だれのおきゃくさまだったんだろう?
子どもの私をお客としてもてなすご亭主は、間違いなく親であり、兄弟であり、祖父母やご近所の大きな人たちでした。大事にされたかどうかということではありません。この子は一人前でないのだから世話をしてやらなければならないと見なされ、本人もそれに甘んじていたのです。
生長するにつれ、自分でできるようになってきます。お客様度は下がります。元服とか、成人というのがお客様卒業の儀式でした。
神様は生長しません。永遠のお客様です。
伊勢神宮では、朝晩毎日、神様に御饌(みけ)を手向けます。食べ物も種から植え、育て、収穫して料理して、神様に捧げます。火を熾(おこ)すのも、毎回木を擦り合わせて火口をつくっていると聞きました。ヒトの暮らしの基本中の基本を忘れないように千数百年続けてきているのです。
基本中の基本って、何?
暮らしに必要なものを作り、交換し合い、使う。役割を分けもって行うと、つくった人が提供者になり、使う人がお客になる。そこから、基本が忘れられるようになってきたのですね。
昔と違い、社会は豊かにもなり、複雑です。ヒトの活動分野も広がり、さまざまになり、楽しく贅沢であることに身が馴染んできています。他人(ひと)の提供してくれるものを(お客様として)頂戴するというのが日常になってしまいました。日常がお客様になってしまいました。まるでヒトが伊勢の神様になったみたいですね。
身が基本を忘れたからといっても、それがいまの社会の自然です。ヒトは環境に適応しようとします。ヒトも変わっていくのですね。
ところが、入院してみると、根っこのところに基本が据えられていることに気づきました。自分の身が動かないという障碍を背負ってはじめて、基本が感じられたのです。世の中を見るときに、もっとも底辺に位置している人を基点にしてみていくと、社会の基本が見てとれるってことですね。
いま、社会はしっかりしている。それを実感しています。
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