2021年7月21日水曜日

「校則」のようなプレーブック

 コロナ対策を関係者に周知するための「プレーブック」の些細な規定(15分程度の外出は認める)が、物議を醸している。そういう規定を設けるから、外出してバブルに穴が開くんだよとか、誰がチェックするのか、そういう要員を配置できるのかなどと囂しい。

 聞いていて、思わず、昔の高等学校の「校則論議」を思い起こした。

 30クラスほどもある一つの高校で「髪を染めない」とか「スカート丈を短く詰めない」という「校則」を実施するときに、「染めてない、地毛です」と言いはる生徒にどう対処するか。スカート丈を「膝まで」というのは、膝に少しでもかかっていればいいのか、膝上何センチまで認めるのかと、教師間でやり取りするバカバカしさ。30年も前の話。

 校則を厳密に実施させ守らせようという教師とそんなことワシャ知らんよと素通りする教師がいる。すると職員室で、互いにぶつかって罵り合う事態に発展したりする。「校則」を守らせることが担任教師の第一歩と考える教師は、いい加減な教師に対して攻撃的になる。詰め寄られる教師は、そんなことは教師の「本務」ではないと思っているから、ますます他人事のように応じる。

 間に立って困るのは、学年主任など学年全体を総括する立場の教師あるいは、生徒指導部とか生活指導部という「秩序」の要に当たる役割りの人。

 なんで「校則」があるのかと考えると、大きな絵柄が浮かぶ。学校を学校たらしめるため、生徒を生徒たらしめるため。どういうことか。

 学校というのは、その社会に共通の文化のベースを次の世代に継承するためのもの。つまり、そもそもが保守的な性格を持っている。ところが世の中は凄まじい勢いで変わってきている。子どもたちもその渦に呑み込まれて、おとなしく机に向かっているわけではない。高校生ともなると、親や大人世代に対する反発もあるから、意識的に「秩序」に逆らいもする。ただの野放図と反逆とを見分けて、野放図に「場」を(身をもって)心得させるがの、保守的文化伝承の真髄。つまり、髪を染めたりスカート丈を短くしたりするのは、「場の気風」にそぐわないと体に伝えるのが、「校則」だということだ。

 ところが世の中は、すでに、「場の気風」なるものを自由にせよというふうに変わってきつつあった。バブルの時代を通して、大人の価値意識も大きく変容した。つまり伝承するべき文化(の身体性の部分)が消え始めている。古い文化をぶち壊せって気分も結構大勢になってきた。つまり文化の伝承という学校の性格が揺らいでいたのだ。dめおそれは、小中久高を通して共通の事態。

 高校に現れる揺らぎは、学校での文化の伝承を理知的部分に特化する方向へ舵を切って、世の中と折り合いをつけていった。「学力」をつければいい、「進学」や「就職」に有利になればいい、と。つまり、まったき競争序列の中に学校教育を投げ込んだのであった。勉強なんかしたくない子どもだっているのに・・・。高等学校は、いわば「学力」別に序列化されていった。進学に力を入れる私立高校は当然上位に位置するようになる。新興の私立高校も、スポーツや特進クラスを設けたり、一部だけ学力を高くするように募集定員を絞って、学習塾の公表ランクを上げる凝った手立てを講じて、公立高校よりも上位に位置するようになった。

 その結果、公立高校に何が起こったか。高校だけは出てくれという親の願いを聞き入れたかたちで、スネかじりをつづけるために勉強などしたくもないと思っている子どもたちが押し寄せた公立高校の「底辺校」は、教室秩序を保つこともできないほどのアナーキーな空間になった。でもそれはいっときのこと、モンダイの彼らは学校をさっさとやめて街に出ていってしまう。街に出るのもコワイという残った生徒たちは、さりとて勉強に向かうわけでもなく、居場所がないから学校に来ているという格好になって、通ってきては、勝手気ままに過ごす。

 その秩序を、学校的な格好をつけて保つにはどうするか。それが、「底辺校」の教師たちの課題となった。

 さて、話を本題の戻す。

 オリンピックの「プレーブック」が実施過程に入ったときに、果たして実効性は担保できるのかという疑問は、自由社会の気随気ままなヒトの振る舞いが、どう展開されるのを、どう推し図って、「言葉」にするかを思案する、教師たちの困惑に似ている。

 教師たちと違う困惑のひとつは、諸外国の人たちとの文化の違い。プレーブックの「規定」をどう受け取るかという違いもある。何しろ、振る舞いは身に染み付いた習性のようなもの。ハイハイと受け止めて、あとは言い訳をどう上手に組み立てるかによる。15分という外出規定も「迷子になった」といえば、規定オーバーだとして退出命令を出せるほどの「権力性」は、日本にはない。あったら、コロナウィルスにだって、「自粛」だ「酒類提供の禁止」だと騒ぎにはならない。ロックダウンすればいいのだ。だが法的な規制ができるかどうかではなく、「おもてなし」の精神にそぐわない。そう、状況適応的jに物事を判断する気風を持つ日本人は受け止めている。

 じゃあ、プレーブックは、何なの?

 主催者の、国民向けの言い訳。やるべきことはやった。できないのはモンダイの人たちが勝手なんだから、と。「無責任宣言」と言ってもいい。うまくいかなかったときの防波堤。文句をつけてくる人たちへの邪気祓い。

 去年からの成り行きを見ている日本国民は、ま、勝手にやってもいいけど、困るほど迷惑はかけないでねと、主催団体の関係者や主催してはいないがいいとこ取りをしたい政治家や政府の関係者たちに、静かに願っている。民度が高いから、政治家は困らない。

 それくらいの空気が読めなくて、どうする。誰に向かっていっているのか、わからないが、KKYとか、郷に入っては郷に従えと、年寄りはつぶやいている。

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