2020年6月13日土曜日

大胆に試みる内発性


 昨日のニュースで驚かされたのは、アメリカワシントン州シアトルの「自治区」の誕生。デモ隊が警察署などを占拠、「警察なしでもやっていける」と一帯を「自治区」と宣言したという。シアトル市長もこれを認め、今後どうなるか様子を見守るとしているのが、いかにもアメリカらしい。アメリカらしいというのは、もちろん私の原イメージのアメリカ。人々が集まってコミュニティを作り、善し悪しを一つひとつ確かめながら「法を作り」制度化していった径庭を彷彿とさせる。
 それを市民のアクションで行うだけでなく、行政当局が「成り行きを見守る」という姿勢で容認するところが、また、好ましい。つまり、一つの仕組みを絶対化せず、自らを振り返って根底的な制度改革に踏み切る「試行」を受け容れる、その志が「人民の人民による人民のための政治」を体現しているようでうれしくなる。

 
 いやじつは、子細がまだ報道されていない。トランプ大統領は「とんでもないこと」と、民主党の極左集団に占拠されたと憎悪をあおり、兵を派遣してでも制圧するとツウィートしているそうだ。ところが、USAなものだから、Statesの自治権を飛び越して損なうことができるかどうか。やはり日本とは違う「くに」の出来上がり方が際立つ。人びとの心性、行政当局者の内省的自治意識、中央政府が暴力装置に頼って強圧的であることが、また、いっそう自治意識を掻き立てているに違いないが、「BLACK LIVES MATTER」が、ただ単に行政的な仕組みのモンダイではなく、それに向き合う人たちの振る舞いや言葉が大きく変革されることを意味していると考えると、社会的な動きとしての「自治的ま」ムーブメントが必要なのだと思った。
 
 そういえば、19世紀にパリコミューンと呼ばれたムーブメントがあった。わずか7日間の革命的な動乱であったが、あれがパリ市民の心裡にどれほどの「自治的な」モチーフを刻んだかも、考えてみるに値すると思う。
 
 それとは話はまったく異なるが、金比羅宮が神社本庁から離脱したと報道があった。神社本庁の不正が目に余るという理由だが、取材を受けた神社本庁の幹部は、「なぜ(離脱するの)か、わからない」と木で鼻を括ったような応答だったという。そうなんだよね。制度的な仕組みは、年数がたてば変わってくる。
 腐ってくるのは、明治期の日露戦争ころまでの「日本軍指導部」の志と、その後の日中戦争や太平洋戦争に突入していくときの「日本軍指導部」の腐り具合の違いがなぜ生まれていたかを考えてみると、容易にわかる。文民である政府の要人も、それに気づいていても手の施し様がなかったというのは、内省的な自治意識が培われていなかったことを証ている。
 でも、それを育てないと、日本の自治的意識は芽生えないのかもしれない。コロナウィルスがその転機になるかと期待するのは、やっぱり外からの英雄待望論みたいな気がするね。

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