一昨日(7/10)の朝日新聞「be」の人生相談「悩みのるつぼ」に《「価値のない女」とののしる姑》という投書がのった。40代の女性、子どもが生まれなかったために姑から「長男の嫁として恥。病気になったことを謝れ。価値のない女」とののしられるという。二度と会いたくないと思っていたら、コロナ禍。今のところ会わないで済ませているが、この後そうはいかないだろう。葬儀にも出たくない、と限界に近づいていることを匂わせている。
相談に答えるのは、文筆業・清田隆之さん。「夫さん」(と回答者は言う)との関係は悪くないようだが、「夫さん」は「(母親も)家族なんだから」と、そのモンダイに深入りしようとしない。それなら、「ペーパー離婚」して、「イエと決別しては」と応じる。
「ペーパー離婚」てなんだ?
法律婚から事実婚にしろという。つまり、「離婚」して、姑との関係を断ってしまえ。「夫さん」には不満がない。形式的に一線を画すことが必要。
《ペーパー離婚には改姓に付随する手続きや財産分与の取り決めなど面倒な作業も伴いますが、それは家族という関係の中であいまいにされてきた自他の境界線を引きなおし、個人としての輪郭を明確にする行為》
と、具体的である。つまり、いまのご時世、個人が単位。家族制度はその実質を変えているのだから、そこまで突き詰めて「事実」をたて直せというワケ。「夫さん」は、母親に盾突くなど思いもよらないらしい。その「夫さん」に相談者も不満は持たないらしい。つまり、向き合っている人それぞれの「関係」は変えようがないのだから、個人として「関係」を紡ぎ直すと、嫌な他人とは関わらなくて済むというのだ。
現象学という哲学の領域なのか、事実から物事を立論する社会学的方法なのか、わからないが、人と人との関係を、目の前に現れている現象を「事実」として受け止め、その論理的筋道に沿うようにコトを考えれば、「ペーパー離婚」が解決策として現れるという、この文筆業の方の回答は、なるほど現実的だ。今向き合っている「関係」を変えたければ、そこまで具体的に手立てを講じろというのは、じつは「夫さん」との関係も、その限りで向き合いますよという限定的なものになる。「夫さん」の身につけている文化には、手を触れない。でも私(「妻さん」というのかしら)の身に抱えてきた文化にも手をつけないでねと、個人が屹立する。新聞紙面を飾る「人生相談」としては際立つ面白さを湛えていた。
夜、テレビの「チコちゃんに叱られる」を観ていたら、番組の最後に「動画を送ってね」と呼びかけがあり、送られてきた動画の披露をしている。高校生くらいの息子がギターを弾き、母親が江戸川の生ごみの歌を歌ってなかなか面白い。動画の最後に肩を寄せ合ってにっこりとほほ笑むご両人のたたずまいも堂に入っている。私たちが子どものころばかりか、私たちの子どもが高校生のころを思い出しても、この親子のような佇まいは、おおよそ思い浮かばない。子どもは二人とも親元を離れて、遠方に居を構え、年に1回会えればいい方。孫の受験などともなると、顔をみせることもしない。それはそれで仕方がないと私は思っているが、カミサンは育てそこなったと思っているのかもしれない。娘が子どもの進学先を遠方に考えていると知って、できるだけ親元に近い所に進学させた方がいいとアドバイスしている。
番組に動画を投稿した母子をみていると、先述の「夫さん」ではないが、母親に苦言を呈して諫言するなんてことは、考えられないというのが、彷彿とする。仲が良いというよりも、文化的な紐帯を変えたくない、変えようとしない、変えられないものであると決めてかかっているように思える。その延長で、「夫さん」も「妻さん」も、結婚して後の相互の文化的な変容と融合とが、これからも変わらないものと考えているのではなかろうか。それでは、つまり、結婚というのは、両者の同棲であって、互いにもち来っている文化や領域には踏み込まないで仲良くやって行こうねと言っているようだ。人と人との関係って、そういうもんじゃないだろう。
暮らしの基礎単位が個人だということと、個人は、相互の関係を取り結んでも変わらないってこととは、違うだろう。相互の関係とは、互いに変わることだ。むろん(相手を)変えようとすると、悶着になる。だが、嫌なことを言ってくる相手でも、関わらざるを得ないのなら、率直に自分の憤懣を伝えればいい。それで変わるか変わらないかは、相手のモンダイだ。「価値のない女」というのなら、「あなたとは関わりたくないから縁を切ります。出入りしないで下さい」と、面と向かって言えばいいではないか。そう言えないとすれば、相談者の「妻さん」の方に、何か弱みがあるのじゃないか。たとえば、「夫さん」に(経済的に)頼りっきりで、個人として自律していないとか、人に対してキツイことは言えない。いつもそういうことは、周りが代わって口を聴いてくれた、とか。そういう良いとこのお嬢さんで育った人柄であるとか。そんなお方が、「ペーパー離婚」の面倒な手続きを「夫さん」相手にできるとは思えない。ましてその後に、「夫さん」の所へやってくる姑に、「出入りしないでください。妻さんの家ですから」といえるだろうか?
「ペーパー離婚」という発想は、フランス風に宗教的なカトリックの縛りがきついなら「事実婚」を法制化して、現実に支障がないようにしましょうという発想に近い。だが日本の場合、夫婦別姓さえ暗礁に乗り上げている。まして、「事実婚」を万端法制化するほど、家族に関する政治家たちの観念は現実化していない。つまり社会学的にか、現象学的にか、モノゴトを見る目が培われていない。むしろ、この母親のような発想の政治家たちが未だ力を揮っているとみた方がよいのかもしれない。
現実はすっかり、チコちゃん動画の投稿者のように家族が変わってきているんですよ。「ボーっと生きてんじゃねえよ」って、チコちゃんに叱られるわよ。
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