2021年7月20日火曜日

神の視線、人の視線

  どこかのTV局の番組で、池上彰が「解説」をしている。私はこの人が嫌いだ。

 どうして嫌いなのか?

 自分がどこに立ってどういう角度で見ているかを、いつも透明にしている。そういうのを「公正」と心得ているのか、「世界はかくかくの仕組みによって、しかじかの利害が絡まり合って動いています」と「解説」する。まるで、学校の教科書のような説明の仕方だ。むろん、いろいろな立場のヒトが、どのようにそれに向き合っているかも組み込まれて入る。だがそれって、どこから見ているの? と疑念が生じる。つまり「解説」するあなたは、その「色々の立場」にどのように体重をかけているのかと思ってしまう。

「色々の立場」には、自分にもわからない「人間要素」が組み込まれている。岡目八目というから、すぐそばで見ているヒトには見て取れることもあろう。客観的なものの見方だよというかもしれない。神の視線と言ってもいい。でもどうしてあなたにその視力が備わっているの? と疑念は次々と追いかけてくる。その自問自答がめんどくさいから、敬して遠ざける。

 はたして世界は、誰が、どこを、どこから見ても、同じ仕組みで動いていると言えるほど、それ自体で見えるものなのだろうか。いやそうではない。それぞれの立場に立って物事を認識しているヒトたちには、自分でもなぜそう思うのか、なぜそう考えるのかわからないことが、たくさんある。私はそう思うから、池上彰の「解説」を信用していない。でもこれが、公正なジャーナリストのものの見方なのだよと池上は言うかもしれない。もしそこに、池上自身の重心の置き方、「人間要素」が加わっていれば、少しは関心を持って耳を傾けるかもしれない。だが、いつも彼は、透明人間=ジャーナリストなのだ。

 言葉はヒトのクセと、私は言ってきた。そうしないでいられないのがクセだ。言葉を使って世界を切り分け、名をつけて混沌の海から取り出してきた。ちょうど渡り鳥やサケマスが生まれ故郷を目指して帰ってくる方向感覚を持っているように、ヒトは言葉を用いて世界を(そして自分を)俯瞰する。あたかも誰が見ても、そう見えるかのように言葉を紡ぐ。だが当人でさえ、なぜそう考えているのかわからないコトゴトが数多ある。つまり、身に沈潜している人類史的、生育歴的由緒由来。それが「人間要素」として作用して構成しているのが、そのヒトの見ている「せかい」だ。

 とはいえ、サケやマスや山や森や川は皆さん共通して使っている「それ自体」じゃないの?

 そうなんだ。ヒトの言葉というのは、象徴的に使われている。何万年という径庭の間に、由緒由来が忘れられて、現在的な正当性だけが用いられるというのが、「ことば」なのだ。だから変遷する。それがまた象徴的用法だから、大から小まで種々あっても、イヌは犬と共通の言葉に象徴させる。個別/特殊が一般/普遍に広がる。人類史的共通性というのは、かなりちゃらんぽらんであることが必須の条件であると言ってもいい。いい加減だからこそ、広く用いられ、共有されている(かのように)受け止められる。

 それを使うヒトがイメージするヤマは、アラスカの雪をかぶったヤマかもしれないし、故郷の実家の裏山かもしれない。でも、ヤマを見ると上りたくなると聞くと、そうだよねえと相槌を打ってしまう。つまり言葉は、自分の発明品ではないのに、その言葉によって混沌の世界を切り分けて「せかい」がかたちをなしてくるってところに、人類史の遺産であると同時に、自分のものであるという両犠牲をもっている。それが「ことば」なのだ。

 学校で教わる言葉は、人類史的遺産としての「文化」の伝承である。「概念」も「イメージ」もちゃらんぽらんであるがゆえに、広く長く伝承されてきたとも言える。だがそれは、ひと度一人のヒトの内側に受け取られると、そのヒトの置かれた環境、立場、目下の状況によって「意味合い」が異なってくる。イヌは、スイスのマウンテンドッグであったり、チワワだったり、雑種の捨て犬だったりする。あるいはイヌが、安心の象徴だったり、吠えかかる五月蠅いご近所の飼い犬だったり、いつも腹を空かせているやせっぽちだったりする。そこにそのヒトとイヌとの「関係性」が浮かび上がる。「イヌそれ自体」を認識することは、ありえない。イヌそれ自体があるかのように「意味付ける」のは、生物学的にイヌを取り上げる限定的俎上においてだけなのだが、私たちは、いつしかその限定的「場」を取り払って、客観的な見方と位置づけてしまってもいる。

 こうして私たちは、たとえば「いぬを放し飼いにしないようにしましょう」という標語を誰にでもどこででも適用してしまえると考えてしまう。つまり社会的に共通している「概念」で通用すると思い込んでしまう。だが、イヌのイメージがヒトによって異なるのと同様に、イヌが繋がれていなくてはならないかどうかも、社会によって異なる。「関係」によって言葉の意味合いは、変わってくる。社会の共通規範という「限定的」場にモンダイが移行している。

 まして、現に目にしているものばかりか、「世界」のことごとには、目に見えない仕組みや曰く因縁が積み重なってきている。それらを一つの「概念」で切り分けてしまうってこと自体が、無茶といえば無茶、無謀といえば無謀なこと。だが実は、言葉が通じている(と思える)のは、場を共有しているという「共通感覚」がある証である。空間を共有していると言おうか、共同社会にいると言おうか。日本語が通じるだけでも私たちは、場を共有しているような気持ちになれる。それ自体も、ちゃらんぽらんである。

 大坂なおみが全米オープンで優勝すると、あたかも自分が勝ったことのように喜ぶのも、「共通感覚」があるからだ。逆にそういうのがないか、そのスター選手によって、一層自分の惨めな境遇の抱え込んだ鬱屈が募るヒトにすると、日本人たって母親だけじゃんとか、日本語もわかんないんじゃねえと、枠組みから排斥しようとする。つまり、人は違った考え方・感じ方を持っているというだけでなく、そのヒトの内面に抱えてきている憤懣や鬱屈(つまり、時間的な堆積する径庭)までふくめて、思案に入れなければならないのだが、そんなめんどくさいことは、ふつうしない。それよりは、社会や空間に関する一般的な概念を採用して、外れるものを疎外するほうが、我が身の内面をかき混ぜられなくてよい。

 そうやって、ヒトの第六感、である言葉は、ちゃらんぽらんであることによって人々をつなぐ紐帯として大いに力を発揮してきたのだ。

 池上彰の「解説」がちゃらんぽらんさを体現していれば、私は面白いと思ったかもしれない。だが、「神の目」は絶対なのだ。客観報道のジャーナリストは、ちゃらんぽらんではないのだ。

「ヒトの視線」は、それを備えているからこそ、身のうちに染み込むのだと思っている。

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