西村コロナ対策大臣が、政府の指示に従わない居酒屋などに対して金融機関も働きかけてほしいと要請したり、酒類の卸商に酒を卸さないようにと圧力をかけたことをめぐって、メディアはおかしいと大声を出し、首相も財務大臣も「おかしい」と受け容れて、とうとう西村大臣はすべてを撤回しなければならなくなった。
だが、首相や財務大臣が「おかしいことはおかしいといわなくちゃおかしいでしょ」などと語呂遊びをしているようなセリフを記者会見で吐くのは、鉄面皮だと私は思った。なぜなら彼らは、政府の要職に就いて以来、そういう手を遣って気に入らない人たちに圧力をかけ、官僚たちには迷わず左遷をし、業界へは取引停止の圧力をかけるのを常としてきたからである。
菅義偉が首相に着いたとき、彼の総務大臣時代や官房長官としてのやり口がいろいろと紹介されていた。自分に反対するもの、意見をするものに対して苛烈なほどの人事的処遇をしてきたと、強面であったのが印象的だ。つまり彼は、口舌が達者じゃないだけに、自らの力を周囲に知らしめる方法として、人事権を最大限に駆使してきたというのであった。その反照が、東北新社の息子の振る舞いであった。
例えば先月の半ば、平井卓也デジタル担当相が「NECには死んでも発注させない」という暴言を(内輪の会議で)吐いたと報道され、彼が撤回・謝罪するということがあった。しかし、あれはひょっとしたら、彼自身が仕組んだリークではなかったか(と私は推察している)。デジタル担当関係者の集まりで、「暴言」を吐いた。それが(録音証拠を備えて)報道される。大臣は撤回・謝罪する。だが、それだけだ。「NECには死んでも発注させない」という大臣の意思は、まちがいなくNECに伝わる。撤回・謝罪したのは、世間向け。政府の意向を汲もうとしないのであれば、そのような処遇が後に起こってもふしぎではない。そう受けとめてもらえさえすれば、平井大臣の意図は適うのである。実際、彼のその発言をめぐっては、「内輪の集まりだったのなら、その程度のことはやりとりしている(ちょっと言葉が乱暴だったけど)」と平然とかたる「識者」もいた。
日本の政府が、ロックダウンをしないでも、コロナウィルスへの対策を施すのに不都合はないとしてきた。それこそ「命令」さえしないで、「お願い」とか「自粛要請」で意図するところが実行されることを、財務大臣は「民度が違う」と誇ってさえいたではないか。あれは、世間的な裏の取り引きを「強制力」に代えてきた実績と成果が、世に知れ渡っていたからであった。表通りだけで商売も支配も終わっているわけではない。裏側の駆け引きとやり取りが組み込まれていたからこそ、海外とのやりとりも成果を上げてきたことを、1960年、1970年の日米安保条約の日米行政協定や思いやり予算や「密約」などが示している。それは周知の事実だ。
まして、国内的な支配において、金融業界や産業界が政府の指示を忠実に守ろうとしないってことは、「反日団体」といってもいいくらいと保守党の政治家たちは考えている。今回は、居酒屋という零細企業が相手。政府のいうことをきかない。ならば、金融関係から締め上げ、卸商から兵糧攻めにして干しあげてやれと、内輪の会議では(もっと乱暴な言葉で)口が滑っていたかもしれない。それを、若手のコロナ担当大臣が記者会見で口にしてしまったために騒ぎになった。宰相は、あたかも第三者であるかのように「総じて(宰相である)私の責任」と一般論へ持ち込んで、世間の批判をかわしている。
なんで、裏側の力を見せつけていうことをきかせようとする話を、具体的なコトとしてとりあげないのか。モリトモ学園モンダイの文書書き換えを認めてさえ、それを指示した高級官僚を出世させ、再調査を拒むという筋道の通らないやり方を、いつまでつづけるのか。それくらいなら、いっそのこと、アメリカの大統領トランプのように、司法で有罪になった身内補佐官を、収監直前に大統領令で特赦してしまうような「正直さ」の方が、コトが明確になって国民はすっきりする。なるほど今度の政府は、そういう奴等なんだ、と。もちろん、アメリカ同様に国民は二分裂する時機を過ごすことになろう。すでに日本は安倍政権以来、仲間内とそうでない人たちと二分してきたわけだから、裏側をそろそろ表通りに戻してやってはどうだろうか。
いつだったかよく名を知られた総合商社に務めた友人がリタイア後に、彼の仕事の三十数年を振り返って「商社の仕事とは」という話をしたことがった。これと言ってまとまりのあるメッセージを含んでいたわけではない。だが、その後その記録の取りまとめをやめてほしいと当人から依頼された。はじめ私は、まずいと思うところを削ればいいのではないかとやり取りしていたが、あるとき、そうではないことに気づいた。総合商社というのは、世界を股にかけて活動している。取り扱う商品にもよるが、原料資源ということにでもなれば、当然、南北問題も絡んで文化の違いが、現実の取引の表面に浮かんでくる。それを市場経済の経済原則だけで乗り切ることはできない。賂も、おもてなしも、ありとある手立てを講じて商取引を成立させるための尽力が要請される。つまり、総合商社の仕事を公表するということだけで、国内的にはおおよそ非難を受けないではいられないコトゴトがモンダイとなる。そう考えたのであろう。全部をオフレコにして始末したことがあった。
考えてみれば、アダム・スミスが資本主義経済の自由競争を説いたのは、プロテスタントの倫理が世の中に行きわたっていた時代であった。むろん、それも(日本風に言えば)タテマエで、現実過程は「死者を埋葬することすらできない貧困」が町中に広がっていたと当時のロンドンを描いた物語に記されている。でも経済取引は、レッセ・フェールを貫いて(プロテスタントの倫理を信じる自立した個人たちにとっては)公明正大であった。
ところが時代変わってグローバル化が地球規模に広がった。経済的格差は地球大になり、しかし、資本は文化の違いを乗り越えて、広がった。となると当然取引の決定打になるのは、経済的な取引のもたらす利害ということになり、経済原則だけは当然遵守しなければならない苛烈として力を揮う原理となる。プロテスタントの共通文化は、ない。札束でほっぺたをひっぱたくどころか、国際機関を通じて成立させた条約や国際法を後ろ盾に、有無を言わせない商取引に乗り出す。あるいは二国間に取り決めた「契約」によって、借款を返済できないがために99年間の港や空港の運営権を経済強国に譲り渡す途上国は、後を絶たない。つまり、プロテスタントの倫理という共通文化もなくなって、力の強いものが資本家社会的な経済原則に守られて力を揮う時代が、公然と横行している。それが新自由主義のもたらしている現実である。
そういう時代になったのであった。
国家は、企業活動を保護するということもあって、資本家社会の原則を固辞する。と同時に、グローバルな時代、国際資本の暗躍も働き掛けもあって、日本の政府機関へも、国際資本の代理人のような「専門家」が算入して、政策立案に携わっている。彼ら、彼女らが、なにを代理しているか、なぜ政策立案スタッフになっているさえ、(国民には)わからない。竹中平蔵のような「専門家」が参与として関わって新自由主義的な政策提起をすると、政治家たちはその舞台の上で踊るしかない。
ワシら知らんもんねと構えていた私たち庶民も、気が付いたら身動きが取れなくなっているってことも、ありうる話だ。居酒屋の話と思っていたら、とんでもない負債を背負いこまされて青くなるってことか。そう思うと、本気で行政に気持ちを傾けなければならないのかもしれない。
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