2020年6月30日火曜日

法と倫理の相互関係(1)――日韓関係の鍵


 オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)を読みすすめている。前回(2020-6-28「韓国人の非近代性の根拠」)の記述で「非近代性」と読み取ったものと、私の身の裡に沁みついた「近代性」とを、出来得るならば同じ俎上に上げて考えてみたいと思っている。

 
 簡略にいうと、こういうことだ。
 竹島問題、従軍慰安婦問題、徴用工の補償問題と、1965年の日韓基本条約ですでにケリのついた問題を韓国の政府も司法も人々もなかったかのようにして問題にしている。まるで日韓条約を結んだ政府と現在の韓国政府とは別物だと謂わんばかりだが、それは政府の正当性というか、国家の正統性をも否定するものではないのか。近代国民国家としての一貫性・継承性・正統性をどう考えているのか。まるで日本の植民地になったことへの「恨」を蒸し返すことによって、現在の自己実存を確証しようとしているようだ。それって、ずいぶん後ろ向きの生き方ではないか。その謎が解けないというのが、私の疑問である。それを解く鍵を、ロー・ダニエルは日本(人)の機能主義と韓国(人)の当為主義にあると解きほぐしていると、前掲書の前段を読んで受け止めた。
 では、私の謎はどう解きほぐされていくのか。興味津々で読みすすめてきた。
 
(1)日韓条約が、1965年当時の日本と韓国と冷戦体制で封じ込めを意図していたアメリカの戦略によって、無理やり結ばれた。日本と韓国それぞれの政府の思惑をあいまいにし、両義的に読み取れるような文書にして、締結された。ロー・ダニエルは両国の文書と締結された「英文」とを照合して、その両義性を読み解いている。
(2)上記の「両義性」は、日本(人)の機能主義的な読み方と韓国(人)の当為主義的な読み方の違いによって、浮き彫りになる。つまり、日本政府がいうように(必ずしも)すべてケリがついているとばかりは言えない部分を含んでいる。
(3)上述した「問題」それぞれについてほぐしていく経路は違いがあるが、日本政府はサンフランシスコ条約や日韓条約の文言の機能的(形式的)な読み取りによって片づいているとしているのに対して、韓国の司法や人々は歴史的・倫理的・当為的(かくあるべしという姿)によって読み解いて、いまだ解決していないと主張している。
(4)徴用工問題に関する韓国司法の判決は、《日韓請求権協定に関する両国の意見の相違を韓国政府が積極的に解決しない「不作為」を、憲法違反と裁いた》という。つまり第一義的には、韓国政府が責任をもって処理すべきことであって、日本政府に詰め寄る問題ではないと(韓国司法も判断したと)論理的には言える。しかし、韓国に団体や人々は「反日」を標榜して日本政府に矛先を向け、現在の文政権は(韓国世論の風を味方につけて)不作為を貫いている。
(5)ヨーロッパの旧植民地との問題が再燃し、国際的には国民国家の政府が締結したことと別個に民衆が受けた被害への賠償を(宗主国やその関係企業などに)請求する動きが法制的に承認されるようになり、韓国民衆の動きはそれに触発されて国際世論に訴えて、ますます問題は「国内問題」に収まらなくなっている。

 上記をまとめていて思い出した。ひとつは、《2019-8-3「向こうさんの論理的正当性」》で取り上げた橋下徹の主張。以下のように記している。
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 先日BS-TBSで橋下徹(元大阪市長)が「弁護士として……」と前置きしながら、いま問題の日韓関係で懸案の「徴用工問題」に対する見立てを述べていて、おやっ、と思った。基本的には、「相手には相手の立論の合理性があることを、弁護士は見極めて、その相手の論理を崩すような反証をしなければならない」と、職業上の(対立する相手との)向き合い方を説いたうえで、二点指摘していた。

(1)韓国最高裁の判決は「日韓併合が韓国側の同意を得たうえでの処置だったのか、同意を経ずに日本が強行したものだったのか、その点の理解にかかわっている。1965年の日韓条約ではその点をあいまいにしたまま植民地時代の損害賠償は、今後求めないとしたものだったために、(韓国側の同意はなかったと考える)判決では、日韓条約の合意内容自体が無効とされた」と。
(2)国際法的な考え方として、「戦中の被害について(個人は)自国政府に損害賠償を求める権利をもち、もし自国政府が補償しない時には、対戦相手国にその損害賠償を求めることができる」という判例もでてきている。それには時効がない、とも。

 橋下徹の主張は、韓国最高裁の判決文を読めば(1)であるから、裁判における(三菱側の)弁護活動は「日韓条約で解決済み」というのでは全く不十分で、「日韓併合の正統性」を争うだけの弁護をしなければならなかったのに、そこまで踏み込んでいなかったと、手厳しい。
 そうして(2)の論理が生きてくると、(個人への)補償をしようとしない韓国政府とは別に三菱に対して請求するということが正当化される。
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 つまり、弁護活動という、相手のあるやりとりに置いては、相手の論理を組み込んでそれを突き崩していく組み立てをしなくてはならないのに、日本側の弁護団は自分の論理を述べ立てることに終始し、敗訴するに至ったということだ。
 また、数日後に《2019-8-9「知らないこと気づかないこと」》で、アメリカに介在する責任があるという論調に気づいたことを紹介している。
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 日韓関係の桎梏の発端になっている「徴用工問題」に関して、先日橋下徹(大阪市長)の指摘(日韓条約の締結の際に日韓併合に関する合法不法について明確にしなかったこと)に触れた。その指摘は、韓国最高裁の判決文を読もうとも思わなかった私自身の現在に、気づかされた。そのことに関して、倉西雅子(政治学者)が、日韓条約締結に伴って取り交わされた「日韓請求権協定」へのアメリカの介入に触れていて、《アメリカが「徴用工問題」の解決を国際司法の場に委ねるように説得すべき》と指摘している。それはそれで重要なポイントだと思った。
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 ともあれ、韓国政府のモンダイもさることながら、日本政府の対応も、種々の問題を含んでいる。それに気づかない私(たち)は、(日本政府と)同じ穴の狢だからだろうか。ロー・ダニエルは韓国の統治のモンダイに踏み込んで、クールに記述しているが、それはまた、後日の論題にしよう。

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