香港の立法院の選挙への立候補資格に「愛国者」と明記し資格審査をすると中国政府が法規制を定めた。「愛国者」以外は国民ではないというか、統治の対象にすぎないと定めるといおうか。この規定を、日本会議の方々はどう評するだろうかと、ちょっと皮肉な感懐が湧いた。
このとき、日本国憲法が定める「基本的人権」が「愛国者の権利」を意味していると考える人はいないであろう。「基本的人権」とは「愛国者」とは次元が違う、より広い領域の人々の「在り様」を示している。愛国的でない人も、在留外国人も保障さるべき権利というふうに。だが同時に、日本国憲法の定める「権利義務」は「国民」を指していて、peopleではないと作家・赤坂真理が指摘していた。
《すべての枠組みやイデオロギーに先立つpeopleという概念を、日本人は持ったことがあるだろうか?》
と疑念を呈し、
《生まれてこのかた持ったことのない感覚を、「生得の権利」として行使できるという信念も、そのやり方も、私にはわかっていない。それを認めざるを得ない》
と述懐している(赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』講談社現代新書、2014年)。1964年生まれ、思春期にアメリカの高校に留学して過ごしたというこの作家は、そのときの(自らの祖国に対して感じた)カルチャーショックを率直に述べて、日本の戦後史を振り返っている。
彼女のこの述懐は、自らへの内省を踏まえて繰り出されている点で、信頼できる。
実際日本の憲法解釈でも、「基本的人権」は「国民」にしか認められていない。先ごろの入管法改正案で論題になった「不法滞在者」の扱いも、ほとんど犯罪者同然である。あるいは、外国人労働者への待遇も、同様に、「基本的人権」をもつ人としての処遇と異なり、単なる労働力商品としてのあしらいと言わなければならないような遇し方になっている。
これは、法的な処遇が遅れているからなのか、日本社会の「国民感覚」と「人権感覚」の間に開きがあるからなのか。そう考えると、その両者に通底する「日本人感覚」が壁になっていると思われる。
つまり「日本人感覚」のなかに、「日本語を話し、日本文化に馴染み、日本人として振る舞える人」を無意識に想定している(社会に通底する)センスの選り分けがたく根付いていることが、処遇の不備を長年にわたって生きながらえさせてきたと思えるからだ。
つい先日のTV番組で、町山智弘がアメリカの奴隷制度の現在を取材していた中で、奴隷解放宣言がなされてからも1970年代に入るころまで百年以上も、アメリカ社会は黒人を奴隷同然に扱ってきたと黒人女性ガイドが話していたのが印象的であった。個人の所有物としての(高価な)黒人奴隷が、最下層の低賃金労働者としての黒人労働力に変わっただけ。その所有者が、南部の富裕な農家から北部を含む企業経営者へ(その感覚は当時社会の主流を占めていた白人市民層に)と大衆化され、人としての処遇は社会的には相変らず過酷低劣であった、と。去年の出来事に端を発したBLM運動は、未だに残る社会的な残渣の根深さと苛烈さを表している。
與那覇潤が斉藤環との対談でしゃべっていることが、目を惹いた。要約、以下のようなこと。
映画『ラリー・フリント』(1996年)の台詞……。ポルノ雑誌を出版したりしていた「下種な商売をしていた人物」だが、出版の自由を巡って訴訟になった時の決め台詞。「憲法が俺のようなクズを守るなら、社会のあらゆる人が守られるから」。これこそが法の支配の本質であり、人間教にはないもの……。そこまで立ち戻って考えなおさないと、なにをやってもループをくり返すだけでしょうね(『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』新潮選書、2020年)。
輿那覇潤のいう「人間教」とは、「健康で文化的な暮らしをしている日本人」のイメージなのだが、うつ病を病んだ輿那覇にすると、そこにこそ「愛国者」の姿を組みこんで恥じない人たちの「国民」像が重ねられている。「何をやってもループが繰り返される」という慨嘆に中に、私たちの胸中に巣くう、赤坂真理と同じ感懐があること、それと向き合わねばならないことが示されている。「同じループをくり返す」と指弾されているのは、私なのだ。