2020年6月8日月曜日

#コロナウィルス 「自分なりの答え」とは?


 TVを観ていると「BLACK LIVES MATTER」を「黒人の命は大切」と日本語に訳した看板を掲げて大阪の街をデモっているのが目に入った。どうしてMATTERを「大切」と訳すんだろう。昨日も私は、MATTERを「モンダイ」と訳してコメントを記したばかりだ。
「大切」という訳には、ものすごい違和感を感じる。どうしてだろう。そこには、あきらかに訳者の価値意識だけでなく、世界観というか、生きることに対する観念が反映されている。「大切」と訳すと、「BLACK LIVES MATTER」と提示した本意が損なわれるように感じられる。

 
 wikipediaをみると2013年に「#BLACK LIVES MATTER」が広まったとされている。毎年のように黒人が警察官に射殺される事件が起こっている。「黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動」として、その(日本語の)翻訳がいろいろになされ、それに対する批判・応酬も行われている。そうして落ち着いたのが(今のところ)「黒人の命は大切」という地点だそうだ。誰がそう(落ち着くと)書いているのかわからないが、何を視野に入れて「このモンダイ」を見ているかによることは、いうまでもない。
 なぜ私は、強い違和感を覚えるのか。
「黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動」というと、昨日私が感じたモンダイも含まれる。だが「大切」といってしまうと「構造的な」視界が、道徳的な領域に雲散霧消してしまう感じがする。
「モンダイ」とすると、道徳的な次元も、構造的な次元も、一人一人がどう受け止めるかという次元も、社会的なシステムや暴力装置の発動や秩序のありようを考えることになり、ではどう秩序を守り維持するのかという統治側の論題も、「論題」として浮かび上がる。つまり、「大切」というのでは組み込まれてこない主体性が「モンダイ」とすると起ちあがる。そこが重要なのだと私は強く思う。
 
 でもそれだけでは、言いつくしていない感触が残る。何だろう。主体的であっても、偶然の作用によって降り注ぐ事態が違ってくるからだ。それが襲来してくることはありうべきことであるのに、私たち自身が選びようがない不可知の情況に巻き込まれて、こともあろうに私にそれが降りかかる。無謀な運転者の車に出くわす。大衆に支持された無茶な為政者の舵取りによって多大な負債を抱え込み、通貨の混乱と生活物資の調達に苦しむ。コロナウィルスに感染して、治療を受けることもできず死亡する。
 運不運と、私たちは言葉を使う。不運に見舞われたとき、当人はそれを不条理と受け止め、どうして私にと非運を嘆く。だが幸運に包まれているとき、それを不条理と思っているだろうか。たぶんそう思わない。たいていの人はそれを幸運とさえ思わず、わが身が引き寄せた必然性のある事態と思っているのではなかろうか。どうしてそう受けとめるか。幸運というのは、あわよくば出くわしたい想定内の最良の形だから。つまり、あらかじめ想定している事態であるから、いろいろな目に見えない要素がうまく組み合わさって、わが身に降り注いでいるとは思わないのであろう。
 だが不運もそう考えると、(わが身に降り注ぐとは)想定していないだけであって、想定して然るべき出来事にほかならない。ただ、想定することとわが身に生起することとは、同じではない。つまり私たちは、わが身はいつも幸運に恵まれてしかるべきだと、何の根拠もなく期待しているにすぎないといえる。
 運不運はいつも、後付けである。幸運は理屈がつく。不運は理屈がつかない。不条理というわけである。悪人をしたて、他人を非難してコトに対しようとするのも、その心性の作用である。
 
 神保哲生と宮台真司の司会で言葉が交わされる「マル激トーク・オン・ディマンド(2020年6月6日)」で「ようやく見えてきたコロナの正体」と題して、児玉龍彦(東大先端研名誉教授)が話している。この方は「専門の立場から免疫系や抗体検査などの分野で積極的に活動を続けている」分子生物学者だそうだ。「ようやく見えてきたコロナの正体」というタイトルに目を魅かれた。
 
 コロナウィルスの死者に目をつける。
「100万人あたりの死者数はアメリカの48分の1、スペインの83分の1。(日本は)人口比で見ても桁が2つも少ない」。
 だがアジアで見ると「日本の100万人あたりの死者数が7人なのに対し、中国は3人、韓国は5人、台湾にいたっては0.3人。アジアの中では日本の死亡者数はむしろ群を抜いて多い」と、不都合な事実にも目を向ける。
 つまり、欧米と比べるのではなく、アジアの特性に目を向ける。では、なぜアジアは死亡者が少ないのか。

《欧米と比べて東アジア諸国では、元々新型コロナに対する抗体を持っていた可能性が大きい。東アジアに住む人々はこれまでに繰り返し中国南部を震源とする新型コロナと非常に似通ったウイルスに起因する「風邪」を経験してきた。新型コロナに似通ったウイルスに対する免疫を持つT細胞ができている可能性が高い》

 いかにも分子生物学者らしい根拠から見極めていく。日本の死者数が(それでも)今の数値にとどまっているのは幸運に恵まれているからといっているように見える。もちろん「民度が高い」などという戯言を退けて、注意を促す。

《新型コロナウイルスはRNAウイルスなので、高速で変異を繰り返す。……コロナとどう戦い、どう向き合っていくのかについての長期的な戦略が必要。しかし、政府からは明確なメッセージは出てきていない。ここは一つ市民一人ひとりがそれをよく考え、自分なりの答えを出していく必要があるだろう》

 政府や首長に頼るな。「新しい生活の仕方」などという贅言に惑わされるな。「自分なりの答えを出していく必要がある」と、結論はいたって平板だが、わが身は自分で守るしかないよという要点は、はっきりしている。理屈は後で着いてくる。
 こちらは末期高齢者。感染したら、後がない。では縮こまって、余生を送るか。そんなことはイヤだ。
 1月下旬から4カ月半、「ようやく見えてきた」のは、私が身をおく「せかい」だ。その中にコロナを組み込んで、この後の人生をどう送るか、「一人ひとりがそれをよく考え、自分なりの答えを出していく」しかないと、改めて覚悟をしている。

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