1年前、2020年07月23日に「原点からみる、公共ってなんだ?」とブログに掲載している。先日(7/19)、「コモンってなんだ?」と記したことを同じことを、すでに記していることに、今ごろ気付いた。
《映画『パブリック――図書館の奇跡』は、「公共性」の原点は「生きる」ということの保障に発すると、メッセージを送っている。つまり、『ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス』が展開した「文化」という領域での熱意の大本は、いのちの保障からはじまっていると示している。しかもその「命の保障」とは、既存秩序の維持というより、もっと原点的にとらえてみると、現在秩序を裏づけている政治・社会制度や道徳や規範感覚をも疑い・崩してとらえ返してみなければならないのじゃないか。逆にいうと、私たちは身をおく状況にどっぷりとつかって、ホモ・サピエンスとして出立した原点をすっかり忘れて、ノー天気に暮らしているなあと思い当たる》
「コモン」を「公共」と翻訳して、いつも「おおやけ」と考えている自分に気づいたというのが、今年7/19の記事。「公共」がじつは「おおやけ」=「公ー共」の動態的平衡を意味していたということだ。去年の記事を読んで、「公」が「おおやけ」観念の全面を覆ってしまっていた、と改めて気づく。「おおやけ/コモン」の原点は「生きる」ということの保障に発すると、すでに書いている。
発生史的にみれば、「おおやけ」が「お上」、すなわち政府行政権力機関を意味するのは、ずうっと後の出来事。原点は、「生きること」とは「共に生きること」であり、すなわち「おおやけ」であった。それが、権力の発生と分業制の誕生によって、表裏の関係の逆サイドに従属が発生し、分業によって提供されるコトゴトの享受者という立場が生まれたとみると、「お上」が「おおやけ」になった節理がわかりやすい。しかも、上位権力者の角逐闘争は繰り返されたが、従属者と支配者の闘争は、日本列島においては、さほど明確に行われなかった。常に、いずれに支配者を選ぶかというかたちでしか現れなかったから、「おおやけ⇒公」が「共生」と結びつくのは、高徳な支配者が誕生したときに限られたといっていい。それを、当為的に表現したのが、儒教の徳治政治であった。こうして、「おおやけ」は「生きること」から切り離されて権力闘争に移行し、いつしか私たちの心裡に、「おおやけ」とは「お上」のことという等式が生まれ、それが観念の全面を覆ってしまった。
コロナウィルス禍によって、政権の対応が、文字通り「生きる」こととの関係で問われ、日本の政府は「自助」「共助」「公助」と、「おおやけ」は政府が統括していると自称すらしていたのに、その実ほとんどこれといった明確な指針を提示することができなかった。情報化が社会的に急速度で広がっていることもあって、「情報」を秘匿してすすめる「公」の体質が、露わになってしまった。
なんだ彼らは、自分たちの身を護ることだけに懸命で、「共に生きている」ことをさほど尊重していないと、経験則的な知見を例証するように実感させた。つまり信頼しなくなった。そうなってみると、彼等の口にする言葉が、上っ面を飾るだけの空疎な響きしかもたないことも、不信を証明するように明らかになった。
もう私たちに、たしかなものとしては「自助」と「共助」しか残されていない。ならば、そこであらためて「かんけい」を紡いでいってみようと、動き出す。それが、コロナウィルス禍の現在の人々の行動である。そこが根柢となって情報が流通するから、信じたいものしか信じないという風潮が広がる。それは同時に、自分自身を疑って吟味するというスタンスが消えていく過程でもある。
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