2021-7-11「ことばをどう身につけたか」につづけます。
般若心経の「眼耳鼻舌心意」が、仏教でいう人の感覚。第六番目の感官が「意」、つまりコトバです。「第六感」を広辞苑では、「五感のほかにあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心のはたらき」と説明しています。
「心」については、前回説明しました。五感の「触覚」に相当するものとして「痛み」や「喜び」、「悲しみ」や「気の毒」という「(人との)関係を感知する感覚」です。「意」とは異なる一つの感官として「心」は提示されていますから、広辞苑のように「心のはたらき」と説明すると、折角「心」と「意」とを分けた甲斐がありません。
一般に通用している「第六感」は、広辞苑の説明と少し異なります。
wikipediaは「第六感(だいろっかん、sixth sense)とは、基本的に、五感以外のもので五感を超えるものを指しており 、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きのこと 」としています。後半部分は広辞苑と同じですが、「理屈では説明しがたい」というところが、方向感覚(微弱な電場などの感知能力)とか空間認知とか本能的に潜在している感知能力を指しているようです。みえない霊威を感じたり、遠くに起きるモノゴトを素早く感知する超能力的な感受性を表すと、「six sense」はみてきました。「直感」とか「霊感」ともいわれますが、(人に当てはめてみると)自分を抜け出して外から鳥の目でみるような感覚を指していると考えると、誰もが普通にもっている感覚に近い能力だと思えます。「空気を読む」というのもこれに当たりますね。
般若心経は普通に、人が感知する感覚の「意」にふさわしい「感覚」として「ことば」を取り上げたのだと私はみています。「眼耳鼻舌心」の五感も、人によりその鋭鈍の感受性に違いがありますが、誰にも備わっている才覚です。仏教では「心」と「意」もそれと同じ、人の本質的な属性とみています。六つの感官が並列しているのではなく、重層的に折り重なって、動いています。般若心経で謂う第六感・「意」は、感官全体を意識的に統合する役割を担っています。
ことばを人が誕生後に身につける後天的な能力と考え、「本能的」感官とは別と、一般的には考えられています。だが、仏教ではそれもヒトのクセと位置づけました。「心」や「意」の土台部分は、生まれながら身に備わっているとみているともいえます。そこが面白いと私は受け止めてきました。
例えば犬のみる世界は、カラーではなくモノクロームだといわれます。しかし犬は人の何百倍も嗅覚が発達していて、匂いをかぎ分けるといいます。また、カエルは動かないものはまったく識別できず、しかし動くものは鋭く見つけて舌を伸ばすとも言います。サケマスや渡り鳥が生まれ故郷に帰ってくるというのも、それにあたります。つまり、生き物それぞれに感知して活かしている才能部分は異なるのですが、ヒトには、関係を感知する能力とことばを繰り出す能力(の土台)が備わっているというわけ。つまりクセです。
言葉によってつくりだされる「せかい」のモノゴトの目に見えるもの、イメージできることを、般若心経は「色」と呼びました。「かたち」です。「かたち」あるものは、いずれ、崩れる。人が抱いたイメージ(というかたち)も、時と場合が変われば、たちまちに崩壊する。だから執着してはいけません。こだわってしがみつくのは、ほんの一瞬の夢のようなもの。それを「色即是空」といいました。逆に、いまかたちになっていないものでも、混沌の海から紡ぎだすように引きだして来れば「かたち」あるものになる。「空即是色」というわけです。その作用の仲立ちをしているのが、コトバです。
ヒンドゥ教の(混沌の海からモノゴトを綱引きして取り出してくるという)「乳海攪拌」が「せかい」をつくりだすことになるというのが興味深いのは、私たちの生長とともに「せかい」が現れてくる実感に見事に沿っているからです。般若心経はそれを彼岸から眺めて記述しているのです。
誰もがもっている「意」という第六感(の土台)を鋭く磨いていくのは、いうまでもなく誕生後の成長です。生まれ落ちたときの(両親・兄弟という)環境、育っていくときの周囲のもたらす言葉の嵐、そして大きくなってからの友人や学校、本や新聞、テレビ、映画などと向き合う学習によって、コトバは磨かれていきます。世界を知るというのは、ことばを身につけることと同じなのです。
あなたはいま、「混沌」の海から、言葉の綱引きをして「せかい」を取り出していますか。
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