2020年6月28日日曜日

韓国人の非近代性の根拠


 従軍慰安婦問題とか徴用工問題を巡る韓国の、国民や政府のわけのわからない振る舞いを、とても奇異に思ってきた。「恨(ハン)」が生きるエネルギーという言い回しも、何だかわかるようでわからない国民性だと思ってきた。それを、日本人にもわかるように解き明かしている本に出合って、目下読んでいる途中である。
 オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)。「地政心理」という看板に少しばかりいかがわしさを感じはしたが、藤原書店の出版物ということで、それを帳消しにして手に取った。著者は、韓国生まれ、アメリカの大学で博士号を取り、中国の大学教授や日本の一橋大学や京都産業大学の客員研究員を経て、いまソウルで政治経済リスクを評価する会社を経営する、私よりひと回り若いかた。
 日本と韓国の置かれている地政学的な位置とそこに暮らすがゆえに身に刷り込まれてくる精神的・心理的なエートスのもたらす差異を解析して、日本文化と韓国文化、それぞれの国民性、根っこにある気風の違いを、丹念に資料を読み解いている。資料への目配りも行き届いている。

 このテーマが違和感を感じさえなかったのは、彼がアメリカでこのテーマに取り組んだのが、1980年代半ば。つまり日本が奇跡の経済成長をして、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた時期。世界中の知識人が日本の社会システムに注目していたときであったから、韓国生まれの彼が、自国と対照させて日本の地政学的な立ち位置と、それが齎した精神的・心理的気風に目を配るのは当然と受け止めた。しかも、そう簡単に善し悪しをつけず、クールに韓国民の気質や傾き、日本人の自己意識や外から見た評価を一つ一つ丁寧にみてとっているのが、好感が持てる。
 
 なにより、従軍慰安婦問題とか徴用工問題に関する韓国民やその行政や司法が下す判断の根源がどこにあるかに分け入る進め方は、それなりの論理をもっているのだと理解できるようには感じた。それは、日本(人)の国民性や気風との差異を浮き彫りにするものでもあって、わが身の傾きを指摘されるようにも思った。と同時にそれは、自国と異なる文化や価値意識を持った対外的関係には通用しない振る舞い方であると、強く感じる。
 まだ読みすすめている途次にあるから、最終的にどこまで論及するかは、わからない。ただ私自身が理解できないのは、韓国(人)の歴史的継承性というか、韓国という国家政府を継続している(諸外国との)正統的な継承性を、何処に置いているのかが、解けないままだ。民主主義国というのなら、そのときどきの国民の選択によって成立した政府が諸外国と結んだ条約は、後の政府が覆すにしても、それなりの国際的な道筋を辿らなければなるまい。手続きを抜きにしてひっくり返していては、独立国家としての見識を疑われる。つまりかつて国民が選挙で選択した政府が取り決めたことは、後の政府が引き継いでいかねばならない。国民も、「革命」を起こしたというのでない限りは、その継承性を受け継ぐのが、近代国家国民の国際関係上の当為である。
 
 オー・ダニエルは、韓国(人)の振る舞いの特徴の一つを、当為主義的にあるという。かくあるべき姿を目標に置いてそこに至る手段を問わない振る舞いともいう。それに対して日本人のそれは、機能主義的であると対照させる。
 自然に対する人為の優位性を信じて疑わない韓国(人)は国家の支配や権威に対しても抵抗と反逆を突き付け、全とっかえするように攻撃的に対抗する。それに対して日本(人)は、自然に畏敬の念を持ち恐れ、支配体制や権威に対して従順であって覆そうとしない。それは、日本(人)が人間も自然の一部と感じて生きているのに対して、韓国(人)は、自然をものともしない(人の)誇り高さをもっていると対照的にみてとる。
 
 なるほど面白い。だが、国民国家が国際関係の基礎単位として成立している世界においては、一つの国民国家の正当性・継承性も、(例えば条約なども)持続的なものとして承認されているのであって、その承認の論理を自国内の「当為」によってかってに覆しては、国際関係の舞台に立つ資格はないと言わねばならない。それを韓国(人)はどう考えているのか。
 自国の政府が取り決めてきた条約を無視して、すでに解決済みのモンダイを(日本に向けて)蒸し返すのは、かつて植民地支配をした宗主国であったということに、憤懣をぶつけているだけではないか。植民地支配をしたことを忸怩たる思いで見ている私でも、甘えなさんなと言いたくなる。
 なるほど1945年の(日本の)敗戦によって、朝鮮半島は連合国軍の支配下に入った。そのため敗戦国・日本が宗主国として植民地の(その後の)独立に対する責任ある振る舞いをすることができなかったことは、倫理的には非としなければならないことが多々あると思う。だがそれは、連合国軍の支配権を持っていた国々と朝鮮との関係であって、日本に「始末の責任」をもってきても、応えようがない。ただそれでも(植民地時代については)、1965年の日韓条約によって補償問題にケリをつけたのであるからには、その内容に不満であっても、爾後は韓国政府と韓国民との「国内問題」として扱われなければならない。
 そのことに、オー・ダニエルさんはどう応えを出しているか。
 韓国とは、これからも隣国としてお付き合いしていくわけであるから、「奇異な」感触を棚上げしたままでいいわけがない。韓国を知ることがわが身を知ることとこれほど近い距離にあるとは思わなかった。後半部分を、引き続き読みすすめよう。

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