おっ、今日は重陽の節供。9というのが陽数の最も大きい数、極み。暦でいうと、奇数(陽数)が重なるのが、五節供として祝われてきた。それぞれに、1月は正月/七草、3月は桃、5月は菖蒲、7月は笹竹とくるから9月は菊になったのであろうが、これには菊自体の謂れを繙かなければならない。
でも、9月以外は皆、正月、雛祭り、端午の節句、七夕と由緒由来が人の暮らしと結びついている。重陽の節供は不老長寿。それならそれと、端から重陽の節供=菊の節句を敬老の日にすれば良いものを、そうか、長寿が必ずしも目出度いことではなくなったってことか。長幼の序ということもいつしか消えてしまった。消えたからわざわざ「敬老の日」というのを設けて、祝うようになった。つまり、そのココロはピンピンコロリと逝ってねと皮肉な見方をした方が、コトの本質を見極めることができる。しかしそれを重陽の節供に重ねては、如何に何でも「誤解」を招く。半月ほどずらして実施するってワケか。
とまあ、こんな風に口にすると、年寄りの僻み、偏屈、意固地だねえと外野からヤジが飛びそうだが、わが身の有り様(さらに世情の虚ろさを)を重ねて考えると、言い習わしの虚ろさが身に堪える。そういう時代の変遷をすっかり忘れて、ダブル・ナインだと縁起を担ぐ方が今風ってコトか。
さて、昨日までの檮原の話に続ける。宿泊した「まちの駅・ゆすはら」の部屋からのぞき見た東側の景観に、図書館や老人ホームが背景の山に溶け込むようにたたずんでいる。手前の民家や電信柱のない街路もいい具合にトーンを合わせていて、いずれも建築家・隈研吾の制作によるものという(好ましさを伴う)「権威」の響きも手伝って、檮原という町の良さが象徴されているように感じる。
この宿泊している「マルシェ・ユスハラ」も隈研吾の手になるもの。マルシェって市場のことだそうだ。フランス語で言うと新鮮に響く。カタカナ語は目新しさを伴っている。でもハイカラっていうと、大正昭和の手垢に塗れているね。「マルシェ・ユスハラ」の方が「四国のチベット」っていうよりステキって感じ。
その食堂で朝食を摂っていて、脇に置いてある「持出厳禁 マルシェ・ユスハラ」とシールを貼った本が目に止まった。『隈研吾はじまりの物語――ゆすはらが教えてくれたこと』(語り:隈研吾、写真:瀧本幹也、青幻社、2021年)とある、ハードカバーの薄い本。食事を終えてしばらく座って読み通した。1994年に「雲の上ホテル」を手がけるまでの経緯、手がけるときに町長から「ユスハラの木材を使って下さい」という条件を聞いて木造建築の勉強をしたとも。それまで彼は、丹下健三にも付き、アメリカで高層建築などを含む建築に携わり、どちらかというとポストモダンに傾いていたのだが、ホゾをくりぬいて何本かを木組みするとけっして取り外せない組み方を覚え、それを軸にして国立競技場の建築にも生かしてきたことを語り、檮原の中心街を設計したという(オリジナリティを手に入れたという)気概を抱いていることを述べている。
3日目、檮原を去る日の朝食後に、中心街から東の山の方へ2時間半ばかり歩いてみた。静かに雨が落ちている。こども園があり、図書館が開館準備をしていて、脇の老人ホームには送りに来る車が出入りしている。初日に訪ねて驚いた図書館の本の選定について、たまたま出てきた図書館員に(こちらの驚いた感想と合わせて)話を訊いた。
「司書さんが選んでいます。出版社からの寄贈に頼ることはしていません。結構予算を付けてもらいました。あなたのお話しは(司書さんも悦ぶと思うから)伝えておきます」
と、立ち話。
体育館の東側、一段高い所には保育園もある。その上に檮原高校の寄宿舎があり、まだ学校がはじまらないのか、体の大きな高校生らしき何人かが大声で話しながら、何かをしている。ぐるりと回って高校のプールやテニスコート、グラウンドの行き止まりから引き返して、校舎の下側を回り込んで、高台の掛橋和泉邸に上がる。
町の中心部全体がよく見える。茅葺きのどっしりとした田舎家。雨なのに、玄関も縁側も開け放って風を通している。中から顔を出した(私よりは若い)お年寄りが「どうぞ上がってください、いま囲炉裏をいぶしています」と声をかけてきた。ボランティアで囲炉裏を焚き、煙で茅葺きの屋根まで煙を行き渡らせて燻そうとしていた。靴を脱いで上がる。幕末の頃の脱藩の志士たちの写真が飾られ、この屋敷の主・掛橋和泉が彼らを援助していたという。一つ驚いたのは、この屋敷が1935年までの村役場だったとあったこと。そう思ってみると、ここからみえる景観の佇まいが昔日のことを語り出しはじめるような気がした。
「どちらから?」とボランティアの老爺。
「埼玉からです」
「へえ、埼玉? 脱藩の道を訪ねて?」と応じる声に(どうしてそんなところから、という)驚きが混じる。
「いや、カミサンの実家がこちらなんです」
「四万川です」「脱藩の道の登り口には姉が住んでいます」
「かまやをやってるMさん?」
「そう、そうです。実家は神の山ですが」
「えっ、そうするとNさんとはどういう関係?」
と、町会議長をやっていた叔父の名が飛び出す。本家の方の姪ですと名乗ると、
「じゃあTさんの妹さんだね。Tさんの嫁のSさんは私の従姉妹ですよ」
と、急に話しが世間話になる。しばらく知人の話をした後、隈研吾の「檮原との出逢い」の話しをしたら、なんとこの方が、マルシェ・ユスハラの茅葺き細工を行った職人だとわかった。事前に隈研吾から絵を見せられ、こんなふうにしたいができるかと問われ、鉄骨との関係など子細を訊いて、できると応えると(隈研吾は想定していなかったようで)驚いて方法について踏み込んだ話しをするようになったと誇らしそうにいう。埼玉と栃木の県境になるが渡良瀬遊水地の萱をつかったと、カミサンの探鳥フィールドの名が出て、ふむふむと話が弾む。これからの萱の調達もできるだけ檮原でしようと何処其処にある駄馬の(長年放置してきた)草焼きを行政に進言したら、お前が責任以てやるならという条件でやることになったと、これまた地元萱育成に気合いが入ったようであった。
この茅葺き古民家からみえる檮原中心部の景観が、隈研吾という著名人の権威を媒介にして一挙に、山奥の〈限界集落〉に向かっているこの町の気風を、守り続けてきた誇らしき人の暮らしに切り替えてみせているようであった。いや、媒介となっているのは著名人の権威だけではない。その気風に漂う身内の人たちの佇まいが染みこんでいるからなのだろうか。いやいや血縁という繋がりでもなく、人の暮らしが具体性を持って立ち上がり、佇まいの魂が(私の内心で)起ち上がったせいかもしれないと思った。
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