2020年6月9日火曜日

ちゃらんぽらんがいいかんけい


 凪良ゆう『流浪の月』(東京創元社、2019年)を読む。なんでこの本を図書館に予約したのかは、わからない。刊行されて9カ月ぶりに届いた。ひょっとしたら新聞か雑誌の書評欄をみて、読んでみようと思ったのかもしれない。私は他のことが忙しなく読む暇もなかったが、カミサンが読んで面白かったと言ったので、仕事がひと段落ついたところで手に取った。

 
 もう一つのボヘミアン・ラプソディだと思った。ジプシーは何処でも居場所にしてしまう。ボヘミアンは故郷喪失者のように、故地を追われて流浪する。
 世の中の標準とはズレたがために、しかもそのズレを口にすることができないがために身の置き所に窮し、あるいは他人の温かい心遣いに誤解されたまま心裡を表すことができず、世の中の隅っこに身を縮こまらせて生きていかねばならない。その苦しさ。まるで「月」のようにひっそりと。
 
 その時の救いは、ちゃらんぽらん。あれこれ詮索されないこと。気遣われないこと。大雑把で、細かいことを気にも留めない振る舞いや、つきあい方。いかにも都会地の人付き合いのように、隣が何をする人であろうと構わない素っ気なさが、流浪の民にとっては大いなる救いになる。
 他方で、デジタル時代の、モノゴトを単純に是非善悪や好悪快厭に分けるデジタル時代の感覚法や思考法が際立つ排除になる。わかってくれないことへの苛立ちとすぐにわかることの距離の近さが、人の危うさにも通じる。好きか嫌いか、友好か敵対か。
 どちらでもないという関係を保つには、社会はあまりにもセンシティヴだ。災厄が襲い掛かるまでは知らぬふりをして過ごしてほしいという、単純二分法しか残されていないのか。
 
 その二通りの道筋を分けもせず、どちらでもなく、でも共にいるという「かんけい」を探り求めて、流浪する「月」。それが本書のテーマだと、私は読み取る。前半は、何とも読みにくい。だが、だんだん焦点があって来るに従い、今の時代の息苦しさを描き出そうとしていることに、好感が湧く。
 
 むかし、親元を離れて都会の暮らしが持つ気軽さを求めていたことを思い出す。ときにはボヘミアンとわが身の置きどころの不確かさを感じることはあったが、気楽さと引き換えに失ったものなんだからと、喪失感というよりは自ら捨象した感触を主体性のように思いこんでいた。
 そうして後期高齢者となって振り返ってみると、「文化」とか振る舞いとして身に染みて受け継いできている「故地」に気づく。わが身そのものが、堆積する人類史と同じ重量で感じられる。流浪の月が、いつしか中天に懸かる白い月のように、太陽と居ずまいを共にしている。
 歳をとるってことは、そういうことなんだ。ボヘミアンは「わたし」という人類のことなんだと、実感できる。気遣いや善意や保護的な設えは取り払って、ただそこにいることを、許しあえる「かんけい」こそ、現代のボヘミアンにふさわしい。

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