伊坂幸太郎『モダンタイムス』(講談社、2008年)を読む。妙な因縁を感じている。むろん、面白い。
因縁というのは、何度かここで書いて来たカート・アンダーセンの『ファンタジーランド』がとりあげている「ファンタジー」を、違った角度から取り上げているからだ。アンダーセンは「事実」と「物語」のどちらがリアルかフェイクかわからなくなってきたアメリカが、1980~1990年代に完成したような書き方をしていた。アンダーセンの本が出版されたのは2019年だから、2008年に出版された伊坂幸太郎の本書が、アンダーセンを参考にしたわけでもない。でも同じテーマを取り上げている。600ページを越える二段組みというと、びっくりするが、活字も大きい。挿絵もある。漫画雑誌「モーニング」に一年間連載されたと「あとがき」にある。21世紀末という時代設定の活劇物、という風情だ。
この二つの本の著者は、アメリカと日本という文化の流れは違うが、高度な消費社会を何年も過ごしてきたという点では、共通した文化をもっているともいえる。どちらも作家。それを読み取っている。作家というのは、たいしたものだ。そう感じた。
大きなテーマは、現代社会の「システム」。「仕事だから」と大量虐殺をやってしまうアイヒマンのように、私たちは日々、「システム」に組み込まれることで、その「仕事」が何に関与しているか知らないで済ませている。もちろん、罪の意識無しに「仕事」に携わる。この大テーマと書きこまれる子細に現れる伊坂の「テツガク」が、いかにも「わたし」の好みに合っている。
文化の風を読むだけではない。その文化のもっている本質的モンダイのひとつが、伊坂の作品のなかに書きこまれている。形而上的には普遍と特殊をめぐる哲学的モンダイといってもいい。それが人のかかわりの現場でどのように現れて来るか。現場に身を置く人は、それにどう対処するのが「正しい」か。小説を書くということは、そうした「実践理性」に一つひとつ始末をつけて、作品に書き込みをしなければならない。大変だなあと思うと同時に、面白い「現場」に身を置いているなあと、ちょっと惹かれるものを感じる。こちらに才能があればだが、もうこの歳。言ってみただけだ。
それを敷衍させてひとつ指摘すると、ワクチンの集団接種に関する文科大臣の発言だ。学校で集団接種をすると同調圧力が生じ、接種しない(できない)生徒に対して「ワクチン差別」が発生すると問題になった。文科大臣がそれを理由に、学校での集団接種を取りやめた。
なんてことを、と思った。
そういう差別があるとなれば、それに対して差別をしちゃならないと教育するのが、学校現場ではないのか。集団接種が「同調圧力」を引き起こすなら、それをこそ契機として、差別をしてはいけないと実地教育することができるのではないか。それを、集団接種を取りやめるというのは、逃げ出すことじゃないのか。そう思った。差別を解消するには、「同調圧力を解消しなければならない」と考えたとしたら、それが生じたところで取り組んでこそ、教育「現場」だ。もし文科大臣が、いやいやそうは言っても、現場に取り組む力はありませんと考えて、集団接種を取りやめたのだとしたら、とても手が出ませんでしたと一言添えてもいいくらいだ。
この文科大臣の勘違い、つまり「現場」で一つひとつ取り組まなければ、差別なんて解消しないと見極めて、それぞれの現場で、それぞれの事情に見合った取り組みをしてこそ、差別解消の動きがつくれる。一般的に差別をしてはいけませんと呼びかけて、それが通るのなら、ほとんど差別問題というのはモンダイにすらならない。そういう言葉じゃなくて、そこで起こったことに向き合って対策してこその、教育活動なのだ。
伊坂幸太郎の『モダンタイムス』は、「小さなことのために働く」というのがキーワードになって、先行きの明るさへとつないでいる。モンダイタイムスのシステムに対して、ちっぽけな存在である私たち一人一人がどのように「世界」と向き合っていけばいいか、その一つの方向性を示している。そういう意味でも、絶妙な因縁、「わたし」の時宜に適した小説に出逢ったと思った。
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