2020年6月20日土曜日
とうとうはじまったか
今朝目が覚め、カミサンに「昨日ストレッチはなかったの?」と問われてはじめて、ストレッチのことをすっかり忘れていたことに気づいた。
ショックも何も、手遅れも手遅れ、遅すぎるどころではない。六日の菖蒲どころか、六月のアヤメになってしまった。
じつは私は「会計」を担当している。毎回、講師への「謝礼」を用意して、持参する。ストレッチの代表者に手渡し、彼から講師に渡してもらってきた。私がお休みするときは、事前にお渡しする。それができないときは、立て替えておいてもらって、次の週に弁済するというふうにし、それで十年以上過ごしてきた。こんなことは初めてだ。
もちろんさっそく、会員全員宛にメールで、「お詫び」を送った。
しかし私は、反省というよりも、もっと大きな変化が起こっているのではないかと、昨日一日の行動を振り返っている。どこに、身の習慣を失念する「きっかけ」があったのか。
朝4時に起き、前日の「ささらほうさら」のことを反芻しながら感懐を綴る。朝の体操をする。朝食を摂る。来週の山に関するメールの送受信をする。あわせて7月と8月の山行計画について、山小屋の営業などを調べる。ベースになる山友に、検討を依頼する。
9時過ぎに雨の中、歯医者に行く。今日は新しい入れ歯ができる。合わせてもらう。違和感がある。慣れるかどうか一週間試してくださいと言われ、あちらこちらにあたる感触を意識しながら、散髪屋に行く。うまい具合にすぐにやってもらえることになり、刈ってもらう。うつらうつらするうちに散髪が終わり、11時前に帰宅する。雨は降っている。
少し本を読んだだけなのに、お昼になる。ここ十数年、お昼は自分で用意する。いつもカミサンが出払っているからだが、雨でいる時も自前で済ませることになってしまった。気楽でもある。
食べているときにカミサンが「映画観る?」と訊く。録画していたリバイバルものをみようというのだ。う~んと唸りながら、ま、観てみようかと思う。いつもならこの時、3時からのストレッチのために、「謝礼」を包み、ストレッチの体育館用の靴などを入れた紙袋を玄関先に置くようにしているのだが、それをしていない。つまりこのときすでに、ストレッチがあることを忘れている。
昼食を終え、少しばかりこの夏の山小屋の営業状況をネットでチェックした後、ソファに座って映画を見る態勢に入る。『老人と海』(米、1958年制作)。ヘミングウェイの作品を読んだのが先だったか、映画を見たのが先だったか。映画のプロットも大半は忘れているが、カジキとの格闘が印象に残っている。観ているうちに眠り込んだようだが、ストーリーにそれほど触るわけでもない。観終わったのがたぶん3時半ころだったと思う。
その時間すでにストレッチははじまっているのだが、まるで思い浮かべていない。
5時過ぎまで、山に関する問い合わせへの返信を読んで、山小屋情報と照らし合わせて、返信を書き送る。コロナと山とが頭の中を経めぐるが、これはそれ自体が、山の愉しみの一部。梅雨と奥日光の梅雨知らずとか、野反湖の梅雨がどうかと思いめぐらす。雨飾山とか会津駒ケ岳の小屋と周辺の宿をチェックする。八ヶ岳と南アルプスの山小屋は、開業と休業と未定とがまだら状になっている。コースのとり方では厳しいところが出る。
5時半ころパソコンから離れ、夕方のお神酒の準備をする。ストレッチはとっくに終わっているが、1ミリも気づかないから、いつもと変わらぬ平穏な一日の終わり。いっぱいと一緒に夕食にし、8時ころまで本を読んで過ごし、シャワーを浴びて寝床に着いた。
3年前、運転免許証に関する後期高齢者の認知症検査と実技チェックを受けたとき、大部分は良好だったが、「運転中に考えごとに集中して、周りへの注意がおろそかになる傾向がある」と注意を受けたことが思い出される。これは思い当たることが、それまでも時々あった。運転して助手席の友人と話が弾み、降りるべきインターチェンジを通り過ごして10キロほど先の次のインターまで行って折り返すことがあった。同時に二つことができなくなったというわけか。
体と頭の動きが硬くなっているから、なにか思い出す手立てを講じなくてはならない。とうとう、そういうことが起こりはじめた。肝に銘じる。肝に銘じる。
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