2020年6月4日木曜日
システムへの反省が最強のコロナ対策
東京アラートとやらが発動されて、「営業自粛」などは一進一退の様相になりそうだ。年寄りにとっては、毎日が外出自粛のようなもの。せいぜいご近所の散歩とか買い物程度だから、別に「アラート」に応えているわけでもなく、家に閉じこもっている。
まして夜の繁華街は、縁が遠い。午後十時というと、もう寝ている時間だ。居酒屋やバーどころか、外食すらよほどの慶事か凶事でもないとしない日々であるから、大騒ぎすることは何一つない。スーパーなどが混んで、空いた時間に行かねばならなくなったことと、マスクをつけることが、変化といえば変化というところか。
むろん「非日常」に暮らしの不都合を感じるのは、「日常」との乖離が大きいからだ。そう考えてみると、新型コロナウィルス禍によってもたらされた「非日常」は、それがやってくるまでの日々の暮らしに「過剰」があったことを、浮き彫りにしている。
お日様とともに起き、陽が沈むと床に就く。そういう原初の暮らしが出発点だろうが、現在は明らかに過剰に活動している。私は山へ足を運ぶから、原初から現在までの距離をいつも感じさせてもらっている。では、新型コロナウィルスという大自然の驚異は、何を人間活動の「過剰」と教えているのであろうか。それをとくと考えてみようと諭しているみたい。胸に手を当てて反省せよと。そういえば、患って手当を必要とするのは「肺」であった。第二波、第三波が来るとしたら、まだまだ反省が足りないというのであろうか。
経済活動における恐慌は、過剰な生産を整理するために生じると「経済学原理」は教えている。自由な社会の活動で過剰となった供給を恐慌を通じて整理するわけであるから、数多くの倒産が発生するのはあたりまえであった。となると、コロナウィルス禍で生じている活動上の不都合は、それ自体が「過剰」を指摘しているといえる。
まず、人口が過剰だ。高齢者が死ぬ。持病を抱えている人が死ぬ。医療や清潔環境が整わない途上国の人々や貧しい人々が窮地に追い込まれる。それは「過剰」がどこに位置しているかを人類に指し示す啓示である。たぶん自ら世界システムを動かす力のない動物ならば、「過剰」が調整されるまで食べるものがなく、体力をもたないものから死ぬことになる。生態系の調整点に達したのち生き残ったものが、再び、その種の生命史を受け継いでいくことになる。だがひときわ強い生きものであったら、その種が全滅する災禍によって調整されるのかもしれない。ちょうど恐竜がそうであったように。
人類は、社会システムを自ら設計する力をつくりあげてきた。そのシステム自体の過剰ということを、どう検証して「反省」するか。そこまで視野に入れておかねばならない。ヒトがシステムをいじるのを調節する力が、大自然の災禍というかたちで制約を受け、内省を迫られているのだ。
今回のコロナウィルス禍は、むろん全滅を示唆しているわけではない。だが、スウェーデンのように放置しておいて「集団免疫」が出来上がるまで待つというのが妥当かどうかは、その国の社会制度が、犠牲を強いる人々に「致し方ない」と受け入れられるかどうかにかかっている。ブラジルやアメリカのトランプのように、経済活動を保つこと至上主義に振る舞うと、その国の社会制度が、清潔環境や医療の保護を受けられない人たちを見棄てることになる。その点で、システム自体の内省まで行うかどうか。その分岐点が現れている。
システムの内省は、生きることの基本点が何であり、何が「過剰」であるかと問う。そう考えれば、高度消費社会の先進諸国の振る舞いそのものである。とするとこれは、2001年の9・11、ニューヨークの貿易センタービルに航空機を衝突させる格好でテロリストが提起した問題と同じではないかと思える。
テロリストは、その意図するところを声明で発したわけではないが、人類はそういう問題提起を受けたと受け止めるべきであり、システムの反省に到るところへ視線を向けることが、最大のテロ対策であったのではないかと、私の思いは飛ぶ。テロに対して、警備を強化し、防護を固め、テロリストを殺害排除すべく軍事行動を配備する。これは対処療法であり、「症状」を一時、抑えることはできても、モンダイを解決する筋道は少しも拓けない。
コロナウィルスに対していま行っている「緊急事態宣言」とそれに応じた「外出や営業の自粛」は、対処療法であり、ワクチンの開発すら対処療法の一環に過ぎない。システムの「反省」をしなさいという「啓示」にどう応えるか。
戦中生まれ戦後育ちの私だから実感をもって言うのであるが、私たちの人生と時代を象徴する高度消費社会は、明らかに「異常な時代」であった。そうなるとも知らず、懸命に紡いできたその社会の現在が、もはや私たちの日常からも浮揚していると感じつつ、その「過剰」にあらためて思いを致す破目になっている。わが身そのものの径庭を、臍を噛むような思いで振り返るのは、なかなかむつかしい。でもそれを避けて過ごしては、子や孫に申し訳が立たない。そんな気持ちがしている。
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