2021年7月27日火曜日

次の世代は、愉楽ではなく佇まい

  どこを見てもオリンピックというのがTV番組。でも、観る分には面白い。ひとつ、日本の選手が勝敗にかかわっていると、差して興味がないゲームも面白く観ることができる。はらはらするのだ。共感性が高いのかもしれない。ずうっと見続けるほど強い関心はない。また、スケートボードのようにどこがどう採点されているのかがわからないと、ふ~んと関心はするが、魅かれるほどではない。だが、卓球のミックスダブルスの準決勝・ドイツ戦や決勝・香港戦は、ほとんど負けるかもしれないという予測を裏切って勝ち進み、最終セットで勝ち抜けるというのは、技術的な優劣に差はないが、どんな思いをもっていまサーブをしているのか、打ち返しているのかと思うだけで、ハラハラドキドキしてしまう。単純なのだ、こちとらは。そうして最終セットで、ほんのわずかな差で勝利を収めたときの選手の喜びようは、そうそう、そうだよねと気持ちも同調して飛び上がりたくなっている。勝利の秘訣を聞かれた伊藤美誠が、そのひとつに「試合を楽しむ」という。それにカミサンが反撥を感じる、といったのに対して私は、「そう言って自分を過度の緊張から救済しているんだから、いいじゃないか」と、鷹揚にみてやることが年寄りの立ち位置よと大人ぶってみせる。

 柔道の兄妹金メダルという物語も、ずいぶんなプレッシャーだったんじゃないかと思いながら決勝を観ていて、勝った妹選手が畳に伏して喜びの涙を流しているだろう姿に、ホッとしている心もちを察して共感している。と、今朝のTVニュースで、柔道男子73キロ級で大野将平が金メダルをとったと報道し、勝ちを制した後静かに挨拶を交わし、相手選手と抱擁を交わした「つつましやかさ」に、まず感動する。そうだよ、こういう振る舞いが「柔道」という道筋の本流なんだよねと、喜びを隠さないゲームの勝利者が数多入る中で際立つと思っていた。大野将平は(応援してくれた皆さまへと要請された)インタビューに応えて、「(五輪の開催に)賛否両論があったのは承知していますが、この試合を見て一瞬でも心を動かして下さることがあったら、光栄です」と応えていたのが、印象に残った。わたしたち年寄りの好感センスは、こうした古武士的なつつましさと「心を動かす一瞬」という肝心要を取り出すセンスに、涙するほど気持ちが揺さぶられる。そうだよ、それこそが、わが好きな道を究めることが「おおやけ」という普遍性をもつ瞬間なんだよねと形而上的にまとめている。

 そこでひとつ、気付いたこと。

 民主党の蓮舫議員に「五輪に反対していたのに、オリンピックなんて見るなよ」とどなたかが毒づいたとネットメディアが報じていた。私もこれまでさんざん、五輪は自民党主催みたいになっていると非難してきたから、こういうネットの蓮舫非難が掠るように突き刺さる。

 だが、上記したようにゲームに感動したり、若い人たちの振る舞いに感心したりしているのは、それこそスポーツが、限定した共通のルールに基づいて取り交わされる「たたかい」だからだと考えている。本性的に「たたかう」ことによって自らのを起ち上げるのが、ヒトの常。そのヒトが「たたかい」を好むメカニズムと要素を失わず、なおかつ平和裏に「たたかう」ことを現実化しているのがスポーツである。

 だが現実に展開しているスポーツは、五輪もそのほかのゲームも、商業主義的なメカニズムにのって、グローバル化してきたし、人々の間に広がってもきた。そして今展開している五輪も、すっかり放映権やスポンサーのご機嫌を取るかのように金と政治の論理に引き回されて、コロナ禍に開催されている。蓮舫が何をどう行ったか知らないが、たぶんそういう風潮に「反対」の声を上げたのであろう。それに対して、開催する側は、五輪の開催意義を率直な言葉で表明したか。

 2021-7-9の本欄、「虚飾をはぎ取りカネの意向に沿うように」で述べたように、空疎な言葉を積み重ねて「選挙有利」を算段するのは御免だと、五輪そのものの現在の成り立ちを、新しい物語で語ってよとお願いした。それに五輪賛成の方々は、一言もコトバを紡いではいなかった。「反対していたなら五輪をみないでよ」というネットの蓮舫非難は、スポーツそのものがもっている「倫理的要素」に気づいていない。スポーツが国境を越え、平和をもたらすという「ものがたり」は、じつは、掘り下げていけば、現実の政治世界で我欲にまみれ、我益に執着している我利我利亡者の心裡を洗い流すような批判精神に到達する。そこまで突き詰めて考えよと言っているほど、国際的なスポーツ競技の水準は到達しているとも言える。だから、観ている私たちは、感動もし、次の世代への希望を感じることができているのだ。

 ことに大野将平のことばに感じられる「現代文化への批判」が、コロナウィルスの蔓延状況下では重要と思われる。愉楽に意味を見出すのではなく、佇まいに意味をみよ、と。愉楽は、快―不快の価値づけを伴う感覚だ。だがそういうセンスは、そのほかの要素を緩和するための便法としては意味を持つだろうが、それ自体としては十分ではない。それに対して「佇まい」は、敗者との「かんけい」への配慮を漂わせる。この「かんけい」への配慮こそが、これからの時代の不可欠のヒトが生き延びる要素である。そう感じただけで、わたしの五輪は大満足である。

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