先日の夕方、大相撲が「これより三役」に入っていた頃、突然ピーッ、ピーッと大きな音がして「ガスが漏れていませんか? ガスが漏れていませんか?」と声がする。えっ、ガス漏れ警報器だよこれ、と夕飯の支度をしながら取り組みを観にリビングにいたカミサンがキッチンへ駆け込む。3口あるうちの二つのガスコンロ火がついている。天井のガス漏れ警報器の音と声は鳴り止まない。椅子を持ってきてその上に立って警報器を少し回すと音は止まった。やれやれ。と椅子から降りるとすぐにまた、音と声がけたたましい。
何度も椅子に上がり音を止め、その合間に東京ガスのカスタマーセンターとおぼしき所に電話をする。事態を聞いた電話口は、ガス漏れ対応の電話番号へ知らせて下さいと丁寧な応対。そちらに電話をする。その間にも、警報器は1分ごとに鳴り続け、止め続ける。ガス漏れ対応の電話口は、状況、住所、電話を聞いて、まずガスを止める、電気器具のスウィッチを入れないなどの注意を述べて「すでに対応する車両がそちらへ向かっている。到着まで20分くらいかかる」という趣旨のことをのべる。
警報器を止めていたカミサンが「この警報器、効いていたんだ。前回チェックは2005年だよ」という。そうだね、入居の30年前に設置されて何年かに一辺チェックがあったことは覚えているが、その後有料となって以来放置してきたことを思い出した。もうすっかりこの装置は死んでいるものと思っていたのに、まだ生きていたんだと感慨深い。
緊急車両の音を立てて向こうの街路をやってきた車が近づいて音を止める。家を出て通りを覗くと、二人の職員が「用具を以てこれから行きますので」と口にする。引き返し、客用スリッパを二足取り出し並べる。「全部のガスを消して下さい。元栓を閉めます」と声をかけ、一人が入ってくる。まず警報器の音を止める。そのとき「ここを止めておかないと、(団地)事務所の警報器も鳴っているから」とインターホンの操作もする。ガスの使用口の在処を尋ね、キッチンのコンロの他、ベランダにあるガス湯沸かし器もチェックする。オーブンをつかっているかと聞く。そうだ、壊れていると何年か目に判り、別に電子レンジを買ってオーブンはつかわなくなった。「このグリルは危ないですね。つかわないようにしてもらえますか」という。カミサンが「ハイそうします」と応じている。あっ、焼き魚が食べられなくなるかと私は思った。
結果的にガスが漏れているわけではなかった。「1989年製ですからね」とガス検知器の製造年を口にしたから、検知器の経年劣化が誤作動を引き起こしたってわけか。そうか、ちょうど33回忌ってことかと、別件と重ねて思いが跳んだ。すっかりその存在自体を忘れていた。
ガス漏れチェックは、その後グリルのスウィッチに「危険」というステッカーを貼って、終了した。検知器をどうするかは東京ガスに相談して下さいという。この緊急対応は、無料であった。そうなんだ。こういう対応がスムーズに為されるというのが、社会インフラが整っているということであり、私たちの安心の根拠なんだ。ガス漏れ検知器の「誤作動」が図らずも社会インフラが作動する検知機能を果たしたってワケだ。
ガス漏れ検知器ではないが、私たち年寄りが経年劣化の果てに「誤作動」を繰り返していることは、日々報じられている。そのとき表出するのは「誤作動」を起こした年寄りではなく、そうした「誤作動」を起こしてもきっちりと対応する社会インフラが作動しているかどうか。それを確認できるのが、安心して暮らせる社会ってことだ。果たして日本は、そう呼ぶに相応しい佇まいを持っているか。そういうふうに世の中を見ていかなければならない。
昨夜カミサンが「ゴダールが死んだ」とニュースの入ったことを話した。えっ、ゴダールって生きてたんだと、私は口にした。まさしくガス検知器の警報音を聞いたような感触であった。
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