2020年6月21日日曜日
医療の過剰――雨にも負けず風にも負けず
持病持ちや後期高齢者はコロナウィルスに感染して発症すると手当てを受けられないかもしれないという緊急事態は、どうやら越えたのかもしれない。第二波が恐いとメディアは新しい局面へ焦点を移しつつある。となると、第二波に備えて、ここまでのコロナウィルスの教訓を、とりあえず医療に関してまとめてみておきたい。
私自身が持病持ちの後期高齢者だからいうのだが、もし感染し重症化したら若い人に治療順を譲って、私は寿命が来たと観念しようと考えた。そのとき、重症者向けの人工呼吸器が足りないというのを聞いて、いや私はそこまでの治療を望まないとも思った。むろん人工呼吸器があれば助かるであろうことを否定しているわけではない。だが、患者の数が多くて危急時の究明の順位付け(トリアージ)が必要な時に、後期高齢者が後回しになったり、治療を受けられないことになっても、それはそれで仕方がないと思っていた。
その「仕方がない」という私の感覚の中には、人工呼吸器をつけてでも延命しようとするのを「過剰医療」とうけとる認識がベースにある。これはコロナウィルスとじかに関係するわけではないが、例えば生まれながら心臓に欠陥をもっていて心臓移植を受けなければ長くは生きられないという方がいる。そのために街角で資金のカンパを求めている姿も、みたことがある。そのときも私は、先端医療の試みとしては、そういうこともあろうと思うが、私自身や私の身内がそうする必要があったとき、資金の欠如や機会のなさをクリアしてでも、そうしようと考えるかというと、いやそこまでするのは「過剰」だと考えているように思った。普通の庶民が、もって生まれた身体をそれなりに大切に使って、生きていく。もちろん運否天賦がある。そのときどきの運不運にも見舞われる。それもしかし、致し方ないものとして受け入れるのが、自然な生き方と思う。あまり人為的に「改造」するのは自然(じねん)に反する感触が強い。
科学技術の進展に反対というわけではない。それを庶民が享受できるようなときにそれを受け容れるのは抵抗がない。だが無理をしてまで延命の措置をするのは、人為が過ぎると思うのだ。
コロナウィルスで露わになった医療の過剰は、医療者の研究的な探究のことだけではない。社会的な展開についても、「過剰」が指摘されているように思う。
えっ? 何のこと? と思われるかもしれない。医療崩壊というのは、ベッド数が足りないとか、医師や看護師が足りなくなることと考えられていたのに、何が「過剰」というのか。
コロナウィルス患者を受け入れた病院に患者が来なくなって、病院経営が苦しくなっているという。コロナウィルスに感染することを恐れた患者が来なくなったそうだ。結構なことではないかと私は思う。医療に頼りすぎる。もう少し、ヒトの自然に信頼する方がいいのではないだろうか。
でもね、と医者がいう。腹が痛くても我慢する、胸に異常を感じても医者に行かないで済ます、頭が痛いのに医者に行かないというので、手遅れになることもある、と。
それはそうだ。でも、それで重症になることもあるだろうが、それで済む患者もまた、多数いるに違いない。医療に頼りすぎると、身体自身のもつ自己治癒力というか、免疫の能力が落ちるというか、育たないのではないだろうか。
医療がかかわることと自然治癒力を高めることと、その双方をバランスよくとって、ヒトというのは育っていかなければならないのではなかろうか。その双方の兼ね合いを社会的にバランスよく進める方法があれば、医療関係者に提起してもらいたいが、私たち庶民からすると、コロナウィルスにかかって治療の受けられないことの方が恐いとなると、我慢して手遅れになって命を落とすのとどちらがいいかという選択の問題になる。
そもそも薬漬けの過剰医療を嘆いていたのは、医療関係者ではないのか。患者が薬を欲しがるからというのは、医者の責任回避の口上だ。医者が要らないと言えば、患者はそれでも何か薬をくださいとは言わない。薬を処方してそれを利益に結びつけようとする道筋があるから、医者は薬を処方するのだと、私は思う。
あるいは医療の方からいって、予防医療をふくめて早期診断・早期治療がいいのだとすると、早期発見を促すような医療システムを社会的に構築すればいい。高齢者となってからは、年一回の健康診断が行われている。あれで早期発見になるのなら、それほど医者通いをする人が増えるとは思えない。身体の調子に何となく不安を感じて医者に相談したいと思うこともないわけではない。その時手軽に相談できて、手軽に診察してもらえ、精密検査などが必要なら大きな病院を紹介するというのが、かかりつけ医と大病院との棲み分けではなかったか。もしそれで大病院の経営が苦しくなるのだとしたら、医療報酬の設定の仕方を変えればいい。
コロナウィルスを受け容れたから患者が少なくなったというのは、大病院の受け入れ態勢に信頼が置けないと人々が感じているからではないのか。しかも、それで大病院の患者が少なくなっているのだとしたら、(コロナウィルス患者を受け容れない)かかりつけ医に病人が殺到しているのか。
そうでもなくて、人々が不要不急の症状では病院へ行かなくなったということならば、喜ばしいことだと言わねばならない。
医者をもうけさせるために医療保険制度を設けているわけではないから、患者が来なくなって医者が廃業するというのなら、競争原理では廃業すればいいということになろうが、ある程度の医療設備と医師や看護師は非常事態に備えて確保しておかねばならない。
こうして初めて社会保障的な医療の体制を考えることになる。厚生労働省の出番ではないのか。
そうだ、ひとつ「過剰」なことを忘れていた。中央集権的に、全部厚生労働省が統括しているというのが、そもそも過剰なのだ。今回のコロナウィルスの展開を見ていると、明らかに地方自治体に権限と財源を任せた方が、対応は的確にできるし、補償などの措置も速度が速い。マスクひとつ各所帯に配るのに4カ月近くかかる。全住民に10万円配るのが、まだ届いていない。とっくに「緊急事態」は解除されているのに、定額給付金という支援が届かないのは、これ自体が「失政」である。
いうまでもなく首相は「深く反省します」というかもしれない。「現場は一生懸命やっている」というかもしれない。だが、口先だけの反省は入らない。現場の擁護ではなく、中央集権的な展開を地方分権的に組み替えるようにすること、それが「反省」ってものだ。
ウィルスが齎した教訓を自己責任で活かすとしたら、雨にも負けず風にも負けず丈夫な体をもち・・・という原点に還ることかもしれない。
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