2021年5月31日月曜日

「愛国者でなければ被選挙権はない」

  香港の立法院の選挙への立候補資格に「愛国者」と明記し資格審査をすると中国政府が法規制を定めた。「愛国者」以外は国民ではないというか、統治の対象にすぎないと定めるといおうか。この規定を、日本会議の方々はどう評するだろうかと、ちょっと皮肉な感懐が湧いた。

 このとき、日本国憲法が定める「基本的人権」が「愛国者の権利」を意味していると考える人はいないであろう。「基本的人権」とは「愛国者」とは次元が違う、より広い領域の人々の「在り様」を示している。愛国的でない人も、在留外国人も保障さるべき権利というふうに。だが同時に、日本国憲法の定める「権利義務」は「国民」を指していて、peopleではないと作家・赤坂真理が指摘していた。

 《すべての枠組みやイデオロギーに先立つpeopleという概念を、日本人は持ったことがあるだろうか?》

 と疑念を呈し、

 《生まれてこのかた持ったことのない感覚を、「生得の権利」として行使できるという信念も、そのやり方も、私にはわかっていない。それを認めざるを得ない》

 と述懐している(赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』講談社現代新書、2014年)。1964年生まれ、思春期にアメリカの高校に留学して過ごしたというこの作家は、そのときの(自らの祖国に対して感じた)カルチャーショックを率直に述べて、日本の戦後史を振り返っている。

  彼女のこの述懐は、自らへの内省を踏まえて繰り出されている点で、信頼できる。

 実際日本の憲法解釈でも、「基本的人権」は「国民」にしか認められていない。先ごろの入管法改正案で論題になった「不法滞在者」の扱いも、ほとんど犯罪者同然である。あるいは、外国人労働者への待遇も、同様に、「基本的人権」をもつ人としての処遇と異なり、単なる労働力商品としてのあしらいと言わなければならないような遇し方になっている。

 これは、法的な処遇が遅れているからなのか、日本社会の「国民感覚」と「人権感覚」の間に開きがあるからなのか。そう考えると、その両者に通底する「日本人感覚」が壁になっていると思われる。

 つまり「日本人感覚」のなかに、「日本語を話し、日本文化に馴染み、日本人として振る舞える人」を無意識に想定している(社会に通底する)センスの選り分けがたく根付いていることが、処遇の不備を長年にわたって生きながらえさせてきたと思えるからだ。

 つい先日のTV番組で、町山智弘がアメリカの奴隷制度の現在を取材していた中で、奴隷解放宣言がなされてからも1970年代に入るころまで百年以上も、アメリカ社会は黒人を奴隷同然に扱ってきたと黒人女性ガイドが話していたのが印象的であった。個人の所有物としての(高価な)黒人奴隷が、最下層の低賃金労働者としての黒人労働力に変わっただけ。その所有者が、南部の富裕な農家から北部を含む企業経営者へ(その感覚は当時社会の主流を占めていた白人市民層に)と大衆化され、人としての処遇は社会的には相変らず過酷低劣であった、と。去年の出来事に端を発したBLM運動は、未だに残る社会的な残渣の根深さと苛烈さを表している。

 與那覇潤が斉藤環との対談でしゃべっていることが、目を惹いた。要約、以下のようなこと。


 映画『ラリー・フリント』(1996年)の台詞……。ポルノ雑誌を出版したりしていた「下種な商売をしていた人物」だが、出版の自由を巡って訴訟になった時の決め台詞。「憲法が俺のようなクズを守るなら、社会のあらゆる人が守られるから」。これこそが法の支配の本質であり、人間教にはないもの……。そこまで立ち戻って考えなおさないと、なにをやってもループをくり返すだけでしょうね(『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』新潮選書、2020年)。


 輿那覇潤のいう「人間教」とは、「健康で文化的な暮らしをしている日本人」のイメージなのだが、うつ病を病んだ輿那覇にすると、そこにこそ「愛国者」の姿を組みこんで恥じない人たちの「国民」像が重ねられている。「何をやってもループが繰り返される」という慨嘆に中に、私たちの胸中に巣くう、赤坂真理と同じ感懐があること、それと向き合わねばならないことが示されている。「同じループをくり返す」と指弾されているのは、私なのだ。

2021年5月30日日曜日

神様はお客様です。

 だれのおきゃくさまだったんだろう?

 子どもの私をお客としてもてなすご亭主は、間違いなく親であり、兄弟であり、祖父母やご近所の大きな人たちでした。大事にされたかどうかということではありません。この子は一人前でないのだから世話をしてやらなければならないと見なされ、本人もそれに甘んじていたのです。

 生長するにつれ、自分でできるようになってきます。お客様度は下がります。元服とか、成人というのがお客様卒業の儀式でした。

 神様は生長しません。永遠のお客様です。

 伊勢神宮では、朝晩毎日、神様に御饌(みけ)を手向けます。食べ物も種から植え、育て、収穫して料理して、神様に捧げます。火を熾(おこ)すのも、毎回木を擦り合わせて火口をつくっていると聞きました。ヒトの暮らしの基本中の基本を忘れないように千数百年続けてきているのです。

 基本中の基本って、何? 

 暮らしに必要なものを作り、交換し合い、使う。役割を分けもって行うと、つくった人が提供者になり、使う人がお客になる。そこから、基本が忘れられるようになってきたのですね。

 昔と違い、社会は豊かにもなり、複雑です。ヒトの活動分野も広がり、さまざまになり、楽しく贅沢であることに身が馴染んできています。他人(ひと)の提供してくれるものを(お客様として)頂戴するというのが日常になってしまいました。日常がお客様になってしまいました。まるでヒトが伊勢の神様になったみたいですね。

 身が基本を忘れたからといっても、それがいまの社会の自然です。ヒトは環境に適応しようとします。ヒトも変わっていくのですね。

  ところが、入院してみると、根っこのところに基本が据えられていることに気づきました。自分の身が動かないという障碍を背負ってはじめて、基本が感じられたのです。世の中を見るときに、もっとも底辺に位置している人を基点にしてみていくと、社会の基本が見てとれるってことですね。

 いま、社会はしっかりしている。それを実感しています。

2021年5月29日土曜日

あなただれのおきゃくさま?

 身体不自由の長期入院という事態は、日頃のわが身の在り様を考えさせるに衝撃的でした。

 入院当初2回の食事は、食欲もなく汁物だけを飲んで下げてもらいました。お粥にしてもらい、煮びたし、根菜の煮物、煮魚、デザートなど、全部で4品。1日1400kcal、塩分6g未満。病院食です。

 両手がうまく動きませんでした。いまでも右腕は力が入らず、胸の高さに上がりません。もちろん病院は、食事の時に介助をしようとしてくれます。でも、左手でスプーンをもって口元に運び、自力で食べることができるようになりました。

 一つひとつの動作はゆっくりです。間合いも十分すぎるほど必要でした。

 そのときわが胸中に、バチバチウィルスがいくつも入ってきました。


 なんて、これまで、忙(せわ)しなく食べていたのだろう。

 なんて、たくさんの量を、ふだん食べているのだろう。

 なんて、味わいもせず、胃袋に放り込んできたのだろう。

 たくさんの「なんて」が湧き起り、それがつぎの「なんて」を生み出します。

 そこで、はたと思い当たりました。

 ああ、食べること、食べ物のことに、ちゃんと向き合ってこなかったんだなあ、と。

 

 山歩きをするとき、食糧計画をたて、調理プランも考えてきました。でも、お腹を満たすこと、カロリーばかりに関心が傾き、あとは重さやかさばり具合を考えて準備をしてきたのです。ま、山は非日常ですから、それはそれで一向にかまわないと、今でも思います。

 日頃の食事がそれではダメなんだよ、とバチバチウィルスの浸入した細胞が訴えています。

 何がダメ?

 基本がダメ。食材がなんであるか、どう調理しているか、取り合わせはどうなのか、どうやっていまこの食膳に並んでいるのか。そんなことにに関心を持たないで、ヒトは生きては来られなかったはずです。

 他人(ひと)様にやってもらって、御馳走になるのは、お客様。

 あなた、だれのおきゃくさま? 

 自分のことを自分でやるというのが、生きていく基本。それを忘れていますね、とわが身がつつかれたのでした。

2021年5月28日金曜日

柔らかく微細を感知する

 リハビリに通っている。5月の第二週から週に4回、足を運んで右肩を温めるとともに、右首筋から右肩と右腕にかけての神経の流れをとらえて、ほぐしてもらっている。

 症状は、右手が胸の高さ以上に上がらない。正面から上げても側面から上げても、肘を伸ばしまままでは腕の重さを持ち上げる筋肉が足りない。左手を添えてやれば上がるのだが、ある程度以上になると、右肩とその神経の流れにピリピリと軽い痛みが響く。

 ほぐすリハビリ士は5人ほどいる。大体30歳前後の男性。どこに不自由を感じているかを聞いて、手を添えてゆっくりと動かす。動かしては、神経のしこりそうなところに掌を当てて温め、軽く揺り動かしてほぐす。すると、動きにつれて生じる軽いしこりが消えていく。

 いや精確にいうと、腕の動きに合わせてしこりが来そうなところの手前のところで、動きを止め、元に戻し、またそこまで腕を動かしてゆく。そのときのリハビリ士が感じているであろう(私の神経の)微細な反応が負荷を感じるギリギリの手前のところで止めて、元に戻し、それを軽く繰り返す。それが心地よいのだ。

 心地よいというのは、これまでの私の(筋トレ)常識からすると、効き目がない領域である。だがリハビリ士は、痛みを感じる手前で止めるのがいいと口にする。そうして、彼が私の神経の反応を聴き取りながら行う15分ほどのリハビリが、動かない右肩の動きをほぐして、何日か経ってみると、動きが少しは良くなっている。夜中に肩が張って寝付けなかったところが、いつしか熟睡しているというふうに、時間をかけて効き目を発揮しているようなのだ。

 近頃は湿布薬も、一枚にし、半日だけ貼るようにしている。

 このリハビリ士の、柔らかい、微細なところを感知する「手当て」は、近年の流行なのであろうか。何となく、時代の気配と同期しているように感じる。たしかに彼らが、筋肉の貼り方と神経の流れに気を配りながら「手当て」をしているのは、わかる。心地よさということで言えば、確かに(神経叢が)ほぐれている感触は、ある。だが夕方になれば、元の木阿弥というか、ほぐれたところが再び、しこるように感じられる。

 リハビリってそういうものよと思えば、一進一退で治癒がすすんでいると思えるのだが、リハビリ士の繊細な感触に感心するとともに、私の従来持ってきたトレーニング感覚とのあまりの違いに、当惑している。どこかで見切りをつけるには、まだわが腕はもちあがらない。経験者は、4カ月だとか半年だとか、療養期間を教えてくれる。そこまで私の心持ちが我慢できるかどうか。

 そろそろ毎日通うのを半減しようかと思案している。

2021年5月27日木曜日

「人」に託して「わたし」が立つ

 今の社会は自立した個人を前提にして成り立っている。生活的には自立であるが、同時にそれは個々人が自分のことを自ら決めるという自律を意味している。だが、自分のことを自ら決めるとはどういうことか。そう考えると、個々人の考え方だけでなく、世の中の風潮が指し示す方向を違えてくる。人の欲望は社会的に発生するものだからでもある。加えて、性的な関係がもたらす身の裡からの叫びが社会的な佇まいと切り離せない。

 なにしろ日本は、男社会である。家族制度の影も色濃い。そうした社会で、女が自律をするというのは、「個人」の意味するところを「男」との関係で位置づけないではいられない。じつは社会的背景を取っ払ってしまえば、「男」も「女」との関係で位置づけないではいられないのだが、世の中の潮流はそれを無用とするくらい、男中心にかたちづくられている。つまり「女」が男を軸として自らを位置づける以外に、自律の道筋は得られないのである。「男」は社会的な空気に育まれて、いつしらず自らの自律の根拠を手に入れているのである。

 その自律の苦悩を、「男」や「女」を問わず、戦前と戦後の一億総中流の時代とを行き交いながら探る物語が、桐野夏生『玉蘭』(朝日新聞社、2001年)である。時代を半ば戦前と対照させながら、しかし今の時代の自律の問題に焦点を合わせて、身の裡に語らせる手法は、さすが桐野夏生だと思わせて、圧巻であった。もちろん「自律」という言葉は一言も出て来ない。生きている安定点というかたちで内面に起ち現れている。

 桐野が描き出す自律のかたちは、「わたし」の自律は「人」に託したところに立ち現れるというもの。関係的に人の在り様をとらえようとする桐野の視線が好ましい。「わたし」のレゾンデートルが「他者(ひと)」にあらわれるというのは、共に生きるということそのものであり、そのかたちは人の身そのものの在り様を指し示している。個の自律が「わが身」を「人」に託すことに現れるのは、何とも皮肉であるが、人というのがそのような存在の仕方をクセとして持ってきたことに由来すると考えると、得心が行く。文字通り「人閒」なのであった。

 その屈曲点が、身を棄てる地点に現出するというのも、年を取ってからではあろうが、腑に落ちる。世の中の授けたさまざまな観念を自ら棄て去った地平に、「人」に託したかたちではじめて自律は自らのものとして姿を見せる。「関係」のあわいに「人」が見事に浮かび上がる作品に仕上がっている。

2021年5月26日水曜日

意図的に止めているのかワクチン接種事前予約サイト

 75歳以上のコロナワクチン接種の案内が来た。昨日、5/24から受付とあるが、「初日は混みあいますから、翌日からにしてください」と、わざわざ要請している。そうかと思って、今日まで控えていた。朝5時ころに目が覚めたので、トライしてみた。やっぱり駄目だ。「サイトに接続できません」と表示が出る。それから適宜間合いを置いて、今日一日何回も試してみたが、いずれも駄目である。どうなってるんだ? さいたま市の75歳以上がこんなにたくさんいるのか。

 アクセスサイトのURLが少し違うのに「ログイン」してみたら、そちらは「予約受付ID」と「パスワード」を入力する画面が出て来た。だが、どうもそちらは80歳以上のものだったらしく、私のそれを入力しても、「ちがっています」と表示が出て受け付けてもらえなかった。なるほど厳密にやってるんだと、そのときは感心した。

 コールセンターへの電話の方にも挑戦してみたが、結果は同じ。おかけなおし下さい、ときた。

 そうして一日が過ぎてみると、混みあうというよりも、デジタルの方は、シャットアウトしているんじゃないか。「24時間対応」と書いているだけ。それに応じるだけのお役所の態勢ができていないんじゃないか。そう思うようになった。

 じつは、「案内」が来るまでにこんな話があった。

 私と同じ年の友人に、一日早く「案内」が届いた。彼は(まだ5/24にならないというのに)そこに記されたコールセンターに電話をしたら、受け付けてくれて、連れ合い共々接種日時が決まったという。やはり同じ年の別の友人にも「案内」がきたが、パソコンでアクセスしたら、5/24からと記された通りで、エントリーはできなかったという。

 そうだよ、まだお役所はアナログ同然だから、電話には応じることができたが、デジタルは厳密なんだよと笑って話していた。

 だが、初日ばかりか二日目の今日も同じようにあしらわれてみると、アクセスが混みあうってことじゃないんじゃないか。そう思った。システム自体が機能していないか、遮断しているんじゃないか。大体アクセスが集中してパンクするって、よほど大量のアクセスがなくてはならないはずだ。だが、さいたま市の一つの区に、それ程大量の後期高齢者がいるはずがない。まして昼だけでなく夜も深夜も早朝も「接続できません」なんて、おかしいんじゃないのか。

 もしこれが、さいたま市全体を一カ所で受け付けているために生じている事態だったら、そのシステムの設計が間違っている。そもそもアクセスが集中して受付できないってこと自体が、設計ミスだと考えないのかと、腹が立ってきた。区ごとに分けるとか、かかりつけ医ごとに受け付けるとかして、さほど面倒をかけなくてもできるように受付を設計すべきなのだ。

 そんなことを、総務大臣や厚労大臣や総理大臣らは、考えもしないだろうなあ。バカな国民が一斉に殺到して困ると考えているに違いない。こういうアクセスで四苦八苦している自分がばかばかしくなった。

2021年5月25日火曜日

秩父槍ヶ岳――至福の滑落(5)

★ 山歩きの至福――動物になる山歩き


 今回の山行記録「至福の滑落」を記していて、その場の記憶が鮮明であることに自分でも驚いている。こう記した。


《なぜそれほど克明に記憶しているのか。自分でも不思議である。私の山歩きを続けてきことと切り離せないクセがあると考えている。》


 なぜ、これまでの山歩きを続けてきたことと関係あるのか。

 山を歩いて何が変わった? と問われたことがあった。

 雨が平気になったことかな、と応えた。

 違う山を歩いて、毎回変わった景色を眺めるってことが面白い? と訊かれたこともある。

 う~ん、そりゃあそうだけど、同じ山でも面白いよ、と返した。

 返しておいて、どうして山へ行くことが面白いんだろうと、自問自答することが多くなった。


 □ ハイになる


 あるとき、こんなことがあった。

 妙義山へ友人と二人で行ったときのこと。友人は私より5歳ほど若い。一部ザイルで安全確保しながら、妙義神社から白雲山を経て、中間道を戻ってくる日帰りのコース。快適に登り、中間道へ下りたつ手前で、その友人が「一休みしませんか」と声を掛けた。

 そうだね、休みましょうと時計を見て驚いた。2時間も経っている。友人は、ずいぶんへばっているようであった。その間、ザイルも使ったりはしたから、友人の顔も見たり、言葉も交わしたはずなのだが、彼がそれほどにへばっているということに、まったく気付かなかった。

 友人に「(歩くの)速いですよ」と指摘され、ほとんど単独行のように歩いていたと思った。ハイになっていた、とあとで振り返った。

 そうして、それが山歩きの魅力なんだと思うようになった。

 どういうことか。

 山を歩いていると、岩場でなくても、足元に気をつけないではいられない。ザイルを必要とする岩場ともなると、足をどう置いて、手がかりは何処をつかむと一挙手一投足の運びに気持ちを集中して、身を持ち上げ、あるいは下ろしていく。そのとき、場はきっちりとみているが、何も考えていない。一つひとつを覚えているということもない。次から次へと場は移り変わるから、みているものは何も痕跡を残さない、次にかぶさってくることへと気持ちは移っていく。

 そのときの、心持ちの澄明さは(振り返ってしか感じられないが)、身が清浄になっていくような感触をともなっていた。

 ああ、これがいいんだ、と思うようになった。

 それって、瞑想だよ、と友人の一人が話したことで、以来私は、瞑想と呼んでいる。

 これが私のクセなのか、それともこうした運動をする人の常なのかは一概に言えない。が、ランニングハイとか、クライミングハイという言葉があるところをみると、一般的なコトのように思う。


 □ 山行記録


 もうひとつ、関係することがある。山行記録だ。

 65歳の高齢者になってからは、毎回の山行記録をとるようにしてきた。私自身の衰えを(あとで)チェックしようと考えた。そのうち、歩いたルートの記録から、印象記のようになり、山の会を主宰するようになって、集団で歩くことの変化も感じ取るようになっていった。

 全て私のみた人たちであり光景である。それが、私の山なのだ、と。

 地図やガイドブックにあるコースタイムは、計画時に参照している。おおむねこれで歩くことができれば、全行程がどうなる、疲れ具合はどうなろうかと思いを巡らしてプランニングする。長時間の行程の場合は、エスケープルートもチェックしておいた。

  おおむね山の会の皆さんは丈夫であった。ときにコースタイムをオーバーすることもあった。あとでみてみると、私の参照しているデータが、古いガイドブックであったり地図であったりしたからと分かった。新版では、コースタイムが緩やかに取られている。

 そのうち記録に、デジカメが加わった。これは通過時刻も記録してくれる。もちろん見た案内板や標識、花やルートの光景や景観も記録してくれるから、メモが要らなくなった。

 それが歩くときの心持ちを変えたような気がする。メモを取るというのは、自分を外からみることでもある。それをやっていると、わりと冷めて歩くことになる、没入しない。我を忘れるようにはならない。だがカメラがそれをやっていて、私は私自身の歩きに集中することができるとなると、ついつい時間を気にせず、下山口までの行程さえも気にせず、歩きを堪能することになる。

 これは、上記した瞑想と相まって、ハイになるクセを容易に誘発する。

 今回の「至福の滑落」も、こうした条件が整っていた上に、ザイルを使って下るという遊びを入れたこと、しかもルートファインディングの途中で、スリリングなところを降り、這い上って、すっかり身も心も出来上がっていたのであった。


 □ 動物になった


 瞑想と呼ぶと、なんだかちょと仙人のような心持ちが加わる。むしろ私は、動物になったと思っている。

 自然と一体になるというのは、こういうことなんだと、今でも振り返って「至福」を思い出す。

 多幸感という言葉があるが、それとは少し違う。幸せというと、良いとか悪いとかの価値評価が入ってくる。そうじゃない。良いか悪いかはわからないが、あの風景に溶け込んで、文字通りちっぽけな動物として、沢へ下りて行った。

 動物は、記憶が抜群にいいと動物行動学は述べている。どこの木にどんな実があるか、どんな獲物が毒を持っていて食べない方がよいとかいうことを、忘れもせず、きっちりと身につけている。その動物の身につけていることには「記憶」とは違う言葉が必要である。身に沁みついたイメージが、必要な時に必要なところでぽかりと浮かび上がってくるように、身に刻まれている。今回の私に起こった記憶も、それに近かったように感じている。

 大袈裟な言い方になるが、山歩きにともなう私の瞑想と記録のクセが、そうした動物的イメージの焼き付けを、脳裏にしていたように思うのである。

 有頂天になった。天にも昇る気持ちになって、天に昇り損ねた、とも。

 通常の遭難のイメージと違って、至福の世界であったことは、間違いない。(遭難ご報告、終わり)

2021年5月23日日曜日

秩父槍ヶ岳――至福の滑落(4)

(4)滑落の場面   サイトーさん筆


       ※ 以下の文章は、同行者・サイトーさんが、私の「山行記録」に目を通したのち、滑落以降の場面を綴ってくれたものです。私の記憶とは、やはり、ずいぶん違いがあります。(フジタ)


 川床で足を取られた後、頭を左に、まるで丸太がごろごろと転がるような格好で枯葉の積もった斜面を沢床まで落ちて行きました。声を掛けても全く返答はありません。動かないフジタさんの所まで何とか行こうとザイルを使って、別のルートで降り始め、2本目のザイルの場所を見つけたときに、ようやくフジタさんの声が聞こえました。

 倒れたままですが、確かに返事はあります。聞き取れず、とにかく「そこまで行きます。待っててください」と叫んで降りてみると、フジタさんは登り始めていました。本能的に私の方に来ようとしたのだと思います。

 合流して、フジタさんは少し記憶が飛んでいて「沢を降りているのか。どこに行こうとしているのか」などと口にしました。それでも手足の怪我については大丈夫とのことで、落ちた沢床までまた戻り、谷を下ることになりました。

 ザイルは落ちたときに手から離れていて、それを使って私が降りることができ、途中までは私が持っていました。そのうち私が先を歩くようになり、仕方ないときは沢の水の中を下ったりもしました。

 スマホの地図をみると、この谷の下には中津川にかかる橋があり、渡れば車道に出られるようになっています。「バス停に自転車を置くときに秩父槍ヶ岳に上り、ここへ降りてきますと地元の女性に話したので、5時くらいに降りないと心配して騒ぎだされますね」などとフジタさんに言いました。

 その辺りからの距離からみても大丈夫と思えたのですが、6時近くになり、沢の末端近くまでくると木々の間に車道が見えてホッとしたのもつかの間、滝にぶつかり降りることができなくなってしまいました。

 左の斜面にルートを見つけてフジタさんが先に上がり、垂直に近い崖に私が四苦八苦しているのを見て、ザイルで確保すると言いましたが、どうもおかしい感じで、動く気配がありません。

「ザイルいりません。左の方から回り込んで上がるので待っていてください」と声をかけて、フジタさんの居場所の左上にとりつき、なんとか歩きやすそうなルートを見つけて、降りなければの一心で、岩場の少し平らな場所にたどり着きました。

 ここでフジタさんを待ち、ザイルをつかえば下降できそうに思えたのですが、この1時間くらいの間に暗くなり、ザイルも置いてきてしまったとのことで、はじめてフジタさんが救助を頼もうと口にされました。7時近くになっていました。

 警察にかけ、状況を伝え、「下まで降りて来たけど、もうちょっとのところで暗くなり、降りられなくなりました」と話しました。何回も電話でやりとりをして、消防署にも掛け直し、スピーカーにしてフジタさんにも聞こえるようにして、会話に入ってもらったりしました。

 私も充電池を持っていたので、スマホには繋げたままで切らないでくれと言われ、そのまましばらく相手が代わりながら、対応してもらいました。

 すぐ下に道路もあるし、橋もかかっている。本当に近くまで降りてきているので、こちらとしてもそんなに見つけづらい所にいるのではないと、変な安心感がありました(つくづく甘かったと後で思い知らされました)。

 通報がひと段落して、フジタさんは少し体を休めているようでした。足も伸ばしていました。その前に上下を着こんでいたので、ずり落ちないように声を掛けました。すっかり暗くなってしまいました。

 このあたりで、敏恵さんや主人に連絡を入れて、8時を過ぎていたでしょうか。

 ようやく救助隊が到着し、私たちの場所を確認してくれて、それでも暗闇の中、右の斜面にアタックしてダメで行ったりきたりしていました。が、左の斜面から別の隊員の方たちが私たちの所までたどり着いてくれました。

 ザイルで戻る道の確保や、体調を確認したり、話しをいろいろと訊かれたり、処置してくれました。

 長い時間がかかり、下の車についたのは12時くらいになっていました。リュックを隊員の方が受け取ってくれていたので、中に入れたスマホを取り出すことができず、藤田さんの奥様にも私の主人にも連絡できず、降りたところが圏外だったり、トンネルに入ったりして、気をもませてしまいました。

2021年5月22日土曜日

秩父槍ヶ岳――至福の滑落(3)

4,動けなくなる


 ザイルを首に巻いて、沢を下っていった。沢の下方を、サイトーさんが下って行くのを追っているが、速さが極端に落ちていることにも気づいていない。沢の末端まで(30分ほどで行けるところを)1時間以上もかかっていたろうか。5時に近かった(と思う)。途中、一度転び、沢水に靴をつけてしまった。

 沢の末端に到着した。下方に、下山口の川原が見える。直線距離にして200mほどか。でも、沢の末端は、滝になっている。ザイルをザックにしまい、左の稜線に上り、その向こうへ下ろうと急斜面の草付きを上り、トラバースした。

 そのとき、おっ、と思った。バランスが悪い。一度は、滑り落ちそうになり、おいおい、こんなところで滑ったら、滝の方まで落ちてしまうぞと思っていた。稜線に上り、後続するサイトーさんがトラバースするのをザイルで確保しようと取り出したが、ザイルを解くことが出来ない。手指が利かない。

 気付くと、サイトーさんはすでに私の上部を上っていた。そして、

「そちら、危ないから、こちらに来てくださあい」

 と声を掛けてくれている。もう一度ザイルをザックにしまおうとしたら、ザイルがどこへ行ったかわからない。視力も落ちていたのかもしれない。つかんでいたストックもどこかで失くしてしまった。

 バランスが悪く体がふらつく。上へ登ろうとライトを出して点灯したのに、手からこぼれ落ちて、急傾斜の草付きを落ちて行った。

 登ろうとして、力が入らないことにも気づいた。

「もっと上へ来なさい」

 と声をサイトーさんに掛けられ、這う這うの体でそこまで上った。

「もっと、上、うしろ」

 と細かく指示してくれたのが、鮮明に記憶に残っている。

 寒くなるぞと思ったので、ウィンドブレーカをつけ、ザックから雨具を出して重ねて着た。

「救助要請をしてください」

 と、サイトーさんにお願いした。


5,救助される


 時間の記憶ははほとんどない。

 サイトーさんが警察とやり取りしている声が聞こえる。時々地点の目安に口を挟んだ覚えがあるから、意識はしっかりしていた。警察が、GPSをみて緯度経度を言えと催促している声が聞こえる。ymapなら分かると思って、スマホを取り出したが、操作がまったくできない。

 沢の対岸の、同じ標高くらいの道路に車の灯りがいくつも見えた。赤色灯もあったから、警察車両だ。サイトーさんもランプをつけて位置を知らせる。警察は、スマホをきらずにしてというが、電池がなくなると困るなあとサイトーさんが呟いている。私のスマホもあるしザックに充電池もあると思ったが、口にすることが出来ない。

 カメラを入れたサイドバッグに山梨県警からもらったペン型の笛付き電池があったことを思い出した。取り出してサイトーさんに渡す。それを振っていると、「位置を確認した」と警察無線が叫んでいるのが、サイトーさんのスマホから聞こえる。沢の対岸からのアプローチは難しかったようだ。

 下山地の川原の方から来た警察の救助隊が、私たちのところにやって来た。

 私たちの様子を聞く。

「歩けるか」

「はい」。

 サイトーさんとのやりとりがキリキリと聞こえる。私には、体調とか年齢とか(何を聞かれたか忘れてしまったが)声を掛けてきて、もちろん返答をしている。私の気配をみているようであった。

 救急車の音も聞こえてきた。警察と消防の山岳救助隊と位置確認、何処で合流するかなどのやりとりが、私を運び出す手順を打ち合わせている。

 まず稜線の上へ移動して、消防隊と合流することにしたようだ。

 歩けないとみた私を背負って登りはじめた。

 背負うとき、ザックも肩から降ろしたサイドバッグも救助隊が持ってくれた。

「なんだエイト環ももってるじゃないか」という声が聞こえた。後でみるとサイドバッグがない。黒っぽいものだったから、ザイルワークややりとりに紛れて現場に忘れてきたのだろうと思っていた。

 だが10日も経って、それを思い出し、病院から荷を持ち帰ったカミサンに聞くと、サイドバッグありますよ、カメラも、と返信があった。良かった。これで、家に帰れば通過時刻がある程度わかる(と思っていたが、先述の通り、シャッターも押さないほど夢中になっていた)。

 最初のワンピッチ、亀が背中に親亀を乗せたように這いながら急斜面。ひとピッチで交代、少し緩やかになった斜面を、木を除け、岩を回り込んで上っていく。

 合流地点で消防とも交代した。その後また、警察の救助隊員に代わるというふうに、上手に連携していたようだ。何ピッチかで緩やかなトラバースに入り、だが滑り落ちそうで、他の隊員が下で私の尻を支え、サポートに入っていた。背負っている方の確保もあって、移動しながら次へとプルージックを架け替える隊員もいた。

 最後のところは、ザイルを持たずに、背負って降りて行った。川床に降り立ち、川原を歩き、流れを徒渉して救急車のところに着いたのであった。

 救急車のところで収容され、。同行者も同乗して病院へ向かった。


6,救急車の中でのこと。

 

 救急車の中で「どうしてこうなった」と問われた。

 私は下山ルートを説明しようとしたことを憶えている。

「そうじゃない。どうして?」とくり返されて、ああ見当違いのことを応えているんだと思っただけ。そのときは、滑落したことをほぼ忘れていたと、あとで思った。ぼーっとしていたんだね。

 1時間半かかると聞いていた病院へ少し早く着いたと言っていたが、すでに日付が変わっていたのではないか。

 怪我と打撲の手当てをし、レントゲン、MRI、CTをとり、私はすっかり身を任せていた。痛みも苦しさも、ない。それほどのけがをしていたとは、あとで聞くまで思いもしなかった。

 午前4時ころに処置が終わったように思う。病室へ行くことになり、サイトーさんは親鼻の駅で始発を待つと言って、病院を出て行った。


7,その後のこと


 サイトーさんがいてくれなかったら、たぶん私は、救助してもらうことが出来なかったと、いまも思っている。しかもサイトーさんは、家のカミサンさんにも連絡を取って、事態を話し、事後の長い入院の端緒を拓いてくれ、ずいぶん助かった。

 また、後日だが、山中に放置しておいた私の車と自転車を回収するのに、ミチコさん、リョウイチさんが動いてくれた。いま車は、病院の駐車場で私の回復を待っている。

 これからのことは、まだわからない。でも、この至福の滑落で、私の山歩きは、フィナーレを迎えたことは間違いない、と感じている。

 まさに、天にも昇る気持ちであったのに、昇り損ねた、というところか。

 いや、変な言い方ですが、ハッピーエンドだったとさえ思っているのです。

2021年5月21日金曜日

秩父槍ヶ岳――至福の滑落(2)

 2,下山路の探索


 お昼を済ませ、下山にかかる。標識の落ちた分岐点に行き、赤テープの方へ下る。だが、少し進むと行けそうなところは見当たらない。どうしたんだろう。上へ戻ると、北の方へ山体をトラバースするように踏み跡が続いている。そうか、こちらか(でもガイドブックの記述とちがうなあ)と、それを辿る。下山地点への地図の沢とは離れている。それも行き止まり、結局振出しに戻って1440m地点に近い少し広い稜線から降りることにする。

 降りているうちに、急斜面となり、木にザイルを回して、手でつかんで下る。サイトーさんもついてくる。だがそこも、滝になり、回り込む。危なっかしい斜面を、木をつかんで上がる。倒木をまたぎ、上へ上へとのぼり、沢の上部の北寄りに立った。GPSを見る限り、これが中津川の下山地点へまっすぐ向かう沢だ。

 あとでカメラの記録時間をみてみると、最後のシャッターを押したのは14時55分。この沢とは違う地点を下っているときであった。だからこのときすでに、時刻は15時を廻っていたはず。下山の予定時刻は13時半ころ。それをはるかに超えているのに、私はほとんど時間を意識していない。さらにこのあたり以降の写真も撮っていない。もうすっかり私は、歩くことに夢中になっていたのだと思う。

 実はその少し前、私の脳裏を、もう少し山体の上へあがって、西側の稜線を回り込もうかという思いがよぎったことは覚えている。沢を下るよりも、稜線を下った方が安全である。でも、そうしなかった。

 それが、今回の「至福の滑落」につながった。


3,滑落


 沢はスプーンカット状の岩が連なって、広く明るい。水は見えない。まっすぐ下へとのびている沢の姿は、誘いこまれるほどの美しさを感じさせた。ザイルを使い、木を伝い、下って行く。

 沢床に下るには、後一本、木をつかって下るだけになった。もちろん、木を使わないで、大きく左へ回り込めば降りることもできる。

 だが、おい降りてくれよ、まるで私に呼びかけているように、太い木が水平に近い角度で張り出している。すぐ下は傾斜60度が5メートルくらい、上からみると垂直である。その下が30度ほどになり緩やかに下へと続いている。あとで思うと、そのとき私は、同行者サイトーさんのことを、ほぼ忘失していた。

 降りた。30度の川床に足がつき、重心を移し、斜面に向いていた体を左へ回したとき、落ち葉に取られた足が滑った。急いで私は、もっと左へ体を回し、私の左体側を沢床につけて滑り落ちていった。5メートルくらい滑ったと思っている。右手はザイルの一端を握っていた(と思っていた)。

 なぜそれほど克明に記憶しているのか。自分でも不思議で、あとで考えた私の山歩きを続けてきことと切り離せないクセがあると考えている。そのことは、また後に記しましょう。

 病院で手当てをしてもらいながら、傷の個所、傷の数、打撲の個所などを照らし合わせてみると、私の記憶がほぼ間違いないものと思れた。

 ただ、滑落した一瞬、正気が飛んだのかもしれない。

「だいじょうぶですかあ」

 とサイトーさんの声が、かなり左の上部から聞こえた。えっ、オレ何してんだ、ここでと、思った記憶があるからだ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 と言いながら、ザイルを巻いたとき、右手に血がついているのに気づいた。でも掌を見ても、何処も傷は負っていない。頭の出血だったろうと思うが、それにも気が回っていなかったのである。

 この辺りのことは、サイトーさんから聞いて確かめないとわからない。

2021年5月20日木曜日

秩父槍ヶ岳 ―― 至福の滑落

 こうして退院してリハビリに励む日々を過ごしています。さて、遭難の模様をしるした「山行記録」をご紹介します。


1,秩父槍ヶ岳


 4月12日、好天の月曜日、長野県との県境近くに位置する秩父中津川の秩父槍ヶ岳に行った。朝8時過ぎ、三峰口駅で同行者・サイトーさんと合流。昔の大滝村から長野県の川上村へ抜ける県境近くの登山口へ向かった。

 途中、中双里の橋の上から上流を眺めると、ちょうど秩父槍ヶ岳が凸凹の相貌を現す。面白そうな姿は、穂をかぶせた槍を思わせる。なぜか、登山口の相生橋バス停を通り過ぎてしまい、下山口の中津川の農林センターバス停に行ってしまった。ここへ自転車を置き、登山口へ戻って登り始めた。9時10分頃でした。

 このルート、登山口から秩父槍ヶ岳と呼ばれる山頂部の稜線の肩、標高1448mまで登りづめである。そこから北へ向きを変え、秩父槍ヶ岳の主峰に向かう。

 はじめから急な傾斜が続く。うっかりすると左側の谷へずり落ちてしまいそうな苔むした道をずいずいと登る。日が当たる新緑は落ち葉に映えてさわやかに美しい。先頭を歩くサイトーさんは歩度を整え、着実なペース。私より一回り以上若い。強いなあと思う。中間点もコースタイムより少し早い。

 サイトーさんは植物に関心が深い。ハシリドコロが花をつけているのを見つける。エイザンスミレやヒナスミレが楚々と咲いている。ネコメソウの仲間が初々しい。シャクナゲがつぼみを膨らませている。ミツバツツジが樹間に彩を添えている。

 稜線の肩1445mポイントに着いたのは、11時4分頃。コースタイム2時間10分のところ。南に、名無しの1461mピークが地図にあるから行こうと思っていたが、張り綱をして「通行禁止」の表示を掲げている。ま、いかなくていいだろう。北端の山頂へ踏み出す。岩を避け、東に西に回り込んだりして、踏み跡はしっかりしている。岩を乗り越えるのも、難しい所はない。

 行きながら、実は下山路を探していた。

 この山のことを目にしたのは『埼玉県の山』(山と渓谷社、1993年)。下山のルートについて、このように記していた。


《下りはTVアンテナの処から北へ下る踏跡に入る。しばらくはテレビケーブルと平行して尾根に沿って下る。やがて沢の源頭の、岩のガラガラした下りとなり、電光型に下る。沢が狭まり左からの沢が合流した地点で小沢を対岸に渡る。》


 スマホのGPSの地図上で、位置はわかる。ガイドブックに書いてあったのは、たぶんこの辺りと思う地点に、しかし、明快なルートはない。テレビケーブルらしきものも見当たらない。

 先へ進んでいると、「中津川・槍ヶ岳→」と標識が現れ、そこから稜線山頂部を巻いて、左へ下るルートがあった。踏み跡もしっかりとあるようだ。

 ああ、これだ、これだ。その途中で、標識は崩れ落ちているが、むかし分岐点に標識を取り付けてあったと思われる杭がぽつんと立っている。下の方に、赤いテープも見える。それを確認して、槍ヶ岳の山頂方面へとすすんだ。

 山頂到着11時58分。木に囲まれ、眺望はない。歩いてきた西の方を見ると、突出したピークが並んで見える。

2021年5月19日水曜日

ご報告(第19回) 退院と体力の回復

 連休中の5月1日、退院した。自分では車の運転もできるつもりになっていたが、誰か運転してくれる人がいないなら「退院は認められない」と看護師に言われ、山友のご夫婦に手間をかけてもらい、私の車も一緒に運んでもらった。

 諸手続き。会計と薬の処方。そして、わが家のご近所のリハビリ診療所への「紹介状」を受け取って、担当看護師に見送られて退院してきた。

 車の中で、運転してくれる山友のリョウイチさんに「遭難」の様子を話す。なにより、「失敗したという敗北感がまったくない」ことを新発見のように感じている。聞いているリョウイチさんは、むしろ医師のいう「頸椎変形による頚髄神経圧迫が事故の原因」というのに関心を向け、一緒に歩いていて、あんなことがあった、こんなことも気になったと思い出しては、「予兆」だったかと話をする。そうか、そういうふうに、もう一度「山行記録」を読み直してみる必要があるかも、と思う。

 1時間半ほどでわが家に帰り着くのだが、たしかに自分で運転するには、体力が足りないと感じた。草臥れて、へたってしまっていた。やはり18日間の入院というのは、いくら部屋の中を歩き回っていたとはいえ、基礎体力を失っている期間でもあった。

 風呂に入る前に計った体重は、57㌔。4㌔も落ちている。タニタの体重計は「やせ」と告げ、「細身、筋肉質」と体型を判定する。体重計の判定に反し、すぐに横になりたくなるほど、力がなくなっている。

 連休が明けて、すぐに紹介された整形外科クリニックに足を運んだ。評判の診療所らしく、混んでいる。医師は「リハビリが混むから、回数を多くしたいなら別のクリニックを紹介する」と、厄介払いするようなことを口にする。そちらが近ければ、それに乗ったかもしれないが、あいにく、さらに3,4㌔、先にある。ま、車に乗れるようになったら検討しようと、通うことにした。

 ところが、リハビリ担当のお兄さんは「毎日でもいいですよ」と通院を歓迎してくれた。一回のリハビリ時間は、約30分。肩を温める10分、リハビリ士の手当てが15分位か。でもそれを受けるだけで、身が柔らかくなり、肩から力が抜ける。夜も、つづけて熟睡する時間が長くなった。

 なにより、食べる量が多くなった。病院食に感じた断捨離の素晴らしさを忘れ、元の食生活に戻ってしまった。体重も一週に1㌔というペースで回復してきている。それでも「やせ」判定が続いているから、ま、こんなことで構わないだろう。

 まずは、片道5㌔の通院が苦しくなくできるようになるまでは、体力の回復と考えて食べなくてはなるまいと、夏場所をみながら力士のように思っている。

2021年5月18日火曜日

ご報告(18回) 「退院」の具体化

  神経からくる指の傷みは範囲が狭まり、右手の何本かの指と指先、指の関節に集まってくるようだ。もちろんやわらいでいる。左手は指先と(たぶん)手の甲の打撲の腫れが一部に残るだけになった。水を掛けると、しかしまだ、指先は右も左もぴりぴりと痛みが走る。

 首筋から右肩と肩甲骨のあいだを流れて右の肩口に走る神経叢の傷みが、いまだに強い。右腕が上がらない。肘をまげて前後に振るのはできるのに、上へ持ち上げようとすると鳩尾の辺りまでしか上がらない。それでも、はじめは臍でとどまっていたから、良くなってはいるのだ。筋力がなくなっていると、リハビリ士は言う。しかし、打撲で筋肉がなくなるというのは、どういうことだろうと、未だに疑問符が付いたままだ。

 リハビリが効いている実感は、たしかにある。昼間はそれほどでもない肩の痛みが、夕方から強くなり、寝ているとずきずきと響くようであった。それが和らいできた。夜中に何度も目を覚まし、寝たのか寝ないのか良く分からない感覚が朝まで続いていたのが、4セット7時間とか、3セット6時間というふうに、熟睡している時間がまとまるようになった。朝起きたとき、ああよく寝たと思う実感も甦ってきた。

 リハビリ士による「手当」に「自分でやるトレーニング」が加わってきたころ、医師が手術の合間をぬって部屋へやって来て、退院後に通院できる整形外科の診療所の話を持ち出した。私の住所の近くに知ったところがないが、12キロくらい離れたところにならある、どうしますかねといって、話しは途絶えていた。

 そこへ大型連休が近づいてきた。非常勤の専門医が、次回は2週間も先の来院となる。

 えっ、それまで私は、この暮らしを続けるの? と声を上げた。

 リハビリ士は、パソコンを叩いて、医師が紹介しようと考えているクリニックが2カ所あることを知り、リハビリテーション科をやっているか、どちらが近いかをスマホで調べてくれた。5キロほどのところが候補の一つにあった。

 ああ、そこなら歩いてでも通えますね。2週間先までここにいるより、家で「自主トレ」の方がいいというと、じゃあ退院できるかどうか相談してみますと、一挙に話が運んだ。

 翌日には、看護師が、退院する意思の確認にきて、その条件と日取りの話にまですすんだ。私が、その条件が整う日取りを伝えると、常勤の担当医師の確認が取れれば退院という運びになった。

 二つのことで、私が見当違いをしていたことに気づいた。

 ひとつは、非常勤の専門医が紹介先を具体的に記していたこと。しかもそれに、作業療法士もアクセスできて、患者に伝えることまでできる態勢であること。

 もう一つは、作業療法士という職名のリハビリ士が、退院という話を発議して具体化することにつながる体制があること。

 大きな時代の変化があるんだ。私の見当違いのもととなった医療イメージは、「白い巨塔」時代の医療の態勢であった。それは、すっかり変わっている。これらは新発見であった。

2021年5月17日月曜日

ご報告(第17回)身の裡に弾けるバチバチウィルス

 カミサンから「本はいらないか?」と言ってきた。入院生活が長引いて、退屈していると思っているのであろう。

 それが、いらない。TVもみない。新聞も読もうと思わない。

 もちろん悪い気分ではない。TVも新聞も煩わしいと感じている。あんなに没入するように読んでいた本も、いや、いまはいいよって感じ。

 自分の頭の中に弾けるように浮かんでくる「思い」がとても刺激的だ。どうしてだ、これは。

 何もかもが、これまでの「わたし」を見返してごらんと言っているようだ。反省せよとか、悔い改めよというのではない。「わたし」に蓄積してきた人類史的なコトゴトを見つめるだけで、ヘンだし、面白い。ホモ・サピエンスが辿って来た足跡が、深層の方からふつふつと浮かび上がってくる。そんな感触が湧き起っている。

 滑落の時に頭を打って、おかしくなったのか?

 自己省察が内発している。これまで、本や新聞記事やTV番組の出演者の言葉を聞いて感じた違和感を手掛かりに、自分を観ることが多かった。だが今回は、自分の身が置かれた状況自体が「違和感」をもたらしている。

 食べ物、身の世話、病室という身の動きの制約も、それ自体が直に身に及ぶ「違和感」である。新聞やTVを見て感じる違和感は、聞き流せば身にとどまらない。だが今回の「違和感」は直接身に及ぶ。それに反発する感情が湧き起れば、新聞やTVからくる違和感と同列になるのであろう。

 だが世話をしてもらうほかないわが身の現在は、わが身も受け容れている。だから内発的自己省察へと向かうほかない。それがバチバチウィルスの弾ける正体ってことか。

 それに、状況は、生きることに関する基本的なコトに絞られている。余計なことが削ぎ落とされているから、それだけ自己省察へのモメントが強くなっているのかもしれない。

  せっかちな私の気性、大雑把な私の感性、モノゴトに丁寧に向き合っていない私の視線。一言でいうなら、ちゃらんぽらん。この歳になって、いまさらと思うが、病室での体験が一つひとつ突き刺さる。

 どうしよう。

2021年5月16日日曜日

ご報告(第16回) 脳裏に焼きついた記憶

 秩父槍ヶ岳の「山行記録」を書いている。山頂まで、下山路の探索、滑落、救助要請、救助、入院と辿る。自分の記憶が鮮明なのに驚く。記憶というよりは、現場の様子が脳裏に焼き付いているイメージだ。

 これって、ひょっとしたら動物と同じになったんじゃないか。

 そう思ったとたん、うれしくなった。

 自然と一体になる。溶け込む。ヒトというより動物として存在することができるなんて。

 動物行動学では、彼らの記憶のいいことが証明されている。どの木に実がなるとか、何が毒を持った生き物とか。ただ、ヒトと違い、一般化することはできないから、そのものが焼き付いているのだろう。記憶というのとはちょっと違う。

 では、どうして私にもそれが起こっているのか。だって私も動物なんだものと、もう一人の私が応えている。

 進化というのは、古いものを棄てて別のものに変わるわけではない。古いものの上に、新しいものがかぶさり、古いものは深層に沈む。

 山を歩くということを通じて、ハイになって行くというのは、何も考えない、瞑想状態に近いと、体験的に私は考えている。そういうとき、ひょいと深層が現れるのではないか。あるいは、修行僧の瞑想というのは、そういう状態をつくりだす作法を身につけているということではないだろうか。

 山を歩くとき、踏み跡を見つけるルートファインディングの技術といわれるものも、勘を養うに等しい微妙なものを持っている。落ち葉や沢床の踏み跡をたどるとき、どこがどうということは説明しがたいが、そこがよく踏まれた後だと、なぜかわかる。そういう勘も、深層に隠れていたものが現れていると思う。

 そんなことを考えて、書き留めるのは、なかなか楽しい。

2021年5月15日土曜日

ご報告(第15回)知らない世界のシステム

 夕方になると、肩甲骨から肩口に掛けて張っている感じが強まる。朝の回診に来た医師は湿布薬を出してくれた。基本的にはリハビリを通して神経叢の回路を回復するのであろうが、応急の対応として仕方がないとみたのであろう。朝から貼っている。その効果が問われるのは夕方からだ。

 洗濯をした。洗濯機に放り込み、乾燥機に移し替えて乾かす。洗濯機はそうでもないが、乾燥機はずいぶん時間がかかる。これだけの量を乾かすのにこんなに時間を掛けていいのか。エネルギーの無駄ではないのかと思った。

 今日は、整形外科医の診察の日。見通しが立つと思ったのに、まだお呼びじゃない。手術の執刀中だと看護士が連絡してきた。非常勤の専門医だから致し方ないが、ここまで回復中の私などは、たしかに優先順位が下がる。でも、ではまた来週~、なんてなったら、まるでTV番組だね。

 リハビリ・スタッフの制服を着た方が、食器の片付けなどを手伝っている。ああ、こういう融通無碍の雰囲気があるんだ、ここは、と思った。だが、リハビリの時に理学療法士に聞くと、あれは、言語感覚士だという。嚥下のリハビリなどをやっているから、食事には立ち会って、片付けを手伝うってことは、よくあるそうだ。なんだ、そうか。そういう呼称も、仕事の中身も、知らないことが多いなあ。

 またリハビリの時、今年就職した若い人が、理学療法士につき従ってやってくる。私のリハビリなども、傍らでみている。研修期間なのか、実習生なのか。訊ねると、免許がおりるまで一月ほど時間がかかるのだそうだ。保健所の所管だという。

 でもねえ、試験に合格して、免許をもらうばかりになっているのに、「免状」が届かなくて、それを待たせるなんて、いつの時代の話だよと思う。

 お役所仕事。多分加えて、コロナウィルスのせいで、保健所はてんてこ舞い。「免状」はお上から下げ渡すものってか? 日本のお役所は、まだまだ旧態依然だね。

2021年5月14日金曜日

ご報告(第14回) 回復の兆し

 それまでも2日に一回は清拭があり、温かいウェットおしぼりで体を拭いてくれた。左手の届く所は、もちろん自分で拭く。

 入院して2週間目に、風呂が許可になった。

 30代の女性二人と60代の、部屋に出入りしていたオバサンがスタッフ。洗い場の一つはすでに痩せこけたお年寄りが上がる態勢に入っている。動かない手を補助してはくれたが、衣服を脱ぐ。スタッフはテキパキと手早く衣類を棚に置き、別のスタッフは「右手が動かなかったんでしたっけ」と言いながら、座った私にシャワーの湯加減を聞き、「頭と背中を洗います。前は自分で洗える?」といいつつすでに、湯をかけている。

 手順の決まった機能的な動きが、羞恥心とか性差に関する余計な感情を簡単に洗い流す。そうか、私もお年寄りの患者なのだ。

 頭の傷、躰の痣やかさぶたなどの痛みを確認しながら、シャンプーを泡立て頭を洗い、泡立つタオルを手渡して、自分で洗えるところは自分で洗う。左腕はさかさかとやってくれた。

「湯船につかりますか?」

 と訊ねられ、はい、出来れば、と応えていたから、湯をいっぱいに張った少し小さめの湯船に入る。座るとちょうど首のところまで浸かる。40度かな。こんなにゆっくり浸かっていていいんですか? と聞こうかと思うほど、つかる。その間スタッフは洗い場の片付けに入り、それも終わって姿を消し、私は私でぼーっとして、湯を堪能していた。

 風呂場に入ってからすぐに、おばさんが

「秩父の人じゃないんね」

「えっ、何処の山?」

「そうかい、骨折らなくて良かったいね」

 と声をかける。若いスタッフも

「そう言えばこの前、フタゴヤマで滑って骨を折ったひといたでしょう」

 と言葉を挟む。ここなら横瀬の二子山かな、それとも吉田町の双子山かなと、私と言葉のキャッチボールをしているうちに、作業は終わった。

 気持ちがいい。やっと人心地ついた。部屋に戻り、歩いてみると、歩き方にもテンポが感じられる。夕方、冷え込みを感じ、セーターを着こんだ。こういう寒暖を覚えるというのも、ひょっとすると回復している証なのかもしれない。

2021年5月13日木曜日

ご報告(第13回) 集中が招き寄せる危険

 肩が張って寝られないという私の訴えに関して、理学療法士の一言が、効果を発揮した。

「パソコンやスマホをつかっていると首や肩が凝るってことありますよ」

 それで、その日の午後はパソコンをやめた。

 その夜は、断続的であったが、合計すると7時間半くらい眠った。眠ったという実感が、起きたときにあった。頸椎に起因する神経叢の傷みというよりは、パソコンに取付きすぎ。バカだなあ。そんなに凝るなよと、もう一人の自分が嗤う。

 そう言えば、思い当たることがある。何かをしていると、ほかのことを忘れてしまうクセがある。車の運転の時も、助手席の友人と話しをしていて、高速の出口を通り過ぎたことが2度ほどあった。

 集中力があるというのは褒めことばだが、果たしてそうか。

 ヒトの初め頃のことをイメージしてみると、集中するというのは、危険なことだったはずだ。小動物たちが餌を食べているとき、きょろきょろと辺りを見回している。集団で暮らし、身の安全が確保できるようになって、きょろきょろがなくなり、ものごとの実務的な遂行が大切になって、集中力が評価を受けるようになった、と思える。まして、他のことを忘れるような集中の仕方は、周りが目に入らない自己中になってしまう。

 集中力は、ヒトのクセの基本ではない。そう思った。

 年を取って、根を詰めて何かに集中するという時の過ごし方は、似つかわしくないぞと諭されたようだ。腱板断裂かというMRIの結果はまだ出ていないが、自覚症状としては、すでにクリアしたかなと思うほど、痛みは改善した。

 リハビリの効果は、自覚症状としては一時の恢復感覚をもたらしている。体が軽くなる。部屋をうろうろと歩いていたころと比べ、さかさかと足が運べている。だが一進一退。鉄道のスウィッチバックと同じだ。前へ進行していることはわかるが、遅々として、効果はわずかである。

 ひとつの病名について、リハビリの持続期間は(たぶん法的な枠組みとして)180日と決められているそうだ。その間、ここに通うことはできないし、ずうっと入院していることもできない。どう退院するか、転院するか。近いうちにそれがモンダイとなる。

2021年5月12日水曜日

ご報告(第12回)筋力が抜け落ちている。

 大部屋へ移ってから、リハビリも始まった。1日2回あるいは1回、約30分、理学療法士や作業療法士が部屋へ来て、身を動かしてその経絡の滞りを探るように辿り、要所のこわばりをほぐすように手を当ててゆく。掌の温かさがじわあっと沁み込んできて、硬直が抜けていく。まさに手当だ。

 作業療法士は(医師の診断にしたがって)首から肩口にかけての神経に働きかけている。理学療法士は、体全体のバランスと身に受けている衝撃の度合いをチェックしながら、それを解きほぐし、回復への働きかけをしているようだ。

 10日目からはリハビリ室へ下りて行って、体全体のバランスのチェック、立位、座位の姿勢の傾きをみながら、回復状態を見極め、身の動きがつくように筋力をつける動きを加えていく。手当てをしながら神経叢の流れを口にしていたし、「中心性頚髄損傷」という病名を聞いたのも、ここであった。

 打撲による内出血で腫れあがっていた左手は、恢復するにつれピリピリした痛みが薄らぎ、腕の動きもわりと自在になっていった。だが右腕は、胸ほどにも上がろうとしない。腕を前方へ伸ばしたままもちあげると、へその辺りで止まってしまう。筋力がすっかり落ちていますねと、理学療法士は言う。

 右肩から腎臓の後ろ辺りに痣が残るほどの強打を受けてはいた。しかし、打撲で筋力が落ちてしまうってことは、あるのだろうか。そうか、ボディブローか。力が抜けていくのだ。

 肩のMRIをとることになった。腱板断裂をみていると、研修医同士が話しているのを小耳にはさんだ。その結果を踏まえて専門医の診察が予定されていた日、緊急も入り込んで2件の手術が夜遅くまであったらしい。私の診察は中止になった。見極めは来週に先送りだ。

 地域の中核病院。手広く診療科を設け、しかし、常任の医師を置くだけの潤沢な資金はない。当然のように、非常勤の医師が曜日を限ってやってくる。その科の診療は、こうして間延びしてしまう。

2021年5月11日火曜日

ご報告(第11回)管理栄養士

 食事が質素で目を開かされた。日頃の食生活がまるで餌を掻きこむような食べ方だったと思った。

 入院後14日目に管理栄養士が部屋にやってきて、食事に関する過不足を聞いて行った。私の体重が落ちていること、脱水症状が出ていたこと、栄養状態や私の血圧など、データをきっちり参照しながら、変える必要があるかどうかをインタビューするって感じ。

 私はいまの入院生活を考えて、カロリーは少量であることを、むしろ歓迎している。しかし管理栄養士は、退院後の力も付ける必要があると考えて、増加を考えているようであった。これまでの体重が、標準体重の1kgほど上。山歩きには「蓄え」と思って、それを保ってきた。ところが先週計ったら、3kg落ちていた。

 でも、まあまあの「標準」だろうから、これで十分。普段の過剰さへの戒めとしても、これくらいがいいんじゃないかと得心していた。それを管理栄養士は心配している。

 体重が落ちるというのは、筋肉が落ちることと考えているのかもしれない。だがいま、食べたからと言って、筋肉になるとは限らない。体が重くなって、かえって悪いようにも思う。とりあえずは、現状の少量のままでいってもらうことにした。でも、ここまで目が行き届いているんだというのが、まず私の驚き。大船に乗っているという発見。

 本当に身体の総合管理だ。これくらい目が行き届いていれば、患者もあんのんとしているわけにはいかない。常に自分の躰と向き合う。自ずと、普段の暮らし方のどこがどうモンダイかに突き当たる。自分の病気も、治してくれるではなく自ら治ろうとするモチベーションを培うことになる。

 そうか、病院というのは、根柢的には(自立的に元気であろうとする)内発力を再生させる場なのだ。全部お任せ、医療に治してもらおうという消費者的態度であっては、治るものも治らない。私のような外科の患者ですらそう感じたのであるから、内発因によって発症している病の患者たちへは、もっと強い働きかけを感じさせているのではないだろうか。

 医療が変わったのか、私の見方が変わったのか。その双方か。

2021年5月10日月曜日

ご報告(第10回)見通しの先送り?

 この病院が、患者の診断治療をどういうシステムで行っているかわかりません。専門医を軸にして、若手医師や看護師、理学療法士や作業療法士などが連携して治療方針を共有している気配は感じます。ただ整形外科の専門医は、週1にやってくる二人。そのうちの一人が私の担当医というわけです。

 毎朝やってきて、私の様子を聞く二人が研修医だと聞いたのは誰からだったろうか。そのうちの一人が、入院当初、傷を縫い、のちに抜糸もしてくれましたので、すっかり私の担当医だと思っていました。二人の研修医は、私の症状が何に由来するかを互いに確認するように頷き合いながら話してくれます。信頼に足ると感じています。

 入院して7日目に署名した「入院診療計画書」の病名欄は「頭部外傷」となっていました。それが「中心性頚髄障害」と呼ばれていると知ったのは、作業療法士とのやりとりからでした。主たる異常とみられる頸椎の変形が神経を圧迫して引き起しているモンダイと思いました。

 手術をするに至るかどうか、それが最初十日間ほどの主たる関心事だったのでしょう。ステロイドという薬剤投与でしのげると(私が)感じる程度に(頚髄損傷による痛みなどの症状がある程度)回復したころ、その下にもう一つなにかあると思わせる症状が前面に現れてきました。右腕が動かないのです。

 肩甲骨に張りついた腱が強張っていることを訴えると、専門医がMRIをとるよう指示しました。それを見て診断することとなりました。右肩を固定してMRIをとる10分ほどのあいだが、なんとも苦しい。それほどに右肩の神経を傷めているのか。

 ところが検査結果を診断する予定の日に、救急患者が入り、午後から夜遅くまで、2件の長時間の手術が行われたようです。診察は見送られ、見通しは先送りになったのです。


2021年5月9日日曜日

ご報告(第9回)マレーグマ

 ゆっくりですが、内出血は薄れていき、傷はかさぶたとなり、手指の傷む範囲も指先や関節に凝縮していくように狭まってきました。骨折していませんから、下肢に問題はなく、不自由な右半身を左でかばえば大抵のことは自分でできるようになりました。横になっていると、それだけで病人になってしまいそうな気分になります。

 大部屋へ移ったのは入院後5日目。

 起きている間ときどき、一人の部屋を歩くようにしました。思い浮かべたのは動物園のマレーグマ。檻の中を右から左、左から右へと行ったり来たりしています。歩数計がスマホについていますから、肩から掛けてカウントしてみました。最初は合計8000歩。次の日は1万歩。といっても野外を歩くのとは速さも消費カロリーも違います。スリッパをはいた小さな歩幅です。今日は1万1千マレーグマだなと呼んで、ま、この程度歩いていれば体にもいいだろうとつづけました。

 歩いているうちに、歩数はどうでもよくなり、それよりも踵から脳髄にまでずんずんと響く軽い衝撃が何か身の裡の夾雑物をパラパラと振るい落として行く気配を感じます。それとともに、この簡素な在り様が、これまでのわが身の在り様に突き刺さってきます。良いとか悪いとかではありません。ずいぶん違う世界を歩いているじゃないかと問いかけてくるように思えるのです。

 マレーグマ同様、私も動物だという共感に似た感懐も、身の裡に湧き起っています。

 何だろう、これ?

 回心?

 まさか。

 基本に還れ、という天の啓示じゃないか。

2021年5月8日土曜日

ご報告(第8回)食事

 入院当日の朝は、食欲もありませんでした。手の動かない私の怪我をみて、スタッフが納豆をといてご飯にのせてくれるまでしたのですが、汁物だけ頂戴し、返しました。食欲もありません。お昼もだいたいそうでしたので、スタッフが「お粥にしましょうか」と声をかけてくれ、以来お粥です。

 病院食です。少量5品、1400kcal(たぶん一日)。お粥、みそ汁、お浸し、野菜煮など、魚か肉、フルーツかヨーグルトなどのデザートです。味噌汁も半量、お粥は全粥。塩分6g未満。薄塩です。家でなら5分で済んでしまいそう。

 手が不自由なので、私は木のスプーンを使ってギッチョで食べます。小さく刻んだ大根や人参の切れ端をひとつずつ掬って口に運ぶ。そうすると、薄味がなかなか微妙な味わいを持っていることが感じられます。サラダにも湯通しした野菜がつかわれています。何で味をつけたのかと思う。そうか、ふだん私はほとんどカロリー補給くらいにしか考えていないんじゃないか。料理してくれた人に申し訳ない食べ方をしていると思ったのです。

 時間がかかる。よく噛んでゆっくりねとmふだんカミサンに言われたが、どうやったらゆっくり食べられるだろうと時間を計ったみました。12分から17分。たぶんそれでも(量が少ないから)、普段の3倍は掛けているか。

 細かいことをみていない。そう思いました。そうして78年も生きてきた。と思ったとたん、バチバチとコロナウィルスが弾けるように、私の身につけて来たいろいろなことが、ほとんど無意識の為せる自然(じねん)のようにかたちづくられ、ここに至ったと感じたのでした。

2021年5月7日金曜日

ご報告(第7回)病棟のスタッフと作業

 朝6時、顔拭きおしぼりが来ます。朝のお茶、薬の配布、担当看護師の容体チェック、朝食の配膳と回収、体温・血中酸素・血圧の測定、担当医の回診。ゴミの収集、床の清掃、シーツの交換、パジャマの交換と清拭と、始終スタッフが現れて手際よく仕事をしていきます。リハビリ士は部屋まで迎えに来て、「リハビリ室にいます」と書いたカードをベッドにおいて、送ってきたとき、それを回収していきます。介護ケアマネジャーが今後のことを、耳の遠い患者と相談する声も、廊下から響いてきます。

 私は下肢と左腕が動きますから、たいてい自分で出来ますが、車椅子でトイレへ連れて行ってもらう人もいるし、食事を口まで運んでもらう人もいます。ナースコールが鳴りやまないこともあります。救急患者が入ると、廊下が騒がしくなり、個室への出入りが多くなります。ああ、脳梗塞の人だ、骨折しているらしいとやりとりの声から推察できます。

 患者の断捨離のバックアップ部は、基本を押さえて充実しています。いわば人の暮らしの基本が、全部つまっています。これが安定していて、心地が良い。痛みが和らいできた私は喜んでいるわけです。

 基本、静かです。こうしていると、普段の暮らしがいかに騒がしく浮かれ、余計なものに取り囲まれて猥雑であるか、痛感します。それは、私自身の暮らし方が贅肉をつけすぎ、感性もすっかり基本を忘れてお祭り騒ぎをしていると感じました。

 身の動きがままならない状態におかれてはじめて、そうした状態下での暮らし方が、人が生きる基本なのではないか、と気付いたわけです。

 ブータンか、と思いましたね。

2021年5月6日木曜日

ご報告(第6回)病院・病棟とコロナ対応

 皆野病院は、地域の中核病院です。埼玉医療生協組合のひとつ。6階建てのビル。医療生協というのは、全部つながっているのかと思いましたが、違うんですね。わが家の近くに医療生協川口協同病院というのがあり、そちらへ転院してもいいと話をしたところ、皆野病院は徳洲会系の医療生協、川口のそれとは別ですと言われ、なんだ医療法人の法的位置づけ名かと思い直しました。

 北に宝登山、南に美の山を侍らせ、秩父市を経て流れて来た荒川が大きくクランク上に屈曲して、長瀞へと流れ下っていくところにあります。美の山の右肩後方には武甲山が姿を見せ、そこから蕎麦粒山や酉谷山・長沢背稜へとつづく山並みが肌の色合いを変えて西へと連なっています。

 最初、個室へ入りました。PCR検査が陰性になるまで、救急患者はそこは収容されます。入口には「N95、ゴーグル着用」と貼り紙がありました。5日目に「陰性」と分かり、大部屋へ移動しました。

 大部屋は16畳ほどの広さをカーテンで仕切って4分割できます。私一人。これは幸いしました。一人分は、ベッドと収納箱と椅子一脚。体を上下に持ち上げる、あのパラマウントベッドです。収納箱は三段になり、上と下がボックス、中段がTVを置いたスペース。四方60cm、高さ180cmでしょうか。部屋を変わるとき、私をのせたままベッドも収納箱もごろごろと押して移動しました。断捨離の極みですね。ああ、人一人の居ずまいはこれくらいで済むのかと、感心しました。

 コロナのせいで面会もできません。スタッフが受け渡しをしています。わざわざ遠方から着替えを持ってくる必要もありません。一度宅配便で送ってもらい、あとは院内で洗濯機を回して済ませました。

「ここはコロナはないかんね」と、シーツ交換に来たおばさんは笑っていました。

 文字通り、別荘のようなものです。

2021年5月5日水曜日

ご報告(第5回)診断と手当

 後で分かるのですが、病名は「中心性頚髄損傷」。頸椎の変形が脊椎神経を圧迫して、バランスが取れなくなり、末梢神経障害を起している。

 医師は「前々から何かあったんじゃないか」と口にしました。つまり頸骨2カ所の変形は長年のもの。バランスを崩したのはむしろ結果と言う。薬剤で動くようにならなければ手術が必要。先ず、その見極めまで入院ということになりました。


 打撲……右体側、脇から腰に掛けて痣。左肩、肘、打ち身と擦過傷。左手内出血で甲が真っ黒。擦過傷も多数。

 怪我……後頭部擦過傷と裂傷4針縫う。おでこに擦過傷。左顎に傷。

 レントゲン、CT、MRIとる。……骨折なし。頸骨5番目、7番目変形による頚髄損傷により、末梢神経にしびれ、麻痺、痛み、脱力、バランスを崩す。

 症状……右腕が上がらない。手の指先と関節が痛む。水が当たっても痛い。手指が伸びない。指にも力が入らず、右腕は上がらない。左腕は動く。痛み、しびれはある程度あったが、順調にやわらいできている。ギッチョの暮らし。

 * 治療方針:ステロイドを注入し(4/21まで朝晩2回)、末梢神経の障害がとれるかどうかみる。手術が必要となるかどうかは、その後の判断。住まいの近場の病院にいずれ転院か退院して通院する。


 手当と薬の投与で日々に回復してきました。内出血で痣になったり腫れていた箇所も、日にち薬か、薄らぎ、やわらぎ、傷にもかさぶたが出来て、ずいぶんたくさんの打撲や擦過傷の手当てをし、6日目からはリハビリもはじまりました。

 これらの傷の後は、しかし、私の脳裏に刻まれた滑落に関する「記憶」と、ものの見事に一致していました。それについては、また、後に記しましょう。

2021年5月4日火曜日

ご報告(第4回)救助

 救助隊は、まず、体調をチェック。同行者がきっちり説明をしてくれているので、もっぱら私の様子を診る。背負って救助と判断。寒そうな私に赤い羽毛服を着るように言う。小さいサイドバッグを首から外し羽毛服を着る。背負う隊員が斜面に手をついて私に背を向けて乗せる。すでに彼の躰にはザイルが結ばれ、上から引っ張る。一人が後ろから私の尻を押して補助する。背負った隊員は四つん這いになり、急な斜面を這いあがる。半ピッチのところで交代。さらにひとピッチ行ってから交代。トラバースに入る。こうして、下りから平地に降り立ち、河原を歩いて、救急車の処へたどり着いた。灯りを照らす人、私の荷を担いで進む人、少し先を並行して進む同行者を誘導する人、ザイルなどを設置し、回収し、途中で背負った隊員を確保しているプルージックを付け替える人、ずいぶんな隊員たちがいました。

 救急車の中で「どうしてこうなった」と問われました。私は下山ルートを説明しようとしたことを憶えています。

「そうじゃない。どうして?」とくり返されて、ああ見当違いのことを応えているんだと思っただけ。そのときは、滑落したことをほぼ忘れていたと、あとで思いました。

 1時間半かかると聞いていた病院へ少し早く着いたと言っていたが、すでに日付が変わっていたのではなかろうか。

 怪我と打撲の手当てをし、レントゲン、MRI、CTをとり、私はすっかり身を任せていました。痛みも苦しさもありません。

 午前4時ころに処置が終わったか。病室へ行くことになり、同行者は親鼻の駅で始発を待つと言って、病院を出て行きました。

2021年5月3日月曜日

ご報告(第3回)滑落の模様

 沢の上部、5mほどの傾斜60度の下が30度ほどになっているところへザイルを使って下り、地面に体重を掛け、向きを変えた途端に落ち葉に足を取られ、5mくらい滑落。でも、本人は怪我をしていると思わずザイルをまとめ、同行者に先導してもらって、下山口へ下りました。

 途中一度転び、沢の水に靴がつかり、ざぶざぶと歩いて最後の滝のところに出ました。下山地の川原が見えています。

 左の稜線に上り、もひとつ向こうの沢へ下りようと草地をトラバースしながら稜線へ上がりました。ところがそこで、どういうわけか私の両手、両腕が利かなくなり、ザイルやストックなどもっているものを全部落としてしまいました。同行者が安全な場所へ誘導してくれなかったら、バランスを崩して草地を滑り落ちてしまっていたでしょう。

 すでに5時近くになっていることに気づいたのも、そのときです。

「救助をお願いしましょう。連絡してください」

 と同行者にお願いし、あとは救助隊との位置確認などやりとりを聞いているだけ。すべて同行者が仕切ってくれました。

 スマホや灯りが役に立ちました。手が利かなくなったときに私のランプは、取り出して点けるとすぐ手からこぼれ、急斜面を落ちて行ってしまいました。たまたま笛付きのペン型ランプもあったので、それをつかいました。

 時間がどうなっていたのか、わかりません。でも眼下で、救援車両のランプや救急車の音が響き、不安は感じませんでした。私は寒くなり、ウィンドブレーカと雨具を重ねてきました。

 こうして、まず、秩父警察の山岳救助隊がやってきてくれたのです。


2021年5月2日日曜日

ご報告(第2回)怪我の様子

 右後側頭部裂傷。といっても4針縫う程度です。擦過傷はいくつも、顎、肩、肘、腕、手の甲にあります。足腰はほぼ無傷。

 打撲と擦り傷が腕と手のあちこちにあります。内出血して、左手の甲は黒っぽくぱんぱんに腫れあがっておりました。右側体部の肩下から腎臓の後ろ辺りに掛けて痣があるそうです。

 でも、上記のけがは手当と日にち薬で順調によくなりました。それだけなら、こんなに何日も入院している必要はありませんでした。一週間後に縫った糸を取りました。頭を洗ってもいいと言われました。

 モンダイは、右と左の手指が思うように動かないのです。右腕は動きません。左手は内出血をして腫れていますから、動かなくなることもあるでしょう。右手に外傷はありません。日が立つにつれ、左手は動くようになりましたが、右手はかたくなに動きを拒んで、指もおぼつかなく、腕も上がろうとしません。しかも、右の左も手の指は、水が当たってもピリピリと痛みが走るようでした。知覚過敏てやつでしょうか。これが、頸椎骨の変形が頚髄神経を圧迫して末梢神経の障碍によるものと、レントゲンやMRIやCT画像を診て、医師は判断していました。

 頸椎骨の手術をするかどうか。ステロイドの注入で圧迫を回避できるかが当面の焦点でした。その様子をみるために、入院が長引いたというわけです。

2021年5月1日土曜日

何かあったのか? ありました!

ご報告(第1回)入院していました


 今日やっと、自宅にもどりました。19日ぶりです。

 簡単に記します。

 沢で滑落し、救助され、治療を受け、やっと退院してきました。

 その経緯は、おいおい記そうと考えていますが、キーボードをいじるのも覚束なく、長文を書けません。

 秩父の沢を下山中、滑落。下山地まで直線距離あと200mほどで動けなくなり、山岳救助隊に助けてもらいました。

 救急車で皆野町の病院に運ばれて手当てを受け、今日まで入院していました。

 打撲と裂傷。骨折はしていません。下肢はほぼ問題なし。だが、思わぬところにモンダイが見つかりました。

 頸骨の変形が頚髄神経を圧迫して損傷し、末梢神経の障碍を引き起こしている。昨日、今日にはじまったことではなく、長年頸椎骨の変形を抱えていて、それがバランスを崩すことにもなっている、と医師は診たてました。

 何とか手術をしなくてもよくなり、退院の運びになった次第です。