2020-7-4のこのブログ「暮らしが社会や政治と繋がるところ」で、ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(新潮文庫、2020年。2016年太田出版初出)に触れて書き記した記事が、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』とクロスして、考えさせるところがあった(2021-7-6「経験主義の奥行き」)。
要約してしまえば、こう言えよう。
当為主義的な「コミュニズム」の正義は(「正義」そのものが相対化される現代においては)、カントのいう「仮言命令」になってしまった。それを「定言命令」として提示するには、「気候正義」の力を借りなければならなかった。それが斎藤幸平に私が感じた「コミュニズムの軛」であった。
斎藤幸平は「コミュニズム」への現実的例証として「コモン」を取り出し、しかも「コミュニズム」をいつしか「社会主義」と言い換えて論述を展開している。彼の胸中では「コミュニズム」は最終的到達点の理想形態、それまでの過渡的かたちは「社会主義」だと考えているのかもしれない。だが、ヨーロッパを引き合いに出して論じるのであれば、そういう原理的な説明では賄いきれないくらいヨーロッパ論壇の「社会主義」概念は、論理的にも経験的にも様変わりしている。そこを知っている(はずの)斎藤が素知らぬ顔で、融通無碍に原理論的な「コミュニズム」を用いるのは、(無意識であっても)お粗末である。
ヨーロッパ社会が、理論的にも経験的にも通過してきたこととは、東ヨーロッパの社会主義時代であり、それとの融合をやりくりしながら目下経過中のEUの統合である。明らかに資本家社会的な市場経済の上で、その自由主義的な開放がもたらす社会的な諸矛盾を政策的に調整している経験である。それを民主社会主義と呼ぶのか新たなアソシエーションと呼ぶのかはさておいても、それが展開される条件が備わったのは、善し悪しは別として資本家社会的な市場経済がもたらした「ラディカルな潤沢さ」である。となると、資本家社会のもたらした径庭を、「資本の原始的蓄積」という原理的な概念で単純に蹴とばして、すぐに「革命」へ結びつけるのは、暴論と言わねばならない。その「暴論」の源が、斎藤が抱え込んだ「軛」にあると私は睨んだわけだ。まずは、己自身を「軛」から解き放って、現実過程からモンダイを提起しなおすことが重要なのではないか。
マルクスが、「資本論第一巻」を出版したのちの研究でロシアの伝統農法を尊重することへたどり着いたということも、それを教えている。そこまで歩いて来た人類史的な文化の足跡に自分自身も立っていることを踏まえて、モンダイを立て、それを踏まえて解決への道筋を探ること。それこそが、「暴論」という空想的なコミュニズムに走らないための第一歩ということなのだ。
つまり日本においていえば、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた1980年代を経過して「一億総中流」と呼ばれた物質的に豊かな時代を(わが身も)経過したことによって、人々の暮らしが変わり、文化や芸術や遊びが広がり深まったことは、(一般的に言って)まちがいない。その80年代に生まれた斎藤にとっては所与の環境であったろうが、戦中生まれ戦後育ちという災禍の時代に物心ついて生きてきた私たちからすると、その社会的な大きな変容の評価を(善し悪しは別として)抜きにして、いまの市場経済のモンダイを論じることはできない。
斎藤幸平の『人新世の「資本論」』に感じる違和感の最大のことが、そこにある。
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行きがけの駄賃で、気になったことにひとつ触れておきたい。
斎藤は留めようのない「欲求」の「自制」を呼びかけ、それが「革命」だと提示している。「欲求」ではなく「欲望」だろうと、まず私は思う。「欲求」はフィジカルな欠乏を満たそうとする衝動、満たされれば、消失する。腹が減ればものを食べたくなる。「欲求」である。食べれば満たされる。だがうまいものを食べたいというのは「欲望」である。食べてもまた、「よりうまいもの」を食べたいと欲する。「欲望」こそが、持て余すほど面倒なヒトのクセである。
と同時にそれは、生きる原動力でもある。「欲望」は満たされるとさらに次なる「欲望」へと増殖する。といって抑制すればいいというものでもない。そう、たとえば研究者なら気付く。つまり自分自身の研究活動の原動力である好奇心も「欲望」の表出形態のひとつだからだ。
「自制」を「革命」と呼び掛ける斎藤に私は、「前衛論」を重ねてみる。と同時に、カトリックの司祭を思い浮かべた。精神論である。かつての日本帝国陸軍を思い浮かべてもいい。ある種の宗教的心情がベースにないと、とても現実性のある提案だとは思えない。
だが、そのような荒唐無稽な提案が罷り通る現実があることを、アメリカのトランプ政権とそれを支持する半数近いアメリカ有権者の振る舞いをみると、思い当たる。そのような幻想の時代に大きく踏み込んでしまっているのが、私たちが身を置いている社会である。(つづく)
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