2021年7月19日月曜日

コモンとは何か――身に沁みわたる「人権」

  斉藤幸平『人新世の「資本論」』が紹介していた「ミュニシパリズム」や「バルセロナ・イン・コモン」のことを調べてみようと、岸本聡子『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』(集英社新書、2020年)を読んだ。

 著者はアムステルダムにあるシンクタンクNGOに所属している方。記述は欧州でいつのまにやら行われていたのをふくめ、水道の民営を公営化するためのフランスやスペインやイギリスなどの人々の闘いを紹介している。徹頭徹尾現場主義的。だがそれが、地域的な闘いに始まりながら、地域行政だけでなく、国家やEUROの「規定」を俎上に上げて向き合い、ついにはEU議会に議員を送り出すことまで視野に入れるようになった。徹頭徹尾の現場主義とは、しかし、あくまでもそれは、地域運動の蓋然的成り行きだと、淡々と綴っている。それが、EURO政府の新自由主義的組み立てにも立ち向かうという格好になっている。

 紹介した斉藤幸平の言うように、それがあたかも「コミュニズム」を目指しているかのように触れまわってはいない。「水は人権である」という基本線を全面におしたてて、容易に浮上しようとしない。そのしつこさに、強く訴えてくるものを感じた。

(1)水道事業の民営化が、日本で話題になったのは十数年前ではなかったか。PPP/PFI法とやらが言葉として飛び交っていたようにぼんやりと思い起こすが、(また政治家たちが勝手なことを外国に押し付けられてやってるよ)くらいにしか受け止めなかった。しかし、岸本のこの著書を読んでみると、なんとも大変なことである。「みず」は水道栓をひねれば手に入るものという私の常識が、見事に水道事業を金儲けにしようという人たちに食い物にされようとしている。公共のことをお上に預けておくことが、いつの間にやら資本家社会の原理に組み込まれて行こうとしていると、わかる。

 つまり「人権」とは水や空気、自然環境という共有財産から起ちあがるヒトの実存の根柢だ。

(2)「コモン」を取り戻すと欧州の人たちは声を掛け合って、水道事業の再公営化を闘っている。その「コモン」は「公」ではなく、「共有」することだと、教えられる。「おおやけ」というのを私たちは、地方行政府(つまりお上)のやることと考えて、任せてきた。欧州の人たちは「水」が「共有財産」だと考えて、自分たちの手に取り戻そうとしているのである。つまり、「コモン」は「おおやけ」ではなく、「共有」のものとしてコモンなのだと訴えている。お上だといって、勝手に「水」を利権の手段にしていいわけではない。そこまで資本家社会の論理に組み込んで「公共」から取り上げてしまうのは困るよ。そう、私自身のコモンの概念を切り替えることになった。

 そうして観ると、昨日もTVの画面でみたのだが「最近は青テントが増えた」とみせるイギリスの街並みの道路沿いのフェンスに取付けたホームレスの住まいが写っていた。ああ、こういうのも受け容れているイギリス人の感覚が、「コモン」の原点かもしれないと思った。

(3)しかもその、草の根の運動が、地方行政と結ぶついて政治闘争になる。そこから、行政というものと私たちの「公共性・コモン」というものとの綱引きが始まっている。その綱引きにかける私たちの手に力が入っているかどうかが、問われている。つまり、民主主義が機能しているかどうかが、文字通り問われている。それが、「水は人権」という起点から、ある種の論理的必然として展開の筋道をたどるところに、この欧州の再公営化の運動の確かさが感じられる。

 これって、欧州の人たちの堆積してきた「人として生きる闘争」の積み重ねがあったからだろうか。どうして日本では、控えめに、「お上のなさること」として影をひそめるようにしてきたのだろう。私自身の身の好みとしては、控えめの方が好ましいのだが、そう感じながらなお、欧州の人たちが身に刻んできた「民主主義」の実感覚に、敬意を感じている。

(4)もちろん革命運動などというものではない。だが、この運動を通じて人々は自らの「世界観」を問い直し、具体的な現場そのものの必要として、他の国や地域の人たちとの連携や連帯を感じ取り、ついには国連に訴え出て「水は人権」を決議させることへもっていく(この決議に日本政府は、アメリカやイギリスとともに棄権している)。まずそこに、斉藤幸平の「イメージ」戦略は破綻しているといえる(ま、どっちでもいいことではあるが)。

 つまり日本では、「政治」と「人の暮らし」が切り離されてきた。位相が違うと実感してきた。これは、国家や行政と社会経済が切り離され、国家のことは「お上」として、庶民は知らぬ顔を決め込んできただけなのではなかったか。こうなる前は(つまり江戸の時代では)どうであったかと考えると、村落の自治的な「囲い」があり、その「囲い」は保護膜であるとともに年貢も連帯責任を負うという個の自律にとっては、めんどくさいものであった。では欧州ではこの点は、どうクリアしてきたのだろうか。そう、思いは走り始める。

(5)こうも言えようか。民主主義とは、公共性を民衆の手に取り戻すことであり、「公共の福祉」として神棚に飾って、祭司である政治家や官僚たちにおまかせしておけるような、静的なものではない。そういう意味では、日本の民主主義は(江戸期の自治をその萌芽と考えると、それを忘れて)、やっと端緒についたばかりとさえいる。78年間も生きてきて、戦後民主主義の申し子のように育ってきたと考えている私にしてからが、お恥ずかしい。今頃(あらためて)気づいて、欧州に感心している。民主主義というのは、簡単に一般化してはいけない。徹頭徹尾現場の具体性にこだわり、そこの延長上から足を踏み外さず、モンダイに執着することと読んだ。

 つまり、明治維新において欧州から学び、第二次大戦後においてアメリカから押し付けられた「民主主義」は、外的なものでしかなかった。頭が取り入れても、身が感じ取って刻むようでないと、現場性と結びつかない。そうか、そう言えば、政治教育にしてからが、知識だけに限定し、実戦的なありようとしては次元を異にするように仕組まれている。もっと、頭から離れ、身に沁みこませるように具体的でなくてはならない。

6)岸本聡子の口吻からすれば、欧州の草の根運動は、もっと知られてよい。欧州から締め出された水道事業企業が今(市場を求めて)、日本をターゲットに押し寄せてこようとしている。日本の総務省も政府も、彼らを受け入れる新自由主義的な論理と法整備を着々としてきた。それがPPP/PFI法だ。もし日本が民営化への道に踏み出してしまうと、再公営化を取り戻すまでに何十年という歳月と何千億円という負債を抱えることにもなるであろうと警告する。しかも、値上がりする水道料金を支払えない人たちへの給水を止めて、干し上げるという厳しい過程まで付け加えて。そういう意味で、「人権」なのだ。

 想像力を働かせてくださいという、彼女の懸命な声が、肚の底に響き残る。想像力とは、頭で思いめぐらすことではない。ひとつひとつ(例えば、ホームレスのブルーシートを受け止めるように)それぞれの身に応えるようなイメージなのだと思う。

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