2022年9月10日土曜日

一期一会に深まる感懐

 今回の檮原行は、カミサンの母の13回忌があるからであった。7回忌以降、6年間の無沙汰。その間に、長姉が脳梗塞に倒れ遠く高知市内に入院し、予後もその地の介護ホームに入っていること、独り住まいとなった義兄が老人ホームに入ったこと、次姉の義兄が重病で入院手術を繰り返していること、それに心を痛めた次姉が鬱状態になっている知らせが風の便りに届いていたここと。だがここ二年半以上、コロナウィルスの所為で訪ねることもできず、いまでも逢うことが適わない介護施設やリハアビリ病院ではある。いつしかカミサンと姪や甥が遣り取りをするようになった。元気な実家の兄が13回忌を取り仕切る機会に、ぜひ皆さんの顔を見に行こうということになった。

 兄も80歳代の後半に入って稲作を止め、丁寧に保ってきた千枚田を放置するわけにも行かず、杉苗を植えてせめて景観を保つのが務めかなと(兼業的にやってきた)森林整備を趣味的にやっている。体調を崩した嫁さんと一緒に温かい高知市内に暮らそうと娘が呼びかけたが、単身残って実家を護っている。90歳を超える長姉を筆頭にしているが、80歳を越えるということはこういうことだと教えるような兄弟姉妹の近況である。

 前日夕方に梼原町の中心部「マルシェ・ユスハラ」に着いた。割引切符の所為もあるが、朝5時40分頃に家を出て、新幹線・岡山で乗り換え高知駅へ向かう。駅で借りたレンタカーで檮原に直行して4時半頃に着いた。11時間ほどの行程である。でも、先に述べたように、最寄りの国鉄駅からバスで5時間余かかっていた「四国のチベット」時代を思うと、便利になったものだと、この半世紀の径庭を思う。

 着いたよと知らせるついでの電話でカミサンは、明日の打ち合わせを兄としている。お寺での法要を済ませ、次姉をカミサンがエスコートして会食をする実家へ行くと手はずを整える。カミサンは、入院しているという次姉の息子への見舞い、そのまだ小学生の娘へのお小遣い、介護ホームに入っている長姉とその連れ合いの代わりに出席する甥に見舞金、実家の兄の姪っ子の子どもが大学生になったお祝いもしていなかったと、それぞれ包みを用意している。思えば中学卒業とともに家を離れ下宿して高校に通い、そのまま大学へ行った(本家の末っ子の)カミサンにしてみれば、盆暮れに帰省するのが実家であり、その都度、兄弟姉妹や親戚の人たちに世話になったことが一杯あったに違いない。その身に刻まれた思いがいま滲み出している。

 翌朝、雨模様のなか次姉の家へ向かう。6年前に訪ねたときには元気そのもの、ご近所の人たちと協同して料理民宿をやっていて、皿鉢料理をつくったり、遠方に暮らす家族に送る注文を受けて正月料理をこしらえるなど、そこそこ経営的にも成り立って頑張っていた。それが連れ合いの入院手術というデキゴトをきっかけに鬱症状を発症し、認知症になったんだろうかと周りを心配させていた。連れ合いとの関係が親密であればあったで、また深い思いの強い関係が取り交わされていたらいたで、それが壊れたときの身の動きにもまたひときわ厳しいものがあるんだと思わせる。案外淡泊な夫婦の関係も、緊急時には「てんでんこ」といって気楽なものかもしれない。

 ところが会ってみて、そんな心配は吹き飛んでしまった。顔を見るなり、懐かしそうな顔が浮かぶ。「まあ、きたんかな」と嬉しそうに妹の名を呼ぶ。入院していると聞いていた息子がいる。昨日退院したのだそうだ。それは良かった。息子の嫁さんも、相変わらずシャキシャキと動いている。小学生の娘もいて、そうか今日は日曜日だったと気づく。淹れてくれたコーヒーを飲み、あれこれの近況を交わす。6年間の無沙汰が嘘のように消えてしまう。

 次姉の姿が亡くなった義母とかなって、やっぱり親子やなあと感慨深い。次姉は毎日草取りをしたりして、よく体を動かしているそうだ。後でお墓参りをしたとき、山の斜面を階段状に整備したお墓への簡易舗装した道が苔も生えて滑りそうだったので、次姉の腕を取って手助けしようとしたら、私の方の足元が滑りそうなのに、姉は「大丈夫よ、これくらいは」と口にしながら、シャカシャカと降りていった。雨はいつしか上がっていた。

 50代半ばになる姪っ子と小中高と同窓であった和尚が、世間話をしたのちに読経して法要を済ませ、西へひと尾根越えた実家へ移って会食となった。かつては兄嫁が娘たちと取り仕切って料理を準備し、次姉もまた料理の一部を受け持ってお接待を受けたが、今回は仕出し屋へ注文して、直前にそれを取りに行くことで整えていた。そういうことを姪っ子の二人が前日から帰ってきて差配してくれていた。つまりこうした儀式もすっかり若い人たちの手に渡っているということを知った。長姉夫婦の名代ということで60歳を超えた甥っ子が顔を出していた。

 6年前には実家に泊まることもあって、兄のお酒の相手をしたが、今回は車の運転があるから私はお茶にして、もっぱらカミサンと次姉が相手をする。姪っ子も明日からの仕事があるから車で帰らなければならない。だが4時間ばかり、戦死した亡父、戦後の本家を取り仕切った祖父、幼くして早逝した姉、祖父亡き後の柱となった亡母の遺影が鴨居から見下ろす部屋で、時代を往き来しておしゃべりを交わす。姪っ子も「はじめて聞いた」話がいくつも飛び出して、その行間に揺蕩う気配がみな近況報告にもなり、四世代を一つの暮らしと文化の継承と感じさせ、開け放った部屋と縁側の先に広がる景観が蓄積した厚みと深さを開陳しているようであった。

「今度は17回忌じゃけん、4年後じゃね」

 と会う約束をする兄に、

「大変だろうけど、また、よろしくね」

 と姪っ子にたちに向けて言葉を繋いで言ってはみたものの、後で考えると、それ以前に近親者の葬祭で顔を合わせることになるんじゃないかと思いが浮かび、口にすると不吉だから胸奥にしまい込んでお別れをしたのでした。

 帰り道、そうか4年後にも車の運転ができないと須崎からタクシーになる。全行程60㌔余を乗るといくらになるんだろうと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。末っ子のカミサンが皆さんを看取るとすると、こりゃあ、あと十年は足腰元気に過ごしていなければならない。他人事じゃないんだとわが身の余命7.5年を忘れて、思案するのであった。

 バカだねえ。

0 件のコメント:

コメントを投稿