2021年7月24日土曜日

バブルの中と外の五輪開会式

  オリンピックの開会式があった。TVで観ていて、こんなにたくさんの国から来ていたのと思うほど、小国の名が紹介される。植民地がそのまんま島や地域の名で行進しているのも「初見」であった。1964年の時は学生だった。五輪には背を向けて田舎へ帰ったりしていた。いま、TVなどみているのは、齢を取ってボーっと生きているから。でも、もう少し早い時間にしてくれないかな。スポンサーの御意向に沿っているのだろうが、1時間も見ていられない。

 でも演出は、夜向け。映像を駆使していろいろな装飾がヴァーチャルだ。1964年の記録映画で観たような「隊列」はすっかりほぐれて、やわらかい「祭典」という関係が浮かび上がる。競技場の屋根から上がる花火も、外(上空)からみている分には、見栄えがするじゃないか。でも、TVも切り取った画像だから、何処からどのようにみえているのかは、わからない。

 カ行の国が終わらないうちに風呂に入ってラジオを聴いていると、外からの中継というのをやっている。花火を見て「これだけでもよかったねえ」と話す観客に、良かったねえと思う。競技場の中の音が止んだときに、シュプレヒコールが聞こえる。そうか、私が観ていたTVは、国営放送のNHKであったと気づいた。民放ラジオは、立ち位置が違う。NHKは完璧に五輪バブルの中に身を置いている。民放は、バブルの中を外を全体としてみている。どちらが好ましいかは、言うまでもない。

 そう言えば開会式当日(7/23)の朝日新聞には、「森喜朗を名誉顧問として復活させよう」という動きがあることが報じられていた。それを目にしたとき、そうだよなあ、オリンピックっていうが、所詮、東京2020の主催は自民党なんだよなと感慨深い思いがした。バブルって言えば、安倍政権以来、そっち側とこっち側というふうに、端境を区切ってバブルに閉じこもるやり方が、自民党のお家芸になっていたなと思った。いつ頃からだったろうと思いめぐらす。小泉政権のころからか。自民党をぶっ壊すっていうこととか、私の(郵政民営化の方針に反対するのは)「抵抗勢力」と規定して、立候補の推薦も認めないとして以来、お家芸になって行ったんじゃないか。

 と書いていたら、TVのニュースで、「選手村の人たちのPCR検査を毎日行うって規定しているのに、行われていない人にはかくかくしかじかするという内部マニュアルにあるのは、どういうことか」と野党議員に追及された内閣官房の担当者が、「規定通りにやっている。こういうマニュアルが外に漏れるっていのがモンダイだ」と応じている。アハハ、こういうのを語るに落ちるっていうのだね。みな、内輪のこと。外の漏らすなというセンスも、古い自民党(ばかりじゃなく、お役人)のセンスだよなと思った。まさしくバブルの中だけに通用する「身内」意識が憚りなく外に向けて発せられている。

 それでもう一つ気付いた。選手団入場の先頭に、日本の国旗を持ったかつてのメダル選手に救急隊員を加えた一段が入ってきた。そのまま掲揚塔にまで行くのかと思っていたら、自衛隊の隊列に国旗を手渡した。ああ、これは、欧米の真似だなとおもった。国旗を掲揚するのは、まさしく軍隊の役割。受け取った隊員たちの立ち居振る舞いはきびきびしていて、心地よい。

 でもね、と思う。1964年の東京五輪で金メダルをとった重量挙げの三宅義信さんが、キビキビではなくとも掲揚塔に上がるときによろけたっていいじゃないか。だってニホンジンだもの、と嘯くくらいの心持ちの方が、事後の日本の姿を表現するのにふさわしいのではないか。そう思った。

 眠気に勝てず、開会式はサ行に入るころには観るのをやめてしまった。ただ、シリアやコソボの選手団の入場を観ていて、そうだね、スポーツってのは、「国際的なルール」が確立している「場」だ。国際関係も、このように「国際的なルール」が確立しさえすれば、無用な争いではなく、ステージを共有して「異見」を戦わせることができる。そういうことに、力のある参加国は、気づいているのだろうか。それとも気付かぬふりをして、とぼけているのだろうか。

「難民選手団」とか、「ROC/ロシアオリンピック委員会」という名称の入場をみながら、この人たちこそ、身に沁みてそう感じているに違いないと、国家と社稷の大きなズレがどこにでも起こっていると思った。

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