斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社親書、2020年)には、立論の軸が二本ある。一本は、マルクスの「資本論」とそれ以降のマルクスから打ち出される資本主義批判。もう一本は、斎藤が身を置いている資本主義社会の現在に立脚して、前者の批判する(マルクス主義的)資本主義の矛盾を取り出して批判を重ねる軸である。
この両者の立脚点の違いが、なぜか明らかにされないまま論述が展開される。前者は、彼が学び研究した意識的な軸。後者は、これまでの生育歴中に身に刻んだ生活文化を所与のものとした軸。その両者の、時代的な大きなズレをどう意識しているのか、言葉にしていないから、疑念が湧いてくる。
たとえば、俗にいう「絶対的窮乏化」を、労働力の商品化に端を発する疎外として、窮乏化と記述する。だがそれは、「わたし」の経てきた身の実感と大きく異なる。斎藤自身も、自らが研究活動を続けてくることのできた環境の「幸運」を算入して考えれば、それがマルクス哲学のいう「疎外」であれ、資本家社会のもたらす「格差の拡大」に取り囲まれていたにせよ、資本主義日本社会のもたらした「幸運」であったと否定できないはずだ。「一億総中流」と言われた社会的な体験が、「絶対的窮乏化」とは異なる感懐を人々にもたらし、それが一層、バブル崩壊後の「中流」の解体と経済格差の両極端化にもかかわらず、人々を厳しい雇用関係におくことを促進したことを、どうみているのか。
となると、「窮乏化」を論述するには、経済的な「格差」から生じることではなく、社会心理や哲学的な領野に踏み込んで書き記すしかないと思われるのだが、そこをぽんと飛んでしまう。読む者としては、彼が飛んだところで、身に刻まれた感情が沁み出て来るから、実感とズレるギャップを感じて戸惑う。
なぜ、こうなるのか? 一つ思い当たるのは、わが身にも覚えがあることだから、文体の放つ臭いで感じられるのだが、斎藤幸平が機能的な読み取り方をしていること。
たとえば「大分岐の時代」と標題して、気候危機が「帝国主義的な生活様式を…見直せという厳しい現実」を突き付けていると現状が引き返せない分岐点であると指摘する。そして、
《その結果、権威主義的なリーダーが支配者の地位につけば、「気候ファシズム」とでも呼ぶべき、統治体制が到来しかねない》
と警告する。
《そうして、「社会主義か野蛮か」というローザ・ルクセンブルクの警句が二十一世紀の大分岐点において、再び現実味を帯びる》
と記すのだが、おいおい、スターリン主義の時代を歴史的体験としている人は「社会主義も野蛮か」と読み替えなければならないような苦い経験を知っている。それをどう評価するのかに触れもしないで、ローザ・ルクセンブルクの言葉を引用などするなよと、思わず声を出したくなる。そういう時代背景をぽんと飛び越し(今のヨーロッパの知的論壇の雰囲気に身を移し)て、平然としているのは、機能主義的な関係の受け取り方をしているからにほかならない。ローザ・ルクセンブルクが生きた時代に、そして現在の時代に、介在する人間の心裡に視線が届いていないからではないか。私もアラサーの1970年代にやっと、そこへ踏み込むようになった、とわが身を振り返っている。
その証のようなポイントがもう一つある。「使用価値」をとりあげている部分。
資本家社会が「商品化」することによって、「使用価値」を蔑ろにしていると批判しているところである。では、交換を通じて「価値」が表現されるメカニズムとそれを介在する「貨幣」をどう評価するのか。それに触れないで、資本家社会の経済ばかりでなく、市場経済を論じることはできない。当然貨幣の物神崇拝性をどうみるのかを見過ごすことはできないはず。だが、斎藤は「使用価値」が直に取引されるような幻想に持ち込んで、人と人との関係が浮かび上がるロマンをあおっている。
今の市場規模、人々の過ごしている交換の広がりとそれを媒介している貨幣の働きを当然とするなら、その両者を往還しているアソシエーションの動きを、単純に「使用価値」を前面に押し立ててすませるわけにはいかない。柄谷行人もそこを通過しようと模擬通貨までイメージしていたではないか。
むろん、現場での試行錯誤が積み重ねられてネットワークは改良されていくしかない。とすれば、「革命」を叫ぶのなら、ソビエトや中国の現実、東ヨーロッパの試行錯誤を、経済過程だけでなく、地方分権的な要素を組みこまず、ネーション・ステートの「経済計画」一本槍で、中央集権的にコミュニティの解体をすすめてきた近代化のプロセスをも批判的に振り返らないではいられないと思うが、斎藤はその点に関して、分権的な視座を提示はしていない。
ここには、たぶん、斎藤幸平の「人間観」が関係してくると思われるのだが、それはまたの機会に。(つづく)
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