2021年5月27日木曜日

「人」に託して「わたし」が立つ

 今の社会は自立した個人を前提にして成り立っている。生活的には自立であるが、同時にそれは個々人が自分のことを自ら決めるという自律を意味している。だが、自分のことを自ら決めるとはどういうことか。そう考えると、個々人の考え方だけでなく、世の中の風潮が指し示す方向を違えてくる。人の欲望は社会的に発生するものだからでもある。加えて、性的な関係がもたらす身の裡からの叫びが社会的な佇まいと切り離せない。

 なにしろ日本は、男社会である。家族制度の影も色濃い。そうした社会で、女が自律をするというのは、「個人」の意味するところを「男」との関係で位置づけないではいられない。じつは社会的背景を取っ払ってしまえば、「男」も「女」との関係で位置づけないではいられないのだが、世の中の潮流はそれを無用とするくらい、男中心にかたちづくられている。つまり「女」が男を軸として自らを位置づける以外に、自律の道筋は得られないのである。「男」は社会的な空気に育まれて、いつしらず自らの自律の根拠を手に入れているのである。

 その自律の苦悩を、「男」や「女」を問わず、戦前と戦後の一億総中流の時代とを行き交いながら探る物語が、桐野夏生『玉蘭』(朝日新聞社、2001年)である。時代を半ば戦前と対照させながら、しかし今の時代の自律の問題に焦点を合わせて、身の裡に語らせる手法は、さすが桐野夏生だと思わせて、圧巻であった。もちろん「自律」という言葉は一言も出て来ない。生きている安定点というかたちで内面に起ち現れている。

 桐野が描き出す自律のかたちは、「わたし」の自律は「人」に託したところに立ち現れるというもの。関係的に人の在り様をとらえようとする桐野の視線が好ましい。「わたし」のレゾンデートルが「他者(ひと)」にあらわれるというのは、共に生きるということそのものであり、そのかたちは人の身そのものの在り様を指し示している。個の自律が「わが身」を「人」に託すことに現れるのは、何とも皮肉であるが、人というのがそのような存在の仕方をクセとして持ってきたことに由来すると考えると、得心が行く。文字通り「人閒」なのであった。

 その屈曲点が、身を棄てる地点に現出するというのも、年を取ってからではあろうが、腑に落ちる。世の中の授けたさまざまな観念を自ら棄て去った地平に、「人」に託したかたちではじめて自律は自らのものとして姿を見せる。「関係」のあわいに「人」が見事に浮かび上がる作品に仕上がっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿