東京都にまた、緊急事態宣言が発令された。その報道を聴いている方は、だから何が変わるのかと思っている。政府の、ポーズ。コロナウィルスの広がりを抑えたいという気持ちを表す、リップサービス。オリンピックは、当然、止めない。お盆まで含めた国内の広がりを抑えたいから、来月の22日までの期限。「宣言」を発令する「真意」ばかりが俎上に上り、それがウィルスの感染拡大を防止するのに力になるとは、思っていない。
IOCに場所を貸す。五輪を招致するとお願いし、一年延期すると願い出たのは「我が国」なのだから、いまさら引くに引けない。主催者でない日本政府は、そう考えている。メディアも、どうしていいのかわからないから、政府に文句をつけるだけ。それが「自助」だと考えているかのようだ。
そのなかで、一人目を惹いたのが、元JOC委員・春日良一。オリンピック強硬開催に批判的なMC・坂上忍の主張を押し返して、「オリンピックは特別なんだ」「オリンピックを開催することで、人類がコロナに負けないで戦っているということを示すことになる」と、「子どもの修学旅行が中止になった」「イベントが開けない」と書き記したバックの庶民の不満との、次元の違いを強調して力説する。その場のギャラリー的参加者は、「何で五輪が特別なんだ。五輪関係者だからそう想えるだけなんじゃないですか」と、冷や水をかける。
そのやりとりの声が、空しく響く。なぜだろうか。
春日氏は、オリンピックに(現在的な)新しい物語を付け加えていこうと考えている。「平和の祭典」とくり返して平然としている宰相の鉄面皮には、我慢ならないと感じているようだ。半世紀前なら、そう言っても、タテマエとしてはそうだねと、国民は受け入れていたであろう。「こんにちは、こんにちは、世界の国から・・・」と三波春夫が歌っていたのは、敗戦から立ち直り、高度経済経済成長へ向かっていた背景の裏付けもあって、交流を盛んにして行きたいホンネともいえる。「世界の国から」商品注文を得たいと、新幹線や高速道路を整備して、いわば五輪自体が日本を舞台にした万国博覧会みたいな様相を呈していた。半世紀近く後の中国みたいに見える。
そう。コロナウィルスもあるが、なにより経済的な成長期が終わり、成熟から停滞期に入っている背景がある。にもかかわらず、政府・宰相らは相変わらず、経済成長の見果てぬ夢を追いかけて五輪の招致に命運をかけてきた。IOCの関係者たちも(たぶん)「オリンピック貴族」と呼ばれるくらいなのだから、リッチなご利益を潤沢に得ているのであろう。何より主催団体として、放映権などの附随権益に取り囲まれている。思惑は、一致している。
さて、命と五輪とを引き換えにできるかと意気込むほど、(私は)両者を切迫してみていない。コロナ対応は「五輪バブル」というが、はたしてバブルが弾けないように運びきるほど、実務的な万端が整っているかと、端から信用していない。だがTVを観ていたら武見敬三という自民党の議員が、「ウガンダの選手団から感染者が出たケースは、その後のこと考えると、良かったよ」と、事後の実務的手当てに何が必要か教えてくれたと具体的に話をして、ああこういう人もいるんだと、ちょっと見直した。まず自分たちの対応に何が必要かわからないというところから、モノゴトを考えることが、いまの政治家には欠かせない資質だと思う。
政府も五輪関係者もメディアも、コロナに関連するかどうかではなく(もちろん関係しているのだが)、五輪そのものが(コロナの感染広がりと相俟って)商業主義の限界に来ているのではないか。開催時期や競技時間の設えが、放映権のもっとも大きなスポンサーの市長時刻に縛られるという滑稽さは、東京五輪だからこそ際立っていた。そこに手が付けられないのなら、もはや最大放映権者の現地で開催ということになるのが、一番いい。そうしてしまえば、「平和の祭典」などという虚飾をはぎ取って、世界スポーツ・ショウとして、開催すればいい。カネがモンダイなら、カネに沿うように設えればいい。そうすると、それに余計な幻想を与えてきたこれまでの「虚飾」がはぎ取られ、国威発揚、ナショナルな昂揚も、スポーツにかける精神主義的な幻想も、きれいに拭われてさっぱりすると(私などは)思う。
もしオリンピックが、再生するとしたら、商業主義ときっぱり手を切り、国威発揚もかたちを変えて人類力発揚に衣替えして、スポーツを軸とした文化の祭典として、これまでとは別の物語を紡ぐしか道はないのではないか。春日良一氏のあがきは、そのように訴えているとみえた。
さて、どうなるでしょうかね。
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