2022年9月13日火曜日

次元の違う世界を生きている

 1年前(2021-09-12)の記事「仁慈の心と出撃拠点」を読んで、61年前の大学生活の出発点を思い出していた。長兄の生誕84年、没後7年の日。思い浮かぶあの頃のワタシは生活ということがほとんど身についていなかったのだと、後に思い知ることになる。にも拘わらず(その当時は)、生活技術を身につけることに目が向かず、かといってアカデミズムの知的世界の門内に入ることもなく、文化文明の違いとそれのもたらした人々の様相の違いに眼が行って、移ろう世の中の表層を追うことに関心が傾いていたと、大雑把にいえば言えるようであった。後悔しているわけではない。

 あの辺りで生き方の次元選択が行われていたのかもしれないと、いろんな次元への扉があったと門前に立ち尽くすわが身を思い浮かべて、ふり返る。こういうことができるのも皆、事後的に感知することのできた「世界」に視点が置かれているからである。私自身の感性として「あり得べきワタシ」があったわけでもない。またそれを想定してそこへ向けてわが身を叱咤激励するセンスを持っていたわけでもない。そう、わが躰をふり返るから後悔はしていない。だが「次元の違う世界」の扉を見ていた心地であるから、そちらにもオモシロイ世界はあったろうなあと、ボンヤリと感じているわけだ。こういうのも「反省」っていうのだろうか。

 そういう次元の違う世界を長兄は生きていた。それを身近にいて私は感じていただけであるが、その次元の違う距離が、歳をとってわりと頻繁に(月1回くらいのペースで)食事を共にするようになり、山歩きをガイドするようになって縮まっていたから、違う次元への敬意と触れ合う「関係」とに、ひときわ深みのある感懐がともなって来るのだと感じている。

 その長兄の生誕85年だなあと、昨日朝方思っていた。だが夕刻、かつて野鳥の会の代表を務めていて一緒に探鳥の旅に連れて行ってくれたFさんが亡くなったとわが師匠に連絡が入った。その方の年齢が84歳であったと判って、長兄と同年生まれだったか、それとも一つ若かったかと考えるともなく思っていて、長兄の生誕85年ということを忘れてしまっていた。

 このFさん、車の開発技術者。いつだったかカリフォルニアの探鳥の旅の途次、泊まったドライブインの駐車場に置いてあった複数の大型バイクを彼がしげしげと眺めていて、そのドライバーたちに怪しまれてからまれたことがあった。3人ほどのドライバーが「何やってんだよ、お前」って調子で詰め寄っている。彼はへどもどしている。見掛けた私が近づいて「どうしたの?」と聞くと、「このバイク、私がつくったんだよ」とFさんはいう。それを彼らドライバーに伝えると、彼らの口調が途端に敬意に変わり、エンジンのここがどうあちらがこうと、遣り取りがおしゃべりになった。本当に素朴で実直、かつ人付き合いの良い穏やかな方であった。

 傘寿近くになって認知症を発症したのであろうか、周りに気遣わない奔放な振る舞いが目につくようになった。奥様が(日常の活動にも旅にも)いつも付き添い世話をしていたが、それに構わず同道しているご婦人に言い寄ったりして、やはり同行のご婦人方から大いに顰蹙を買っていた。私は、原初的な男の(歳をとっているからそれなりに節度のある)微笑ましい姿とみていたが、3年ほど前から顔を出すことが少なくなり、カミサン経由で風の便りを聞くばかりになっていた。

 84歳といえば、平均寿命を3つも過ぎている。もちろんヒトは平均で生きているわけではない。だがその程度の年齢になれば、躰の機能的な面もおおよそ経年劣化の限界に近づいていて、不思議ではない。彼の死因が何であるか聞いていないから、そうは口にしないが、老衰といわれても可笑しくないとわが身に置き換えて思っている。

 Fさんもそう、わが長兄もそう、皆さんそれぞれ次元の違うところで生きているのだ。それがたまたま、ワタシの次元と絡み合うところでセカイが交錯し、関係が目に見えるようになっているにすぎない。

 ただ兄弟というのは、生まれ落ちた所からすでにわが身の一角を占めている。意識しているかどうかにカンケイなく、いやそれどころか、私が物心つく頃以前のワタシの無意識のほぼ全部を共有しているのが、親子兄弟などの家族である。ワタシの感性や感覚、それらを身に総括している「こころ」の感知作法も、その無意識に源を持っている。いわばワタシのセカイの源泉である。これはイイもワルイもなく、ワタシそのものであるのだが、同時に、私にとっては「混沌の世界」の基点だ。そこからセカイを引きずり出し、なにがしかの物語に紡いで来たのが、現在の私の実存であり、わが身を置く次元の世界である。

 オモシロイのは、たとえ認知症となっても、きっと、ワタシのセカイは、それとして崩れないで存在していることだ。屹立しているか、崩壊間際であるか、揺れ動いているかは外からは見えない。躰が劣化するとき、その「こころ」の部分が劣化衰退しないのかどうか。ワタシの自然観からすると心身一如であるから、共々に衰微してやがて共に消えていくと思っている。

 しかしそれは、ワタシの内側からみえるセカイの感触。外側から見たら、未だ長兄の声や身のこなし、柔らかな人当たりの感触がときどき甦るから、身の湛える雰囲気というか佇まいの気風は、関わりのあったヒトの胸中に生き続けていくのかもしれない。

 もって瞑すべし。そうわが肚に据えている。

0 件のコメント:

コメントを投稿