齋藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社親書、2020年)を読む。マルクスが『資本論』第一巻を書いて後、20年ほどの間に書きためた膨大なノートに目を通して、マルクスの視線の、その後の変容を辿り、『資本論』に対するこれまでの解読と異なる読み解き方を示す。それを基点に、行き詰っている現在の資本主義をどう「革命」していくかを提起する試みである。
新しい世紀に入ってヨーロッパを中心に提起されてきた経済社会の論題を概観して、温暖化などの地球環境問題を梃子に道筋を探る扉を開けようとしている。ヨーロッパと比べてはるかに地球環境問題に鈍い反応しか示していない日本社会では、やはり何周遅れかで走っている観を免れないが、島国という地政的な位置関係が大きな要因の一つじゃないかと思わないではいられなかった。
それにしても、どうしてマルクスから説き起こさなければならないのか。そこが、この著者の心中に抱えている「軛」によるのであろうと推察する外なかった。
というのも、地球環境問題に取り組むのは、そのモンダイの発端が産業革命にあるとする通説からすると、それ自体が直接に連関している。資本家社会的な生産関係から変えていく必要があると主張する展開は、それ自体で成立するのに、なぜそこに、マルクス主義的な「革命」を介在させる必要があるのか。それがじつは、マルクスの「資本論」を生産力主義的に解釈した結果であると齋藤は指摘する。そしてマルクスの提起は、資本主義の生産関係をモンダイにしていたのであって、その誤解がスターリン(主義)に結びついたと考えているようだ。だがそうだとすると、なぜ、生産力主義的な解釈が罷り通ったのかを、その後の「解釈」を担った人たちの歩んだ歴史過程から読み取ることになるか、マルクスの「資本論」の哲学に、そう誤釈される根拠があったと読み解くことになろうが、今の時代になって、それがどれほどの意味を持つのか、理解に苦しむ。
齋藤自身が提起する「革命」は「欲求の自制」である。例示している取り組みは、マルクスを引き合いに出す必要もないくらい、現実のモンダイであり、具体的な取り組みである。だが、もちろん、それらの一つひとつが根柢的な生産関係の大転換というグランドデザインに結びついているなら、「革命」に向けた「改良的取り組み」と呼ぶこともできるが、本書の中では、広井良典が取り組み紹介していることほども、具体的ではない。
著者が心中に抱えている「軛」とは、この著者がとらわれているマルクス主義の呪縛。つまり、「マルクス主義」をソビエトマルクス主義・スターリン主義や中国マルクス主義・毛沢東主義とは峻別してみてほしいという声に聞こえる。あるいは、マルクスの提起した「コミュニズム」を、自身の心のふるさとのように感じている出自に対するこだわりである。いまさら「科学的社会主義」を再提起したいわけでもなさそうだ。
なぜそれを「マルクス主義」と名づける必要があるのかと私は思う。アナーキズムとは国家権力への向き合い方が違うと「あとがき」で、行きがけの駄賃のように触れているのも、著者自身の抱えている「現在の何か」に関する余計な言及のように思えてならなかった。
もっと割り切って言えば、トマ・ピケティのように、21世紀のこの地点における資本家社会の行き詰まりを、内部からどう「革命」していくかと「人新世の資本論」を提起していけばいいものを、なぜ、「コミュニズム」と手垢のついた用語で包(くる)まねばならないのか。もちろん、ひとつの論題に対するアプローチの仕方にマルクスが差し挟まれても、それ自体はなんということもない。だが、初期マルクスとか、マルクス哲学とかではなく、マルクス主義として問題提起するのなら、20世紀マルクス主義の径庭に関して自己批判的な言及があってもいいのではないか。
まして「コミュニズム」とカタカナ書きにして「将来イメージ」として提示するのなら、せめて柄谷行人ではないが「アソシエーション」と言い換えるくらいの心遣いをしないと、なんで丸のまんま「マルクス主義」って使ってるんだと読む者としては気持ちが落ち着かない。
それくらい、「コミュニズム」とか「マルクス主義」という言葉の持つ現実過程が引きずってきた思想的な手垢は、哲学的に解析するにしてもまだまだ未解決の問題を宙づりのまま残していると私は考えている。戦中生まれ戦後育ちというか、左翼隆盛の戦後アカデミズムに良くも悪くも薫陶を受けて育った世代としては、そこまでわだかまってこそ、現在、わが身の裡の言葉として.「せかい」を口にする思想的自立の地点に到達できたと思っている。まだ30代の半ばの著者・齋藤幸平としては、なんのことかよくわからぬかもしれないが。
あるいはこうも言えようか。
1960年代前半までは当為主義的に独立武装を唱えていた日本共産党が、その後、ほぼポピュリズムの政党として身を処してきた。いまや憲法九条の堅持を掲げ、天皇制をも容認する大衆政党である。かつてマルクス主義が掲げていた「前衛論」などが、共産党の内部で哲学的にどう扱われているのか(私は)知らないが、もし未だにそれを堅持しているなら、ポピュリズムの裏側には「自前の正義」が隠されている。提示される諸施策は、巧妙な策略であり、マヌーバーである。それ自体が、開かれた合意形成とは程遠い、斉藤幸平のいう「閉鎖的(政治)技術」である。民主主義とは程遠い。せいぜい、習近平の中国のような統制社会がイメージされるばかりになる。
まず、こうした疑念を抱いて読み進めた。(つづく)
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