2022年9月22日木曜日

見てくれがし

「比翼交わしてエエ何じゃやら、見てくれがしの面白そふに」と囃されたお染久松のお話しの結末が心中であったことは、いろんな形で歌舞伎にも脚色されてきた。「見てくれがし」というのは、「いかにも見てくれというような、お体裁ぶった、また得意なさま」と日本国語大辞典は釈している。「比翼を交わしてエエ何じゃやら」は、身に覚えのある色物につきものの自己中心性を言い表してを共感を誘う。「見てくれがしの面白そふに」は、色物歌舞伎につきものの、外野の気軽な揶揄い気分を含めて(お染久松のお話に便乗して)鬱憤を晴らしてオモシロがる時代の(庶民の)気風が込められている。近松半二の脚色歌舞伎が遊びの境地を描いていると、誰か小説にしてなかったか。

 そんなことを思い出したのは、安倍元首相の「国葬」騒ぎ。空気を読んだ思い付きの「国葬」決定が裏目に出たとか、出席するしないを態々いう必要があるとかないとか、法的手続きや予算の多寡についてまで遣り取りしているが、これほどに評価が分かれ、日々(旧統一教会関係報道とともに)ますます安倍元首相の航跡が露わになって、銃撃されたことにあたかも蓋然性があったかと思われるようになっている。

「比翼交わしてエエ何じゃやら」と得意満面の安倍元首相が、「見てくれがしの面白そふに」客観視できる。それを浮き彫りにしたのは、銃撃の動機と元首相の殺害と「国葬」を繋ぐ三題噺。

 思い違いによって殺害された悲劇の元宰相と(同情も集まっていると)思って「国葬」を決めたのであろう。だが情報化時代。野次馬週刊誌やマスメディアの報道を通して一皮捲ってみると、銃撃動機の初発因であった旧統一教会が、着々と政治の世界に食い込んで手を広げていた。ひょっとしたら比翼連理で「エエなんじゃやら」だったかと思わせる当の元宰相の関わりも浮き彫りになってくる。これだけで「恥ずかしくて」国葬は止めた方がいいと常識的は思うから、「国葬」反対の声が多くなる。

 ところがこの「国葬」騒ぎに侃々諤々する為政者たちやSNSを含む諸種メディア人達の物の見方の浅さが露呈して、互いの言説の蹴飛ばし合いが見るも無惨。ちょうど鏡のようにイギリスのエリザベス女王の「国葬」が行われたから、その格差が際立つ。

 その手続きとかその死(によって映し出された生前存在)の象徴性とかは別としても、エリザベス女王の「国葬」はイギリス国民を一つにまとめていこうとする求心性を感じさせる。安倍元首相のそれは、全くそれを感じさせない。

「国葬」主催者は、言うまでもなくそれを期待したい所であるが、政権党の方々はそれどころではない。自らに降りかかる元宰相の比翼連理の火の粉を振り払うのに大わらわ。その振り払い方も、すっかり彼の宗教団体にしてやられて、表側だけで済まされなくなっている。そこへもってきて元行革担当大臣であった政権党のM氏が「国葬に反対。出席したら(国葬実施の)問題点を容認することになるから欠席する」と公表した。それを報じる新聞のインタビューに答えて、

《国葬の決定過程に異議を唱えた際、安倍氏について「財政、金融、外交をボロボロにし、官僚機構まで壊して旧統一教会(世界平和統一連合に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」》

 と発言したと報じられている。勿論それに対して、安倍元首相の下で大臣を務めながら、今ごろそんなことを言うのは如何なものかと非難の声が巻き起こっているというが、その変節をかばう声も外野の庶民から見ると自分の執着しているだけじゃないか。「国賊」という表現が適切とは思えないが、M氏の指摘が的を射ているように思うのは、安倍元首相が「比翼を交わしてエエ何じゃやら」とご機嫌であったこと、その裏面で「ボロボロにされた官僚組織」の毀誉褒貶をよく知っているからだ。

 つまり、おおよそ(国の)求心性をつくりあげる姿を目にしたことはなく、敵ー味方という対位法でモノゴトを推し進め、何となく情報化社会で自画像が描けず不安を感じていた人々に依代をつくった。その結果他方で、イヤな人達を排除することを平然と行ったと知っているからだ。つまりそもそも国民の求心性をつくろうとする資質を持っていなかった。排除することによって、あたかも国の方針が一つにまとまったかのような「見てくれがし」を装った方だ。エリザベス女王の国葬と比較することが間違っている。

 情報化社会化したせいで、ただの個人の感想までが飛び交うようになった。ちょっと名の知られたお人は、あたかもそれが社会的な責任であるかのように国策についても発言している。そんなこと、ただの岸田政権のみすぼらしい「見てくれがし」じゃないか。外つ国の人達から見ると、凶弾に倒れた東の端の島国の元宰相とみえるだろうが、あれこれ枝葉を取っ払い、彼岸に渡った同業者を弔うってんだ。村八分でも葬儀ははじかなかったというから、ま、顔出しくらいしておこうと思って誰かを送ってくるのであろう。だが内輪の事情を知っている国民は、まだ一つの片付いていない元首相銃撃の「蓋然性」を覚えているから、「見てくれがし」はもう結構と思っているわけだ。見せかけの比翼連理も、呆れちゃうけどね。

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