2020年6月14日日曜日

村八分


 本届いたよ、大変な仕事でしたねと電話やメールが入る。あわせてコロナウィルスの「閉門蟄居」が大変でしょうと、ねぎらいの言葉が交わされる。岡山県はそれほど感染者が出ていない。田舎の方が「3蜜」にならず、ヒトの暮らしにいいのかもと私が言ったものだから、いやそうでもないよ、じつはねと話しが転がった。

 
 京都の大学を卒業して実家に帰った学生が発症して、大騒ぎになった。卒業祝いをした中にヨーロッパ卒業旅行をしてウィルスを持ち帰ったやつがいて、そこから感染したのやね。岡山県で4人目ってこともあって、その家族も、そいつの立ち寄り先も、どこの病院に収容されたかも、皆さんの衆目の的や。そいつの実家が大字のSにあってねと、電話の主と山二つ、4キロほど隔てた集落の名をあげる。学生の名前もわかってしまう。その集落が騒ぐだけではない。その家族の勤め先にも緊張が走る。ほかの郡市から仕事に来ている人もいるから、人口6万ほどの町だけでなく、岡山県全体の話題になる。
 それも節度を弁えたメディアばかりでなく、SNSというお喋り社会メディアが介入するから、ヒトの好奇心と警戒心と日頃のうっぷんが、その際とばかり、一人の感染者とその関係者に注がれる。とうとう、実家の人たちはいたたまれなくなって、何処やらへ引っ越していってしまった、と。
 
 こわいねえ、村八分やね、と電話の主は口にする。
 ええっ、まさか。だって感染経路とPCR検査とその症状に応じた収容医療は行われてんでしょ。
 そりゃあそうだがね。でもウィルスを持ち込んだってのは消えないし、警戒されるわな。あんたの棲んでいる都会とは違うよ。隣は何をするヒトか、ちゃんと知ってつきあっとるんだから。
 
 人口6万といえば、地方都市としては平均的な大きさの町。農漁業だけでなく、いくつかの鉱工業も抱える。その産業面でも、日本の地方都市の平均的な町といえる。共同体としてはどうそれに対応するか、医療制度やご近所付き合いも、それなりに近代的な市民社会になってると思っていた。だがそれも、「ふるさと」を離れて遠くから見ているゆえの幻覚なのか。
 
 コロナウィルス禍によって、グローバリズムや中央集権的なシステムが対応できず、アフターコロナの社会は地方分権で小さな規模のサプライチェーンが必要と私はえてきた。だが、まさか、村八分までさかのぼるとは思わなかった。
 たしかに誰が感染・発症者であり、クラスターがどこにあるかは、地域保健状況の管理当局が把握するばかりでなく、ある程度情報公開をして、市民に注意を呼び掛ける必要がある。感染経路がはっきりしているのであれば、個人名を特定することもなく、GPSで「感染可能性」の警告を発することもできる。
 だが、4キロ先の感染者の実家が「詮索」を受け村八分的に敬遠されるのは、そのコミュニティの気風(エートス)が不安定になっているからではないのか。
 例えば京都の大学生が卒業祝賀会をするからとか、そもそも流行最中のヨーロッパに旅行するからということは、通常であれば非難されるようなことではない。そもそもヨーロッパ卒業旅行を予約したのは、コロナウィルスの名も聞いていないころであったろうし、ヨーロッパの流行が報じられるときにはすでに「キャンセル」することができなくなっていたという事情も考えてみれば、(裕福でもない学生の生活水準からすると)同情に値する。「自粛勧告」が出ていたとはいえ、仲間内の「祝賀会」がまさかこんなことになるとはと、軽率さを後悔するというのも、いかにも学生時代にありそうなことと、私などは共感・同情してしまう。
 だが、コロナウィルスに襲われているという「不安定な気分」が町全体を覆っているとき、しかも、「閉門蟄居」とか「営業自粛」などで、全国的というか世界的に不安に満ち満ちているご時世だ。感染経路がわかっていることであっても、八つ当たりされてしまうのだ。
 こういうのをアインシュタインに言わせると「人間定数」とでも謂うかもしれない、そうした人の性が絡み合って(自分の身の裡の安定を求めて)外へ攻撃的に、「当たってしまう」。噂話も、根拠のない流言飛語も、好奇心も、ことごとく内省的に検証すれば「わが身」に足場を置く、「わがせかい」のことにほかならないのに・・・。
 
 つまり(ある出来事に対して感じている)好奇心も不安も腹立ちも、「わが身」の輪郭を描いていると内省的にみることができれば、コロナウィルスの感染がどのように広がるかを合理的にみてとって、それに対応する手立てを講じることへ考えすすめる道が開ける。ほとんど不安にはならない(はずなのだ)。だが、例えば、保健行政当局への(情報操作をしてるのではないかという)不信とか、地方行政そのものへの(首長は自分の選挙ばかり視野に入れて力を入れているという)底流する信頼の欠如があると、市民は自らの暮らしは自らが守るしかないと肚を決める。そうすると、近代合理主義的な行政処理の論理が通用しなくなる。
 つまり、危機に直面したときに、日常的に底流している、その社会の気風(エートス)が表面に現れてくる。
 
 それが村八分に現れているような気がする。
 はてこれで、コロナ警戒警報を解いて大丈夫なのか。
 国際的な交易交通関係が再開されるようになるとき、第一波がまだ継続している、日本の何倍もの様相を呈するヨーロッパやアメリカやブラジルからの帰国者とか、これから第二波が襲ってくるのかもしれない中国や韓国からの来訪者を迎え入れて、「感染経路不明」の広がりをみせたら、はたして市民はどうやってわが身を護る方法がとれるだろう。身近なところで、村八分で対応することが何がしかの合理性を持つとは、到底思えない。
  そういう「関係者」は「村八分」と聞いて、いっそう困惑するだろうと思う。

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