2021年5月16日日曜日

ご報告(第16回) 脳裏に焼きついた記憶

 秩父槍ヶ岳の「山行記録」を書いている。山頂まで、下山路の探索、滑落、救助要請、救助、入院と辿る。自分の記憶が鮮明なのに驚く。記憶というよりは、現場の様子が脳裏に焼き付いているイメージだ。

 これって、ひょっとしたら動物と同じになったんじゃないか。

 そう思ったとたん、うれしくなった。

 自然と一体になる。溶け込む。ヒトというより動物として存在することができるなんて。

 動物行動学では、彼らの記憶のいいことが証明されている。どの木に実がなるとか、何が毒を持った生き物とか。ただ、ヒトと違い、一般化することはできないから、そのものが焼き付いているのだろう。記憶というのとはちょっと違う。

 では、どうして私にもそれが起こっているのか。だって私も動物なんだものと、もう一人の私が応えている。

 進化というのは、古いものを棄てて別のものに変わるわけではない。古いものの上に、新しいものがかぶさり、古いものは深層に沈む。

 山を歩くということを通じて、ハイになって行くというのは、何も考えない、瞑想状態に近いと、体験的に私は考えている。そういうとき、ひょいと深層が現れるのではないか。あるいは、修行僧の瞑想というのは、そういう状態をつくりだす作法を身につけているということではないだろうか。

 山を歩くとき、踏み跡を見つけるルートファインディングの技術といわれるものも、勘を養うに等しい微妙なものを持っている。落ち葉や沢床の踏み跡をたどるとき、どこがどうということは説明しがたいが、そこがよく踏まれた後だと、なぜかわかる。そういう勘も、深層に隠れていたものが現れていると思う。

 そんなことを考えて、書き留めるのは、なかなか楽しい。

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