★ 山歩きの至福――動物になる山歩き
今回の山行記録「至福の滑落」を記していて、その場の記憶が鮮明であることに自分でも驚いている。こう記した。
《なぜそれほど克明に記憶しているのか。自分でも不思議である。私の山歩きを続けてきことと切り離せないクセがあると考えている。》
なぜ、これまでの山歩きを続けてきたことと関係あるのか。
山を歩いて何が変わった? と問われたことがあった。
雨が平気になったことかな、と応えた。
違う山を歩いて、毎回変わった景色を眺めるってことが面白い? と訊かれたこともある。
う~ん、そりゃあそうだけど、同じ山でも面白いよ、と返した。
返しておいて、どうして山へ行くことが面白いんだろうと、自問自答することが多くなった。
□ ハイになる
あるとき、こんなことがあった。
妙義山へ友人と二人で行ったときのこと。友人は私より5歳ほど若い。一部ザイルで安全確保しながら、妙義神社から白雲山を経て、中間道を戻ってくる日帰りのコース。快適に登り、中間道へ下りたつ手前で、その友人が「一休みしませんか」と声を掛けた。
そうだね、休みましょうと時計を見て驚いた。2時間も経っている。友人は、ずいぶんへばっているようであった。その間、ザイルも使ったりはしたから、友人の顔も見たり、言葉も交わしたはずなのだが、彼がそれほどにへばっているということに、まったく気付かなかった。
友人に「(歩くの)速いですよ」と指摘され、ほとんど単独行のように歩いていたと思った。ハイになっていた、とあとで振り返った。
そうして、それが山歩きの魅力なんだと思うようになった。
どういうことか。
山を歩いていると、岩場でなくても、足元に気をつけないではいられない。ザイルを必要とする岩場ともなると、足をどう置いて、手がかりは何処をつかむと一挙手一投足の運びに気持ちを集中して、身を持ち上げ、あるいは下ろしていく。そのとき、場はきっちりとみているが、何も考えていない。一つひとつを覚えているということもない。次から次へと場は移り変わるから、みているものは何も痕跡を残さない、次にかぶさってくることへと気持ちは移っていく。
そのときの、心持ちの澄明さは(振り返ってしか感じられないが)、身が清浄になっていくような感触をともなっていた。
ああ、これがいいんだ、と思うようになった。
それって、瞑想だよ、と友人の一人が話したことで、以来私は、瞑想と呼んでいる。
これが私のクセなのか、それともこうした運動をする人の常なのかは一概に言えない。が、ランニングハイとか、クライミングハイという言葉があるところをみると、一般的なコトのように思う。
□ 山行記録
もうひとつ、関係することがある。山行記録だ。
65歳の高齢者になってからは、毎回の山行記録をとるようにしてきた。私自身の衰えを(あとで)チェックしようと考えた。そのうち、歩いたルートの記録から、印象記のようになり、山の会を主宰するようになって、集団で歩くことの変化も感じ取るようになっていった。
全て私のみた人たちであり光景である。それが、私の山なのだ、と。
地図やガイドブックにあるコースタイムは、計画時に参照している。おおむねこれで歩くことができれば、全行程がどうなる、疲れ具合はどうなろうかと思いを巡らしてプランニングする。長時間の行程の場合は、エスケープルートもチェックしておいた。
おおむね山の会の皆さんは丈夫であった。ときにコースタイムをオーバーすることもあった。あとでみてみると、私の参照しているデータが、古いガイドブックであったり地図であったりしたからと分かった。新版では、コースタイムが緩やかに取られている。
そのうち記録に、デジカメが加わった。これは通過時刻も記録してくれる。もちろん見た案内板や標識、花やルートの光景や景観も記録してくれるから、メモが要らなくなった。
それが歩くときの心持ちを変えたような気がする。メモを取るというのは、自分を外からみることでもある。それをやっていると、わりと冷めて歩くことになる、没入しない。我を忘れるようにはならない。だがカメラがそれをやっていて、私は私自身の歩きに集中することができるとなると、ついつい時間を気にせず、下山口までの行程さえも気にせず、歩きを堪能することになる。
これは、上記した瞑想と相まって、ハイになるクセを容易に誘発する。
今回の「至福の滑落」も、こうした条件が整っていた上に、ザイルを使って下るという遊びを入れたこと、しかもルートファインディングの途中で、スリリングなところを降り、這い上って、すっかり身も心も出来上がっていたのであった。
□ 動物になった
瞑想と呼ぶと、なんだかちょと仙人のような心持ちが加わる。むしろ私は、動物になったと思っている。
自然と一体になるというのは、こういうことなんだと、今でも振り返って「至福」を思い出す。
多幸感という言葉があるが、それとは少し違う。幸せというと、良いとか悪いとかの価値評価が入ってくる。そうじゃない。良いか悪いかはわからないが、あの風景に溶け込んで、文字通りちっぽけな動物として、沢へ下りて行った。
動物は、記憶が抜群にいいと動物行動学は述べている。どこの木にどんな実があるか、どんな獲物が毒を持っていて食べない方がよいとかいうことを、忘れもせず、きっちりと身につけている。その動物の身につけていることには「記憶」とは違う言葉が必要である。身に沁みついたイメージが、必要な時に必要なところでぽかりと浮かび上がってくるように、身に刻まれている。今回の私に起こった記憶も、それに近かったように感じている。
大袈裟な言い方になるが、山歩きにともなう私の瞑想と記録のクセが、そうした動物的イメージの焼き付けを、脳裏にしていたように思うのである。
有頂天になった。天にも昇る気持ちになって、天に昇り損ねた、とも。
通常の遭難のイメージと違って、至福の世界であったことは、間違いない。(遭難ご報告、終わり)
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