大型の台風14号が九州に上陸して日本列島を縦断すると一昨々日から警報が出ている。随分ゆっくり進行していて、未だ九州と思っていたのに、昨夜7時過ぎには猛烈な雨に雷。稲光と雷鳴に衛星放送が中断することになった。久しぶりにインターネットも接続をセットし直さなければならなかった。こういう手順が思い出せず、おろおろと手子摺る。まったくもって高齢者のぶつかるネット障害である。
台風の速度を心配しながら長野県へ鳥観に出かけたカミサンから「何とか雨を免れていたんだけれども、やっぱり途中から雨。ツミ、ハチクマ、サシバが50羽ほどです」と夕方メールが入っている。長野はまだ、台風の影響が軽いようだ。台風もリモートってのを覚えたのか? 遠くの関東に異変をもたらしても信州には軽い雨程度って、「経験したことのない」様子の一つなのかな。それとも、強風半径が余りにも大きく、途中部分の雲が吹き飛ばされて、台風の袖の下に、台風の目のような状態が発生しているってことか。
と思っていたら埼玉でも一転、今朝は明るい日差しが差し込む。ネットの「1時間ごとの予報」では晴れマークはない。午後まで曇り空。早速、洗濯をして干す。風もかなりあるから乾きも早いに違いない。気温は少々高いが、まだ30℃にはなっていないのかな。いい秋の入口だ。去年までの暑い夏の延長と違って今年は秋らしい秋が来ている。昨夜の猛烈な雷のことを忘れて感慨に耽る。
昨日は一日かけて今週末seminarの「報告」の「梗概」と「詳細資料」をつくる。今朝「seminar次第」を制作しおえた。そうして印刷しようとしてネットやWIFIと繋がっていないことに気づいたってワケ。全部で印刷物はA4版で32頁。そのうち「詳細資料」28頁は、58文字×51行×28頁だからと計算して、400字詰めで割ったら207枚と出て、驚いた。そんなにはないよな。見出しや改行でわりと読みやすく間合いを取っているからざっと見て400字詰めで160枚くらいかな。1回のseminar資料としては多い方だが、コロナウィルスの所為でこのところ2年半の間、私は1回しか講師を務めていない。前回の今年3月は、一昨年出版した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』を取り上げた近況報告だったから、今月のそれは、それ以降、2020年5月からの2年半に書きとめたもの。なかでも去年4月の山岳遭難から今年4,5月のぶらり遍路の旅までをまとめているから、ま、原稿分量としてはそんなものだね。しかしこうしてまとめて振り返ってみると、エクリチュールのおしゃべりって、随分の量になるんだと(我がことながら)感心する。ま、これくらいおしゃべりして私は胸のツカエを降ろしているのかもしれない。
えっ? 何がツカエているかって?
それが、ワカラナイ。何かもワカラナイし、そもそもツカエているのかどうかもワカラナイ。おしゃべりを書き落としている裡に、益々(外側世界の)ワカラナイことは増えていく。まるでここ80年近く溜め込んだ体感知意識が輪郭を取れば取る程、その輪郭の外のワカラナイことが増えていく。わが身の体感知意識の輪郭を取ることがじつは、その根拠を掘り崩して所謂エントロピーが増大するように、わが身の体感知意識を崩していくとでも言おうか。でもそれが(わが人生80年を振り返ってひとまとめに見るようで)オモシロイと感じられるから、ますますワタシの根拠が崩れようと崩れまいとお構いなく、吟味のおしゃべりが止まらない。この感触は、ワタシがここ80年外界に現象してきた航跡を(何となく不都合なことを無意識に消去して)総覧するような趣がある。これはワタシの傾きではあるが、それがいいことか悪いことか、善し悪しを離れたことなのかは、ワカラナイ。
もしこれが、文章に書くのでなく、口舌(パロール)のおしゃべりだとしたら、わが身が吟味されているという体感は得られないと思う。喋る傍からどんどん忘れていって、何をしゃべったかも直ぐに忘れてしまうからだ。そういう意味で、エクリチュール(書き付ける)という作法は、自己対象化をするに、寔に有効な効果を発揮している。オモシロイ癖を付けたものだと(社会的はほとんどみるべきものではないのに)わが身の来し方を肯定的に見ている自分に気づく。まこれが、ワタシがへこたれないで書き続ける力になってるんでしょうね。
とここまで書いていたら、晴れ間が崩れ、たちまち音を立てて大粒の雨が落ちてきた。風も強いから洗濯物を慌てて取り込む。まだ11時前というのに、もう乾いている。こんなことも経験したことのないデキゴトではあるが、これはただ単に、私が日頃カミサン任せにして知らぬ顔をしてきただけにほかならない。大型台風とは次元の違うことではある。
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