2021年7月11日日曜日

ことばをどう身につけたか

 2021-6-12の「言葉というヒトの悪い癖」につづけたい。

 言葉がヒトの悪いクセだというのは、ヒトが言葉を使って「世界」をつくるからでした。植物や動物が感知する「せかい」は、生存と繁殖に関係することに限られています(と、今のところ人は考えています)。ではヒトは、どこが違うのか。必ずしも生存に欠かせないものではないのに、余計なことに好奇心を発揮し、関心を持ち、遊びを見つけ、挑戦していきます。それらはどれもみな、言葉がつくりだした「世界」がもたらしたものです。

 こうも言えましょうか。ヒトの五感と言われる感覚は、生理学的には、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・痛覚と言われます。ですが仏教の、「般若心経」というお経では「眼耳鼻舌心意」と五感にひとつ加えて六感を記しています。生理学的に謂う痛覚を「心」と表し、「意」を加えています。

 痛覚を「心」と表現するのが面白いのは、「痛み」だけではなく「喜び」も「寂しさ」も「気の毒」も、つまりヒトが感じる外部とのかかわりを感知する感性を、まとめてひとつの感覚としてとらえています。「心」は、関係を感知する感覚というわけです。生理学が踏み込めなかったヒトの領域をひとまとめに「心」とみて、私たちの身の裡の「世界」を感知する土台とみています。さすが宗教、よくぞ仏教徒、私は感嘆しました。

 では「意」とは何でしょう。ヒトの「意思」とは、意識したこと、つまり言葉とイメージです。ヒトのクセである言葉が、「心」を土台にしてつくられているというのは、私にはとても実感的に了解できることです。

 ヒトがどのように言葉を身につけるかと考えてみると、それがよく分かります。幼い子どもが言葉を身につけていくのは、みていて面白いものです。その一端は、2017-6-17の、このブログ記事「文化は自律的に受け継がれている」に記してありますから、ご覧ください。そのなかで「グライスの会話の公理」が子どもたちの心裡で働いているとあります。その心裡の作用の土台となっているのが、「心」だということですね(「グライスの会話の公理」というのは、広瀬友紀「ちいさい言語学者の冒険」が紹介していることですが、人のコミュニケーションにおいて「ことばにしていないことが伝わる」ワケを、言葉が交わされる空間・環境を共有していることによってかたちづくられる情報の共有や交換という土台にみて解析している)。

 では、私はどのように言葉を身につけていったのか。振り返ってみると、小学校2年の3学期に転校したころのことが思い浮かびます。香川県の高松で育った私が、小学校2年の冬に、瀬戸内海を渡った対岸にある岡山県の小学校に転校しました。でも私の言葉がおかしいとクラスの皆に笑われたのです。町でも買い物に行くとお店の人に「あんた、高松から来たん?」とすぐにばれてしまいました。高松と岡山では、方言が大きく違っていたからです。

 私の助け船はラジオでした。ラジオの言葉は、当時「標準語」と呼んでいましたが、東京言葉でした。岡山の同級生たちが「ワイ」と言っていた一人称も、高松流の「ワシ」から「標準語」の「ボク」に変わりました。それが、学校では教師からずいぶん褒められました。当時文部省は「標準語を遣おう」と全国の教師たちに指導していたからです。つまり私が言葉を意識しはじめたのは、同級生に笑われるのがイヤだったからでした。「グライスの会話の公理」をからすると、空間・環境を共有することができていなかったからですね。逆にいうと、ラジオは文化的な共有空間を(子どもの心裡に幻想的に)広げていく役割をしていたわけですね。

 ラジオもそうですが、もう一つ文化的な共有として私の言葉にかかわっているのは、本でした。同級生と一緒に遊ぶよりは本を読んで過ごすことが多く、図書室の本は、あらかた読んでしまいました。後の時代のことばで言えば、暗い少年だったのですね。私の兄がもっていた「譚海」という雑誌を読むようになり、中学校から借りてきてくれた本を読んだりしたのが、私の言葉に結びついていると思っています。

「方言」によって仕切られていた地域的な壁が取り払われ、文化的な共有が急速度で進展していったのが、新聞や出版やラジオ、テレビというマス・メディアだったわけです。空間が広大なアメリカと異なり、日本は、明治以降(中央集権的だったこともあって)、幕藩的なローカリティがどんどん消えて行って、島国を(ガラパゴス的に)一つの市場として情報単位と見なして市場競争が行われ、ますますひとつの単位と見えるような「文化的な共有空間」になった。それが「日本」とか「日本人」だったということなんですね。

 そうやってみてみると、いま、その「日本」「日本人」概念が、文化的に崩れていきつつある。むろん、グローバルな経済的開放の進展がもたらした結果なのですが、その変容に守旧勢力はもちろん、改革を叫んでいる経済成長一本槍の勢力も、まったく対応できていない。その軋みが、政治家や政府や官僚の「お粗末」に噴き出しているといえそうです。

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