全く論理的に理解した話ではなく、世情に出回っている専門家の境内からの遣り取りを門前から小耳に挟んだイメージとして聞いて頂きたい。シュレーディンガーの猫というパラドクスの思考実験に対してアインシュタインが(量子論は)まだ過渡的段階にあるのではないかと批判したことからはじまったというボーアとアインシュタインとの論争において、アインシュタインが「人間定数」という仮説を提示し、すでにそれはアインシュタインの間違いであったとされているという話が思い浮んだ。
門前の小僧の私がどういう専門家かもわからぬまま、耳にしたことをわが胸中にイメージしたことだから、本当に市井の老爺が俚諺を受けとるような感覚でしかない。だが、アインシュタインの「人間定数」という着想が(どういう趣旨でこの言葉が使われているかは知らないが)、量子論の電子の動きを(何処に所在するかワカラナイ)と語ることとそれを認知することとの差異を示していると理解した。つまり、シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるかを(誰が見ても検証できるように)認識するということは、ブラックボックスをも見通せる神の目を持つことを前提としている。だが電子の動きを、例えばカメラに収めるとしても、その瞬間の画像にとどめられた位置しか特定できないという限定性を「人間」はもっている。ひょっとするとアインシュタインはそのことを「人間定数」と表現したのではないかと、すでに論破されて捨て去られた「人間定数」という言葉を惜しむ気持ちがこみ上げてきている。
誰が見ても検証できるという「科学的真理」は神の目ならばという前提があり、(誰という)人間が認知するという認識主体を組み込めば「真理」というのは、その先に広がる「闇/無明」を示すものでもあって、つまり遍く真理であるという「普遍」は実体的には存在しないといっていいのではないか。限りなく「真理」に近づくことはあっても、「真理」に触ることはできない。その「真理に近づこう」というモメントが、市井の民から見ると美しいのであって、「真理」そのものを手に入れることができると思う所から、「人間定数」を外れた妄想の世界に陥るのではないか。
普遍を探求する科学者や哲学者は、本質に迫るといって自らの論理的な道筋を正当化するが、その「本質」ってなんだ? 現実に現れるのは「現象」であって本質ではないとでもいうのだろうか。枝葉を余計なバグとして捨象して幹を摑むことを意味しているのであろうが、枝葉を捨象された樹木はもはや樹木とは言えないように、「本質」を探求する科学者や哲学者は、捨象する「余計なもの/バグ」が樹木に於いてどのような不可欠の一部として存在しているかを、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性に照らして始末してしまう。そのとき、ロゴスの展開に於ける筋道の必要性というアルゴリズムが前提にしている限定性に気づかないことがある。生物学者でもある福岡伸一は「視野狭窄」と呼んでいるが、誠実な論理的哲学を身に備えた人でさえ、そうした迷妄の霧の中を歩いていると思うケースもある。
科学や哲学の方法に於いてモノゴトの分節化は重要な扉を開く。それが極限まで分業化されているのが現代の知的世界の状況である。後にそれが総合的に(枝葉も幹も樹木の全体に於いて)樹木として、あるいは樹木を取り囲む環境として、さらには、相互の生態的な循環としてとらえたときにこそ、(その主体が行っている)探求の意味合いが取りこぼされることなく組み込まれてとらえられると言える。科学や哲学は、その両端への往還をつねに繰り返しながら少しずつすすめていくものなのだろうが、分節化の先端が余りに遠くへ専門化され分業化しているが故に、もはや還る道筋を辿ることを考えさえしなくなった。とどのつまり、門前の小僧である市井の民が、専門家の口にする俚諺を耳にしてわが身に引き寄せ、総合的にセカイとして見て取ろうとしているばかりなのだ。
持って回った言い方をしているが、こう譬えるとわかってもらえるかもしれない。世界は、総体としては混沌の海である。そこに於ける現象はことごとくが、諸要素の総合的な関わりの結果であるとみるのは、すでに諸要素に分節化して探求がすすめられている状況を反映している。その中に流れる法則性をつかみ取ろうと分節化をすすめて探求していく知的な営みが、各方面に分節化し毛細血管のように些末に及んだ結果、それらの子細を総合科学論として鳥瞰する分野も出来し、更にその専門領域を市井の民にもわかりやすく解説す啓蒙書が出回るようになり、TVの発達によって「目に見えるように解説する」ことが一般化して私たちにも届くようになった。私たちは自らの経験的な思索がどれほどに科学的な探求と見合っているのを照らし合わせる機会となっている。と同時に、わが身の感性や感覚、思索という言葉が、どう形づくられどう変容し、今どのような問題を抱えているか、わが身を対象としてとらえ直すことに繋がっている。逆に言うと私たち市井の民は、専門家たちの研究や探求を「日常生活批判」として受け止めて、参照点としている。あたかも、世界の頭脳の知的営み(の紹介されたもの)が、ワタシの人生そのものに向けて放たれたメッセージとして受け止めている。
ユングという精神分析医が「集合的無意識」といったろうか、人類の社会集団が長年の過程で積み重ねてきた感性や感覚や様々な価値観まで、身の習いとして躰の奥深くに沈潜させて堆積してきた知恵の数々。わが身もその恩恵に浴して、まさしく量子論にいう電子のように、いつ何処に如何様に存在するかは不確定なこととして、しかし見て取るときは間違いなく位置を占めている現実存在であるデキゴトとして実在していることを、実感している。
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